149 琴葉との夜2
歯磨きを先に済ませてリビングで読書していると、髪の濡れた琴葉が入ってきた。淡いブルーのTシャツにグレーの7分丈のジャージという出で立ちで、白い肌がすっかり赤くなり、白い桃のようになっている。一番最初に風呂に入ってもらったのだ。
「お風呂いただきました」
そう言いながら琴葉は扇風機の前に座る。よほど暑いのか7分丈ジャージを膝上までまくっている。その結果、あらわになったふくらはぎも赤くなっていた。
「もしかしてお湯熱かった?」
「んー……若宮家って何度?」
「何度? エアコンは28度だけど」
「お風呂の話だよ。マジめんどいな……」
「そこまで言わなくても……42度だけど」
「うち40度だからそうかも。ひよ姉、毎日1時間くらい半身浴するんだよね。台本読んだりしながら」
「へーっ! なんかスゴいね!」
絵里子が驚く。面倒くさがりで風呂嫌いな彼女には信じられないのだろう。
「しかも入り口にコップ2個おいて、そこに水と青汁入れて交互に飲んでるから。あとお風呂上がりは、豆乳と低脂肪牛乳とカルピスを混ぜた謎の液体も飲んでる」
「それは……美味しいの?」
絵里子が怪訝な顔で聞く。きっと俺も今、同じ顔をしている。
しかし、琴葉的にはもはや日常の出来事なのか、ぽーっとした顔をこちらに向けると。
「美味しいらしいよ。豆乳は無調整だから肌にいいんだって。あとはヨーグルトにハチミツ入れて毎日食べてる。腸内環境って風邪予防に大事らしいくて、それで乳酸菌。他にもストレッチとか筋トレは毎日欠かさずやってて、週に3日はランニングしてるかな」
「へ、へー。すごいストイックなんだね……私にはちょっと無理かなあ」
絵里子が顔を引き攣らせながら言う。なにかと自分へのご褒美としてマックのポテトやケンタッキーのチキンを購入し、俺に隠れて食べている普段を知っている俺としては、ちょっとどころじゃなく無理だと思った。
「じゃ私、次お風呂入ってくるね」
そして、絵里子が少ししょんぼりしつつ、お風呂へと消えていった。
一方、自分の言葉が絵里子のテンションを下げたとは思ってもいない様子の琴葉は、ドライヤーで長い髪をかわかし始めた。それを終えると、髪にオイルのようなものを塗り始めた。
「なにそれ」
「なにってオイルだけど」
「なにそれ」
「なんで質問同じ……髪の毛をツヤツヤにするの。ひよ姉が買ってくるからつけてる」
そう言えば、渋谷のロフト行ったときそういうの買ってたっけ……。
改めて見ると琴葉の髪の毛はツヤツヤだった。亜麻色の髪に枝毛は一本も見当たらず、なめらかに光り輝いており、オイルのせいか甘い柑橘系のニオイがただよってくる。小学生とはいえ、美意識の高い子はこの年頃からケアを始めているのだろうか。 ってか女の子ってこんな頑張ってかわいさ、キレイさを維持してるんだな……。
「さっき、電話してたのってひよ姉?」
艶やかな髪に見とれていると琴葉が尋ねてきた。手は依然としてヘアケアを続けており、顔はこっちを見ていないが、平静を装おうとして平坦になったイントネーションが逆に平静を保てていない感じだった。
「ああ、ひよ姉だ」
「だからひよ姉って言うなって何度言ったら……なに話したの?」
「琴葉がちゃんとしてるかってのと、あいつの仕事のことだな。ゲームばっかしてたってのは内緒にしておいたぞ」
「うん」
「仕事は無事に終わったみたいだ。だから心配することはないぞ」
「心配なんかしてないよ。ひよ姉はお仕事に関してはプロだから」
「だな。11年も一緒に暮らしてる妹さんには、言うまでもないことだったな」
冗談めいた口調で、俺は琴葉にそう言う。
しかし、琴葉はそれに少しも笑わない。唇が小さく震えているのに気づくが、それを指摘する前に真一文字に結ばれた。
(なんか、さっきまでと様子が違う……?)
