158 女児たちと水族館5

 イルカが去り、パフォーマーが姿を消すと、別の音楽が鳴り始めた。と同時に、客席に沿ってある通路の左端のところから、歓声が広がっていく。


 見ると、アシカと飼育員の男性がそこにいた。男性は白髪交じりのおじさんで、ベテラン飼育員であることがぱっと見でわかる。どうやら今から、アシカパートが始まるらしい。「まずは挨拶しましょう! こんにちは~!!」


 ボディスーツに身を包んだおじさん飼育員がそう言うと、客席から子供たちの「こんにちは~!」という声が聞こえる。


「こっ、こんにちは~!!」


 斜め前にいる香澄も、顔を赤くしながら一生懸命叫んでいる。


 微笑ましい気持ちになりながらアシカを見ると、前ヒレをパタパタさせて挨拶していた。それを見て、香澄の様子に異変が起こる。


「か、かっ、かっかっ、うぐっ」

「香澄、落ち着け。かわいいかわいい言い過ぎて、かわいい言えなくなってんぞ」


 俺が背中をさすってやると、そこで自分がハイテンションになっていたのにやっと気づいたのか、彼女は頬を赤くする。もともと興奮で顔が赤くなっていたのと、日差しに当たったこともあり、もう真っ赤っかだ。


「この子の名前はタロウって言います。そうです、お名前のとおり男の子で、小さく見えますが実はもう17歳。花のセブンティーンなんです!」


 おじさん飼育員がそう言うと、タロウはくいっと首をかしげる。その仕草はどこかかわいこぶっているように見え、温かい笑いが広がる。


「さて、今日はじつはお友達が来てるんです。皆さん、一緒に『おいでー!』って呼んでもらえますか? いきますよー、せーのっ!!」

「「「おいでーっっっ!!!」」」


 会場中に大きな声が広がり、中央ステージに別の、まだハタチそこそこに見える、若い男性飼育員と一匹のオットセイが登場……すると思いきや、途中でそのオットセイは歩みを止めてしまった。


 一瞬、緊張した空気が広がるが、青年飼育員がエサを目の前に出すとパクンと一飲み。それを何度か繰り返すと、なんとかステージ中央に到着した。


「この子の名前はココハ。かわいい名前のとおり女の子で、じつは今日は、記念すべきショーデビューの日なんです!」


 青年飼育員の宣言を受け、客席から優しい拍手が広がる。そんな様子を見て、俺は香澄に話しかける。


「出てきたな、ココハちゃん」

「先に出てたのがアシカで、イルカ・アシカショーだから、ココハがオットセイだってのは秘密なんですかね?」

「まあ、ブログ読んだ人はわかることだから……」

「いやでも、ブログ読んだ人こそ変な気持ちになりそう」

「それは、うん。だな」


 香澄の言うことはもっともだ。


「それはさておきココハちゃん、出てくるとき、ちょっと戸惑ってましたよね?」


 心配そうな表情で、香澄が不安を口にする。


「ああ。これだけ人が多いんだ、無理もない」


 香澄と絵里子は心配そうな顔のまま、コクンとうなすく。


 一方、琴葉はじっとココハの様子を見つめていた。その手は膝のうえで、ぎゅっと握られている。


「ではまず音楽に合わせてダンスしていきましょう! ココハ、は~いくるっと回って」


 青年飼育員が音楽に合わせて一回転してみせる。


 しかし、ココハは人の多さに気圧されたのか、その場で固まったままだった。


「ちょっと緊張しちゃってるみたいですねー。皆さん、『がんばれ~!』って応援お願いします!」


 そう言うと、青年飼育員はふたたびココハの前にエサを差し出し、それを追わせるようにして一回転させた。自主的な回転ではなく、もはや誘導である。


「おい、これって大丈夫なのか?」

「なんかうまくいってない感じですね」


 俺が不安を声にすると、心配そうな表情をした香澄がそれに合わせる。


 一方、先に出ていたアシカのタロウは、器用にダンスを踊った。おじさん飼育員の合図に合わせ、右ヒレをあげ、左ヒレをあげ、くるっと2回ほど回ると、最後はヒレを大きく上げて投げキッスに似た素振りを見せる。おじさん飼育員のMCは非常に軽快で、会場全体を和やかな雰囲気にしていく。


