153 女児と修羅場2

「か、香澄っ!!?」


 急いでバッとドアを開けると、香澄はその整った顔を、少し不思議そうに傾ける。


「おはようございます惣太郎さん。もしかして今起きたとこですか?」

「そうだけど……えっと、どうしたの急に」

「どうしたのって、もしかして忘れたんですか?」

「えっと……」

「今日、私に勉強を教えてくれる予定でしたよね」


 その瞬間、俺の中にモスバーガーでの一幕が走馬燈のように浮かび上がる。


 終業式の前日。石神井、本天沼さんと一緒に過ごしていたところ、香澄と遭遇し、俺は週末に勉強を教えてほしいと言われたのだ。


 そして、そのために参考書や問題集を買おうと本屋に足を運んだのだが……よく考えると購入するのを忘れてしまっているではないか。琴葉とばったり会って、そのインパクトが大きかったせいで。なんなら約束とか参考書・問題集に限らず、香澄の存在そのものが頭から飛んでしまっていた。


 しかも、よりによって背後では女児がシャワーしている音が聞こえている。


(あ、これ詰んだかもしれない)


 俺は胸のなかでそう思う。


 こういう展開、ラブコメマンガとかラブコメラノベとかでよく見るし、とくに某将棋系ラノベでも最近あった気がするけど(オマージュ元)、実際に起こるとこんなに恐怖に包まれるものなのか……。


 さっき、あまりよく考えず走馬燈という表現を使ったが、それだけ人生終了に直面しているということなのかもしれないな……自分らしくない失態に、俺は冷や汗がたらりと背中を流れるのを感じる。


 と、そこで香澄が静かになる。


「惣太郎さん、もしかしてお風呂入ってます?」

「そそそ、そうなんだ! 今シャワー中で、あられもない姿になってる! だから開けられないんだ!!」

「そうなんですね……なら良かったです。てっきり、惣太郎さんに嫌われたのかなって」

「嫌う? なんで」


 香澄のしおらしい声に、思わず返答してしまう。


「だって私のお兄ちゃん、あんなんなので……ちょっかいばっかかけてますし、今日だって『花火あげるから窓に向かってぶっ放してこい』って言ってきたり」

「それ犯罪でしょ」

「なんとか私も断ったんですけど」

「すぐ断るべきだよそれは」

「そんなお兄ちゃんだから、惣太郎さんが優しいから付き合ってくれてるだけの可能性もあるなって……」


 そう言いつつ、カバンの中からなかなか大きめの打ち上げ式花火を取り出したのは内心かなり恐ろしかったが、心配しているのは本当のようだった。


「そんなワケないだろ。そりゃ石神井はちょっと、いやかなり変わってるかもしれないけど、俺にとって大切な親友だし、香澄はその妹ちゃんなワケだし」

「惣太郎さん……」


 俺の言葉が嬉しかったのか、香澄は笑顔になる。軽く涙ぐんでいたこともあり、笑ったことで目の縁に滴が集まって、それを手の甲で拭っていた。


「じゃあ、中に入っても?」

「あ、いやその……だからシャワーが」

「はい。シャワーが終わったらでいいので……あれ惣太郎さん。シャワーの音、止まってませんか?」


 シャンプーでもしているのか、琴葉がシャワーを止めたらしい。さっきまで音が聞こえていたので香澄は不審に思ったようだ。


「え、いやその……ノズル、ちょっと機嫌悪いみたいだな」

「そんなワケなくないですか?」


 マズい、これは本当にマズい。


 女子小学生がシャワー中ってだけでアレだし、しかもよく考えると俺は今、手に琴葉の下着を持っている。


 いや、べつにやましいことはなにもないので、事情を説明すればわかってもらえるはずなのだが、その事情を説明するのが難しい。香澄と中野は顔見知りだけど、石神井が中野家の事情を話しているとは思えないし……というかそんなことより、やっぱり下着×シャワー中の小学生ってとこで、乗り越えられる気がしない。