そんなふうに思って、疑問が解決されないうちに、どこか不安定な声が俺の耳に届いた。「……若宮は、ひよ姉のことどう思ってるの?」
想定外の質問を受け、俺は反射的に顔を琴葉に向ける。
受け取り方次第では踏み込んだ質問だったため、一瞬、琴葉が冗談で言ったのかと思ったのだが、彼女は真面目な表情だった。声も少しうわずっており、真意はわからないが、ふざけているワケではないことが伝わってくる。
「人としてとか、友達としてとか、女の子としてとか……」
「……」
「だって若宮って、ひよ姉のことナンパしたんでしょ?」
「なっ!? な、ナンパだってっ!?」
思わず大きな声が出てしまい、自分で自分の声に驚く。
「まず補習の授業で声をかけてきて、そのあと音読の授業のあとで声をかけてきたって」
「あ、そういうことか。全然ナンパじゃないだろ……」
真相が判明し、思わず胸をなで下ろす。
てかそもそも、音読の授業のあとは声をかけたワケではなく、独り言を中野が聞いたってだけだったのだが、まあ今はいい。
「ちなみに、ひよ姉が『ナンパされた』って言ってたのか?」
「違うよ。私がそう思っただけ」
「はあ焦った。てっきり、中野がナンパだと思ってるのかと……」
「てかひよ姉って言うな……ひよ姉がそう思ってたら焦るの? なんで?」
「いや、今の焦ったはそういう意味じゃなく……この話、しなきゃいけない?」
思わぬ追求にタジタジになった俺が問うと、琴葉がそこに質問を重ねてくる。
「恥ずかしい?」
「正直、ちょっと……」
と言いつつ、正直ちょっとどころじゃなく恥ずかしかった。
恋愛経験がないのもあって、人のことをどう思ってるのかを言葉にする経験なんかしたことないし、そもそも人のことをどう思ってるかを考えるのですら、自分の心と向き合うみたいで恥ずかしい。相手が中野の妹というのも、シチュエーション的にむずがゆい。
しかし、琴葉は真面目な顔だ。
「若宮ってひよ姉のことが好きなのかと思ってた」
「いやなんで俺が中野のことを」
「じゃあ嫌い?」
「好きの反対は嫌いじゃなくてだな」
「無関心とか言うんでしょ」
「言うんです。正確には言おうと思ってました」
「じゃあ、好き、嫌い、無関心。この3つならどれが一番近い?」
「その聞き方はズルいぞ。誘導尋問でしかないし……あのな。人間の感情ってのはそう簡単じゃないんだ。琴葉のようなお子ちゃまにはまだわからないかもしれないけど、もっと複雑なんだよ」
「でも私の目には、若宮がひよ姉のこと大好きで猛アタックしてるように見えるよ」
「琴葉、それもう目医者行ったほうがいい。いや認知機能だから脳外科か?」
「そこまで言わなくても……若宮の評価、10段階中7から下げるよ?」
「2時間前から上がってるじゃねーか、ってのはよくて」
完全に手の平のうえで踊らされてる感じしかしない。
なので俺は話を戻す。
「だいたいな琴葉、人間の感覚なんて曖昧なもんなんだ。琴葉の目で見える世界が正しいとは限らない」
「人間の感覚って曖昧なの?」
「ああ、そうだ。じゃあ例え話をしよう。夏祭りの屋台で売られてるかき氷あるだろ? イチゴとかメロンとかレモンとか」
「あるね。かき氷食べたいなー」
「あれ、じつは味は全部同じなんだ」
「……え、そうなの?」
「果糖ブドウ糖液糖って言ってな、要するに甘い物質だ。そこに色素と香料を加えて、イチゴになったりレモンになったりメロンになったりする。変わったのはニオイと見た目の色だけなのに、味まで変わったような気になってしまうんだ。それでだが、この話から導かれる真理は?」
「あー、お祭り行きたい?」
「それは琴葉の願望だろ。人間の感覚は曖昧ってことだよ」
「ふーん」
「琴葉の目に見えるものが正解とは限らない。だから俺が中野に恋愛感情抱いているように見えても、実際は友人としての好意とかその人自身の善意だったりするんだよ」
「なるほどね。でもそれを言うとさ」
「なんだよ」
「人間の感覚が当てにならないのなら、若宮が今、ひよ姉に対して『女の子として好きなワケじゃない』って思ってるのも勘違いだったってこともあるくない? 自分でそう思い込んでるだけで、本当は好きかもしれないって可能性もあるワケでしょ?」
「……」
その通りだった。俺の主張を利用し、引用し、完全に論破されてしまった。
中2のときに中3の女の子に論破されたことがある俺だが、まさか高2で小6の女の子に論破されてしまうとは……。
しかし、そんなふうには言いつつ、琴葉は彼女なりに納得したところがあったのか、ふぅと小さくため息をつくと。
「まあ、でもいいや。もし若宮がひよ姉のこと好きだったとしても、ひよ姉が若宮と付き合うワケないし」
「おい」
「なに、付き合いたかったの?」
「そうじゃなくて。告白してもいないのにフラれた感じになるのは気にくわないって言うか……」
「まあそれはもういいんだけど」
俺の羞恥には一切興味がないのか、琴葉は話を一旦ぴしゃりと断ち切ったうえで。
「若宮はひよ姉のこと、人として好き? 嫌い?」
そう問いかけてきた。
俺としてはいい加減、この話を終えたいが、琴葉の真剣なまなざしを見ていると、俺は真剣に答えざるを得なくなる。
「嫌いだったらつるまないよ。たしかにだ、俺と中野の距離感は他より少し近いかもしれない。でも、仲良しとは言えないんじゃないか?」
「……そうなの?」
「電話番号を交換したのも今日だし、会話だって基本悪口の応酬だし。それに俺あんなに金にがめつい女の子はちょっと……」
「まあそこは共感かも……」
「だろ?」
照れを悟られないよう、なるだけニュートラルな声色を心がけて俺は返答を重ねていく。 すると、琴葉は安堵したような、そして一気に興味を失ったような表情で、俺にこうつぶやいた。
「そっか。じゃあもういいや」
「やっと終わりか……」
「とりあえず、若宮がひよ姉のこと狙ってるワケじゃないみたいで良かった」
「俺をそんなふうに見てたのか……」
がっくりと肩の力が抜けるのを感じた。
「私を預かることで、ひよ姉に近づこうとしてるのかなって」
「せっかく人が善意で2晩も泊めようとしてんのに」
「仕方ないでしょ。ひよ姉が中学のとき、下心隠して近づいてくる男がわんさかいたんだから」
「わんさか」
「ワンワン盛りのついた犬みたいに列をなしたというか」
「わんさかってそういう略語なのか」
中野から何度か軽く聞いたことがある、中学時代の話。
しかし、人間関係でいろいろと揉めたとこまでしか聞いておらず、具体的になにがあったのかは、俺は知らない。
すると、俺が黙っているのを見てなにか察したのか、琴葉が小さく口を開く。
「ひよ姉ね、中学は私学だったんだよ」
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