「次はボール遊びをしましょう! まずタロウがお手本を見せますね。なんとタロウは、ボールを鼻のうえでキャッチして、10秒間落とさずにキープすることができるんです」


 そう言うと、おじさん飼育員はタロウに向かってボールを放る。すると、タロウはそれをしっかり鼻のうえに乗せると、体の伸ばしたり、逆に縮めたりして落とさないようにキープした。光沢感のある体は意外と伸縮性がある感じで、言い方は悪いが、なんだか大きななめくじのようだ。うん、言い方が悪かった。


「じゃあ次はココハの番だねー!」


 台本通りに進行しているのだろう。見計らったかのようなタイミングで、青年飼育員が声を出し、

おじさん飼育員からバトンを受け継ぐ。


 ずっとタロウとココハを見ていたので気づかなかったが、観客の多さに気圧されているのはココハだけでなく、青年飼育員も同じなようだ。元気に笑顔で喋っているが、よくよく見るとボールを持つ手が震えている。


「あの人、緊張してるね」

「わかるのか、琴葉」


 俺が尋ねると、琴葉は小さくうなずく。


「ひよ姉が言ってたんだけど、声ってある意味コントロールしやすくて、だから震えを抑えるのも比較的簡単らしい。だから小説やマンガで緊張した人が声が裏返るって描写があるけど、あれは都合のいいウソなんだ」

「わかる気がする」

「でも、手とか足とかって制御が難しくて、体の中心から外れているから意思も届きにくいんだって」

「なるほどな」

「でも逆に考えれば緊張する余裕は、まだあるってことかも」

「どういうことだ?」

「本当に緊張するときは、頭が真っ白になるから、緊張してるってことすらわかんないんだって」


 医学的に本当にそうなのかはさておき、中野のキャリア・経験を考えると、説得力はそれなりにあると感じる。と同時に、子供の頃から芸能界にいた中野は、きっとこういう場面を何度も経験してきているんだろうな……などと思う。


「じゃあまずは、ボールを返すところからしようか。これ、すっごい地味なんで、皆さん覚悟してくださいねー」


 だが、青年飼育員はすでに覚悟を決めているようで、元気に進行を続ける。もしかすると、彼の緊張に気づいている人は、この会場の中にはほとんどいないのかもしれない。いるとすれば、小声で会話をしていた俺と琴葉と、タロウと一緒にいるベテラン飼育員くらいだろう。


 そして、彼がココハに向かってボールを転がすと、ココハはそれを前ヒレで打ち返し、ボールが青年飼育員のもとに戻る。微笑ましい成功に観客から笑い声と拍手が送られる。


「上手に出来ましたねー! じゃあ次は、タロウと同じように頭にボールを乗っけて、落とさないようにしてもらいます。ココハちゃんはできるかなー?」


 そう言いながら、青年飼育員はボールをふわっと上にあげる。


 ココハは頭を寄せていくが、鼻より少し上に当たってしまって、ボールは変な方向へと転がった。


「一回じゃなかなか難しいみたいですね。もう一回チャレンジしてみましょう」


 しかし、その次もココハはキャッチに失敗。さらにその次も失敗すると、観客たちの間に心配する空気が広まり始める。


「ココハ、ちょっと集中力切れてきてない?」


 香澄に言われてみると、たしかに辺りをキョロキョロ見て、落ち着きを失っている感じだった。小学生向け声優講座のとき、集中力を失った子供があんな感じだったからよくわかる。


