156 女児たちと水族館3
そして俺たちは、イルカショースタジアムにやって来た。
多くの水族館で定番の人気を誇る施設だが、江ノ島水族館も例に漏れず人気で、ショー開始20分前に訪れたのにすでにほぼ満席だった。家族連れ、カップル、学生の集団、散歩がてらふらり寄ったという雰囲気のご老人……などなど世代も幅広い。
ちなみに4人全員で隣り合った席は確保できず、俺たちは前後に分かれて2席ずつ座っている。前が琴葉と香澄、そして後ろが俺と絵里子だ。
「こんな混んでるんだね……いや、びっくりだなぁ」
「絵里子さん、大丈夫ですか? 気持ち悪そうですけど」
「人が多すぎて、なんか人酔いしたみたいでさ」
「そうですねえ。夏休みとは言え、ですね」
ポロッとつぶやいた絵里子に、香澄が心配そうにたずねる。絵里子はハンカチでおでこに当てており、汗を止めているのか頭を抱えているのか、という感じだ。
たしかに絵里子の言う通り、夏休みであることを考慮しても、なかなかの混雑っぷりだった。この水族館は小学校の遠足などを入れると今までに何回も来ているが、後ろのほうには立ち見の人がいるのは初めて見る光景だった。
おまけに、夏ということもあって暑い。このイルカショースタジアムは、観客席のほとんどに屋根がある。なので基本的に観客は直射日光は当たらないでいられるのだが、それでも屋外なので十分暑い。じっとしていても汗がしたたり落ちるくらいだ。
と、そこで俺は異変に気付く。
「琴葉……?」
ちょうど俺の前に座っている琴葉を横から見ると、顔色がすごく悪かったのだ。なんなら、絵里子
よりよっぽどグロッキーな感じだ。さっきと同じようにイヤホンで音楽を聴いているせいで絵里子と香澄の会話に参加していないのだと思いきや、実際は違ったようで、イヤホンも耳から外れていた。
正直、もうあんまり口うるさく言いたくない気持ちもあったが、こうなっては保護者としては心配しないワケにもいかない。
「琴葉、顔色悪くないか?」
「……悪くないかって、鏡ないし私にはわかんない」
「またかわいくない返事しやがって。もっと素直に言えないのか?」
「素直さなんてないから私には……若宮が顔色悪いって思うなら悪いってことでしょ」
「白いというか、青白い感じだな」
「……これだけ人がたくさんいる場所に来るの、久しぶりだったからかな」
口ぶりこそ相変わらずの生意気さだったが、まあでもコミュニケーションを取ろうとしてくれるだけ御の字か。そう考えるべきだろう。
俺はリュックから水筒を取り出すと、それを注いで琴葉の前に出す。暑くなるのを予想して、家でスポーツドリンクを入れてきたのだ。
「ほら飲め」
「いやいい」
「いいワケないだろ。ほらはやく」
有無を言わせず口元にカップを押しつけると、琴葉は一瞬、苛立った表情を見せるが、諦めたのか口を小さく開ける。カップを傾けると少しずつ、スポーツドリンクがその横に狭いおちょぼ口の中へと注がれていく。
カップが空になると、琴葉はそれを俺の手から奪い、「んっ」と手を伸ばして差し出した。苛立ったように俺を睨みつけるが、怒っている感じはない。早くしろという意味なのだろう。
求められるまま俺がもう一度カップを満たすと、琴葉は黙って飲み始めた。2杯目だがペースは落ちていない。よほど喉が渇いていたのだろう……と思って、俺は黙って水筒ごと琴葉に渡した。
そんなことをしていると。
「あ、なるほど」
斜め前にいた香澄が小さくつぶやいた。
「そういう理由で混んでるのか」
なにかと思って覗き見ると、スマホをぽちぽちしている。
「どういう理由?」
「じつは今日、イルカ・アシカショーでデビューする子がいるんですって」
「ショーデビュー?」
「はい、ミナミアメリカオットセイの子で」
そんなふうに言いつつ、香澄は俺たちにスマホを見せる。画面に表示されていたのは、ここの水族館の飼育員さんたちが綴っているブログだった。
そう言われると、たしかに観客のなかにオットセイの写真をうちわに貼り付けたりしている人の姿がチラホラ見られた。常連になると、ショーデビューを目的に来る人もいるんだな。アイドルグループの新メンバーお披露目公演みたいな感じなのだろうか。