「ともかく中で待たせてください。暑いので」

「いや、それはちょっと」

「ふんふっふふんっふふふーん♪♪」


 そのとき、風呂場から鼻歌が聞こえてきた。普段は声が小さいのに、なぜか結構なボリュームである。これで二重人格説が立証されたぜ。


「ちょっと琴葉! 黙ってっ!!」

「えっ、惣太郎さん、もしかして中に誰かいるんですか?」

「い、いや誰もいないよ?」

「いないなら開けてくださいっ!」

「それはならんっ!」


 琴葉がドアノブを強く引っ張り始めたので俺も引っ張り返す。小学生女子対高校生男子なので力の差はあるのだが、残念ながら俺は片方の手で琴葉の下着、服を抱えているので半身しか使えない。


 必死でドアが開かないようにしていると、シャワーの音が鳴り止み、背後でドアが開く音がする。振り返ると水をボタボタしたた状態の琴葉が、脱衣所から顔を出していた。


「きゃあああああああっっっっ!!!」


 鳴り響く、俺の乙女な声。幸い、肩のところまでしか見えていなかったが、それでも叫ぶには十二分だった。もう後ろは見られない。


「えっ、惣太郎さんどうかしましたっ?」

「若宮、タオル……」


 朝シャワーしたにも関わらず、琴葉はまだ寝ぼけているようだった。なるほど風呂だと起きれてもシャワーだと足りないんですね。ここでまたひとつ新しい琴葉トリビアを覚えました。


「若宮って……惣太郎さん、誰かいるんですよねっ??」

「母親! 今の母親!!」

「母親なら若宮って呼ばないですよねっ!!」


 だんだん香澄の力が強くなっていく。


 そして、背後の注意が薄くなったそのとき、琴葉が俺にグッと抱きついてきた。


「若宮、もう立てない……やっぱシャワーじゃ無理……」

「おい、裸で抱きつくなっ!! タオルを巻けっ!!!」


 焦った俺はドアノブから手を離し、琴葉をタオルで巻いた。これで琴葉の裸は見えなくなる。すんでのところで一線を守った。セーフだ。


 と思うのと同時に、玄関の向こうから朝日が差し込んでくる。


 そこに立っていたのは、呆然として言葉を失っている香澄の姿だった。


「惣太郎さん、なんですかこれ」


 タオル一枚で俺に抱きつく琴葉を見ながら、香澄が俺に問う。


「えっとこの子は、その……」

「とりあえず、中に入って話しましょうか」

「……はい」



   ○○○



「ふー、やっとが目覚めてきた……」


 湯気の立つカフェオレを飲みながら俺の隣で琴葉がつぶやく。Tシャツにデニムの短パンを履いており、つまりさすがにもう裸ではない。


「琴葉、あんな朝弱かったんだな」

「そうだよ。悪い?」

「あれでよく昼飯のサンドイッチ毎日作ってるな」

「風呂に入ったら目、覚めるんだよね。ひよ姉から聞いてなかった?」


 あんなことになったのに、琴葉は少しも悪びれた様子がない。それどころか、まるで俺が準備を怠ったかのような言い方だった。


「聞いてたら預からなかったわ」

「なにそれ。てか琴葉って言うな」

「今の発言で、目が覚めたってのがわかったわ」


 そう言うと、琴葉の表情がハッと変わる。


 そして、俺の耳元に顔を近づけて小声で尋ねてきた。


「……もしかして私」

「言ったよ。俺に『琴葉って呼んで』って」

「うわマジかサイアク……」

「ついでに言うと抱きついてきたり、ニオイかいできたりもしてたぞ」

「若宮……お願いなんだけど死んでくんない?」

「いやなんでだよ」

「頼むって。聞いてくれたら一個なんでも言うこと聞くから!」

「いや死んだら聞いてもらえないだろ! てか死ぬこと求めておいて一個しか言うこと聞かないって鬼だなっ!」


 ツッコミを入れた俺だが、琴葉が本気でイヤそうな顔をしていたので内心、結構ショックを受けていた。おかしいなあ、昨日結構深い話をしたはずなんだけどなあ……。


「あの」


 そんなふうに俺と琴葉が口論していると、テーブルの向こう側から声が聞こえる。見ると、困惑と呆れで眉を八の字にした香澄が、俺たちをじっと見つめていた。


「なんだい香澄」


 できるだけ威厳を保つような口調で言うと、香澄が口を開く。


「乳くり合いはやめてもらっていいですか」

「いや、乳くり合いじゃねえから」

「そうだし。誰が若宮なんかに私のおっぱい揉ませるか」

「おい話をややこしくするな。今のはじゃれ合ってるって意味だ。てか母親の隣でそういうこと言わせるなって」


 香澄の隣には、新しいJSが来たことがいまいち理解できていない様子の絵里子がいた。琴葉を起こして風呂場に連行していたときはまだ眠っていたのだが、さすがに香澄が加わったことで、起きてきたのだ。