「切れてるな、あれは」

「ショーデビューがこれだけ満員っていうは、考え方次第では不幸なことなのかもしれませんね」

「……いや、それは違うと思う」


 俺と香澄の会話に口を挟んできたのは、他の誰でもない、琴葉だった。


「いつデビューしようといつかは満員のお客さんの前でしないといけないワケだし。ここがきっと、ココハにとっての勝負の時なんだよ」


 そんなことを話している間に、ステージ上に異変が起こる。度重なる失敗に心が折れたのか、ココハがステージ上から去ろうとしたのだ。


 当然、観客たちは騒然とするが、青年飼育員がエサでなんとかそれを制止し、頭を触って耳元でなにやら言い聞かせる。


 そして、ふたたびステージ中央に戻ると、青年飼育員が元気に声を出す。


「ココハちゃん、じつは結構繊細な性格の子で、少し緊張しちゃってるようです。でも、練習ではいつもできることなので、最後にもう一回やってみましょう」


 すると、子供たちが「がんばれココハー!」と声を出す。そこに中高生やカップル、家族連れなど、老若男女さまざまな声が重なり、スタジアム内は応援一色になった。


「がんばれココハー!」

「諦めるなー、ココハ!」


 当然ながら、香澄や絵里子も声をあげる。


「ココハ、負けないで!」


 そして、琴葉がありったけの声で叫んだその瞬間。


 パフッ……とボールがココハの鼻の上に乗っかる。そかさず青年飼育員が「いーち、にーい」とカウントし始めると、観客は手拍子を送り始める。


「さーん、しーい!」

「ココハ、頑張って!」

「ごー、ろーく!」

「ココハ、自分の殻を破れーっ!」

「なーな、はーち!」

「自分に勝って! ココハ!」


 無我夢中で、琴葉が叫んでいる。その様子を見て、それまであれだけ興奮していた香澄や、手拍子するのを忘れて見入っていた。もちろん俺の隣にいる絵里子も同じだ。


「きゅーう、じゅーう!」


 十回目のカウントが終わると同時に、会場内がはち切れんばかりの拍手に包まれる。見渡すと、みなが笑顔で微笑ましげな表情だ。また、ステージ脇からその様子を見守っていたおじさん飼育員も、嬉しそうに拍手してうなずいている。


「ココハ、おめでとう! がんばったね!」


 青年飼育員がココハの頭を撫でて、ご褒美のエサを数回あげる。


 そして、音楽が鳴り響くなか、ココハたちはステージ脇へとはけていった。



   ○○○



 イルカショースタジアムを出ると、俺たちは館内に戻った。目的は単純。体を冷やすためだ。ただでさえ暑いのに、熱くなってしまったのだから仕方ない。


 ペンギンやアザラシなどの水槽が並んだエリアで、並んでイスに座る。日陰とは言え、炎天下の中でショーを見たのだから、体力的な消耗はなかなか激しい。


 絵里子はトイレに行くついでに、4人分のペットボトルを買いに行ってくれた。彼女のことだ、もしかするとついでにアイスとか買ってくるかもしれない。


「いやー、ショー良かったな」

「ですねえ。イルカもアシカもオットセイも、みーんなかわいかったです」


 香澄が頬に手を当て、うっとりしながら述べる。


「ココハ、うまくいって良かったよな。なんかちょっと感動した」

「私もです。正直、見る前はどうしてショーデビュー目当てっぽい人がいるのか謎だったんですけど、わかりました」

「俺もわかったわ」

「ああいうことがあれば、虜になっちゃいますよねえ」


 さっきのショーでは、ココハの頑張りだけでなく、あの若い飼育員の頑張りも見えた。 人間とオットセイでも信頼関係は生まれるし、オットセイがなにかを乗り越えようとするとき、人間がそれをサポートすることができる。


 そんな感動に胸をいっぱいにしていると、琴葉がこちらを見ていることに気づく。


「どうかしたか、琴葉」

「ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど……」


 目を伏せながら話す様子から、真面目な話であることがわかる。なので、俺も真面目に返す。


「わかった。ちょっと聞いてやろう。4時間くらいでいい?」

「いや、若宮とそんな話すことないから」

「じゃあ2時間くらいにしとくか」

「まだ長いし。映画1本観れちゃうじゃん」


 ウソだ、真面目には返さなかった。どちらかと言えば不真面目に返した。


 そうしたほうが、きっと琴葉は話をしやすいと思ったのだ。


「でも、ありがとう」


 そして、そんな俺の思いが通じたのか、琴葉はクスッと笑い、意を決したように大きく息を吸い込むと……


「私が不登校になったのは、ひよ姉が原因なの」


 俺と香澄に対して、そんなふうに言い放ったのだった。

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