「でも、オットセイ? アシカじゃないの?」
絵里子が首をかしげながら香澄に尋ねる。イルカ・アシカショーなのにオットセイが参加する、ということが理解できないようだ。
言われてみれば、オットセイ、アシカ、アザラシの違いってどこなんだろう。学習指導要領内のことは大抵暗記している俺が知らないということは、生物の教科書には載ってなかったに違いない。
「では私が説明しますね」
すると、待ってましたとばかりに香澄が後ろを振り向いて身を乗り出す。どうやら予習済みらしい。
「まず、オットセイ・アシカ・アザラシは鰭脚(ききゃく)類で、食肉目に属しています。食肉目はアシカ科、アザラシ科、セイウチ科の3つに分かれてて、オットセイはじつはアシカ科です」
「へえ、オットセイ科じゃないんだ」
絵里子が驚いて目を見開くと、香澄はいい指摘ですねというふうに指を立てる。
「アシカとオットセイの違いは2つ。1つは後ろビレのアシユビ、私たちで言うつま先ですね。オットセイのつま先が揃ってるのに対し、アシカは不揃いなんです。あと1つは耳で、アシカはオットセイに比べて耳が小さいです」
「ほうほう」
「アシカとアザラシの違いは前ヒレのかぎ爪です。アザラシにはこれがあるんですが、アシカにはないんです。で、アシカとアザラシの違いは後ろのヒレの有無で、これのあるアシカは体の下にたくし込むことで歩くことができるんですが、後ろのヒレがないアザラシは前ヒレを使って這うか転がって移動するしかできません」
「なるほど……ってことは、結構似てない?」
絵里子が素直な感想を提示する。正直、俺も同感である。
体長とかもそこまで大きな差がないみたいだし、かぎ爪とかつま先とか、違うにしても些細な気がする。犬とオオカミとか、猫と虎くらいの違いがないと、別の生物とは認めにくいもん。正直なところ、ラッコ・アザラシ・オットセイは、人間で言うなら髪が黒いか金髪かとか目が茶色いか青色か……という程度の違いしかないのではないか。
しかし、そう思ったのは俺と絵里子だけだったよう。香澄は小さく肩を落とし、はあ……とため息をつく。
「絵里子さん、申し訳ありませんが全然違います」
「どこが違うの?」
「まず最初に、この3つは食用利用のされ方が違います」
「えっ」
「エスキモーやイヌイットが好んで食べるのがアザラシなんです。これは冒険家・植村直己が残した著書の中でも書かれていることで……」
「ちょ、ちょっと! これから見るのにそんな話やめてよっ!!」
「大丈夫です、今日出演するのはアシカとオットセイだけです。アザラシは出てません」
「いや、そういう問題じゃなく」
絵里子は顔面蒼白になっているが、香澄的にはアシカとアザラシ、オットセイはあくまで違う生き物らしい。
「エスキモーにとってアザラシはごく一般的な食事なのです。ちなみに、キビヤックという発酵食品は、アザラシのお腹を割いて内臓と肉を取り出し、そこに海鳥を数百羽詰め込んで縫合、地中に長期間埋めて作ります」
「あ、それ、『もやしもん』で見たかも」
「その、まさにそれです。ノイタミナ枠で放送された『もやしもん』に登場した、あの世界で三番目に臭い食べ物です」
「思わぬところで私のオタ知識が役に立った……役に立ってはないか」
「ちなみに、しろたんはタテゴトアザラシ、少年アシベのゴマちゃんはゴマアザラシ、サンリオのベビーアザラシはなんかのアザラシ、ぼのぼのはラッコです」
「香澄ってスゴいな。今の流れでよく実在するキャラの名前出せたな」
「いや、そんな褒められましても……」
「褒めてないから」
「ちなみに、おっとっとのキャラクター、とと丸はクジラです」
「あれは音がオットセイっぽいってだけで、イラストもクジラだからな」
しかも、サンリオのベビーアザラシについては「なんかのアザラシ」止まり。
細かい設定が開示されていないのか、それとも香澄が把握していないだけか。もうなんか今となっては正直どっちでもいい。
「結局……みんなそんな違いはないんだね」
すると、不意に琴葉がつぶやく。水分補給は済んだとは言え、暑さがこたえているのか、かなりテンションが下がっているように見える。