 なお、呆然とはしてはいるものの、琴葉である程度免疫がついたのか逃げ出さないで座っているところがポイント。短期間でかなりの成長を成長を遂げており、今こういう状況じゃなければ喜んでいたに違いない。 


 だが、俺がそう言うと、琴葉はさらにギロッと睨み、唇の端をゆがめる。


「え、じゃれ合った記憶なんかないんだけど?」

「あと若宮なんかにって言い方はないだろ。俺だってどうせ揉むなら……」

「どうせ揉むならなに? もっとおっきなおっぱいがいいって?」

「べ、べつにそんなことは……」

「えっと、話の流れ的に、見たんですね? 惣太郎さん?」


 少し傷ついた結果、若干ムキになって琴葉に反論していたが、完全に失策だったようだ。冷静なトーンで香澄が俺に尋ねてくる。


「えっと、その……」

「若宮、見たの?」

「それはその、琴葉が寝てたとき服はだけたりしてたから不可抗力というか……」

「キモいキモすぎるマジで死んでひよ姉に言うっ!!!」


 琴葉が目に怒りと涙をにじませながら早口で俺をなじった。先程までの甘々な要素は皆無ですっかり元通り、いやそれ以上のクソガキと化している。


「えっと、琴葉ちゃんですか? の声が小さくて聞こえないんですけど」


 俺はもうすっかり琴葉の発言を読唇術で補足しているのでなにを言っているのかわかるが、香澄はどうではないらしい。


「あ、すまない。この子、喉弱くて声が小さくてさ」

「そうなんですね……で、話を戻しますけど」


 そうして、やっと話は香澄との約束の件についてに戻る。


「確認ですが、今日の約束は忘れてたんですよね……?」

「はい……」

「もしかして私用に用意してくれるって言ってた参考書もまだ買ってない?」

「買ってません……」


 俺がすべて認めると、香澄は深いため息をついた。その表情には明らかに落胆の色が浮かんでおり、俺への失望を隠そうとしていない感じだった。小学生にこんな顔をさせちゃうなんて、ああ俺はなんて情けない男なんだろう……。


 しかし、である。


 その直後、彼女の口から放たれたのは意外な言葉だった。


「まあいいでしょう。惣太郎さんも人間ですし、ミスはありますから」

「そうだよねなんと謝罪していいのか……えっ、許してくれるの?」

「許すもなにも、忘れてたのはもう変えられないじゃないですか」


 そんな当たり前のことを聞きます? という感じで、香澄は首をかしげる。


「それに惣太郎さんが年下好きだったというのは、私にとっては有益な情報ですしね」

「いや俺、香澄のこと勘違いしてたよ。背伸びしてるのかと思ってたら、実際に大人だったというか……ん、今なんか年下がどうのこうの言ってなかった?」

「いえ、そんなこと言ってないですよ?」

「そうか……」


 香澄が澄ました表情をしていたのが気になるが、とはいえ許してもらえてなによりだ。


 そして、香澄が話をまとめるように、小さくコホンと空咳する。


「まあそんなワケですし、勉強会は別の日にしましょうか。私も自分用の参考書があったほうが嬉しいですし」

「そうだな、それが助かる」

「……でも今日どうしましょうか。私、今日他の予定入れてなかったんですよね」


 スマホを見ながら香澄は少々困った顔を浮かべた。壁にかかった時計を見ると、まだ午前11時。朝からいろいろあったせいで一日分の体力を軽く消耗した気がするが、時間はまだまだ残っている。


 と、そのとき。


 俺の脳内に浮かんだのは、昨夜の中野とのやり取りだった。


(たしかあいつ、水族館って……)


 そして俺は琴葉、香澄、絵里子を順に見ていったあと、


「あのさ……水族館、とかどうかな?」


 と、提案したのだった。

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