「私的には違いますが、まあ初めて見るとそうかもです。ちなみに繰り返しになりますが、今日デビューするのはオットセイの子です」
「オットセイね……イルカ・アシカショーと銘打たれてるのに参加させられるオットセイ、はたしてどんな気持ちだろうね」
「まあまあ」
皮肉っぽい口ぶりで言う琴葉を、いさめるように香澄が笑う。
「ちなみに、ココハちゃんって名前みたいです」
「こ、ココハっ!?」
と、思わぬニアミスに、琴葉が口に含んだスポドリを吹き出しそうになった。先程まですっかり興味を失っていたのがウソのように、身を乗り出して香澄に接近。手元のスマホを覗き込んでいる。
俺も軽く腰を浮かして覗き見ると、オットセイの写真の下にはたしかに『名前:ココハ』という表記があった。
と、香澄が振り向きつつ解説してくれる。
「ブログを読むと、ココハちゃんは警戒心の強い性格だそうで、最初はコンビを組んでる飼育員さんが触ろうとすると手を噛もうとしてきたらしいです」
「ほうほう、ココハは気の強い性格なんだな……」
「おまけに集団に馴染むのが苦手で、嫌なことがあるとトレーニング中でも部屋に帰ったり、逆に他の子とケンカすると部屋に帰ろうとしなかったり、難しい性格みたいです」
「ほうほう、ココハは気分屋で友達作りが下手なんだな……」
「でもココハはさみしがり屋な性格で、他の子といると八つ当たりするのに、ひとりは嫌がるそうです」
「ほうほう、ココハは構ってちゃんなんだな……」
「……若宮、なんで私のこと見てんの?」
そう言われて初めて、俺は自分が琴葉のことを見ていたことに気づく。しかも、身を乗り出していて、それもあって顔と顔の距離が10センチくらいになっていた。
琴葉はジト目になって睨んできている。
「私、オットセイじゃないんだけど」
「オットセイじゃない……アシカ?」
「アシカでもアザラシでもないから」
「良かった、それは安心だ。子供料金で入ったのに、出るときに『アシカ料金』とか言われたらどうしようかと」
「で、なんで見てくんの?」
「とくに深い意味はないけど」
「あんま私見てると、オットセイの話か私の話かわかんなくなるじゃん」
「ココハと似てるって自覚はあるんだな、琴葉も」
俺が困りつつ笑うと、琴葉はチッと舌打ちする。俺の対応に不満があったのか、それともオットセイと重なってしまう自分に不満があったのか。
「若宮のくせに……ふんっ」
そして、そんな捨て台詞を言いつつ、彼女は俺のおでこにデコピンしてきた。反射的に声が出るが、小さな手のデコピンは想像以上に威力がなく、痛みはすぐに消えた。
「うっとか言ったけど、全然痛くないわ」
「あっそ」
「むしろちょうどいいな……」
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い」
その胸元を俺から守るように抱えると、琴葉は体をのけぞらせた……が、すぐにそれも止める。文句を言いつつも、また自分と近い立場のオットセイが登場するとわかっても、琴葉はショーを観ることに決めたようだ。
そして、彼女は両膝に手のひらを置くと、ほんの少し身を乗り出す。それはショーをしっかり見ようという意思のあらわれのようでもあり、また俺たちに顔を見られないようにしようとしているようにも見えた。
「琴葉ちゃん、帰るって?」
俺と琴葉の会話がはっきり聞こえなかったのだろう。隣の席の絵里子が小声で耳打ちしてくる。
「いや、帰らないって。ショー観るらしい」
「そっか。なら良かった」
「良かった?」
「うん。私も、ココハちゃんのこと聞いてたら、なんか自分のこと言われてるみたいで……」
頬を赤くしながら、絵里子が照れたように笑う。
そう言えば、ここにもコミュ障で引きこもりな人がいたか……というか、歴で言えば琴葉なんて全然目じゃないレベルなんだよな。
それに、アザラシに感情移入する母親ってどうなんだよ。そう思うと、俺はちょっぴり切なくなった。
……いや違う。アザラシじゃなくて、オットセイか。
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