67 本天沼舞の執着心1

 絵里子の雑談に長々と付き合っていたせいで、いつも出発してる時間から10分も遅れてしまった。まったく、なんでわざわざ朝にあんな話をしてくるのか。


 しかし、絵里子ひとりであんなに大変なんだから、世の中のママは大変だろうな。仕事して、子供もふたりいれば起こすのだって倍の労力がかかるわけだし。そう考えると、うちは子供がひとりで良かったのかもしれない。うん、子供じゃなかった。


 まあ、そう言いつつ、始業時刻の20分前にはいつも到着するようにしてるから、遅刻するってことはないんだけど。


 学校に向かって歩きながら、そんなどうでもいいことを考えていると、後ろから突然、トントンと背中を叩かれた。


「若宮くん、おはよっ」

「うわっ!!!」


 予想外の出来事に、俺は情けない声を出して振り返る。そこには最近すっかり見慣れた、でもちっとも見飽きない、優しそうな笑顔があった。


 そして彼女は、天使がハープを奏でるとこんな音なのだろうな……と思ってしまう、温もりに満ちた声を放つ。


「ごめんね……びっくり、した?」

「うん、した。いきなり声かけられることって、あんまないから」

「そっか……なら、今度からは『今から声かけるね』って言ってから挨拶するね」

「いや、宣言されたら余計に怖いというか……普通でいいです」

「ふふ……登校中に会うの、初めてだね」


 そう言うと、本天沼さんは俺の目をみて、にこっと笑った。


 柔らかい朝日が、真っ黒ではない黒髪に反射し、輝いている。前髪はもともと少なめなようで、色白なおでこがシースルーの向こうに覗いているが、それがとてもかわいい。前髪薄い系女子って言い方流行らないかな。流行らないだろうな。でも絶対こういう好みの男子いるよね?


「いつもはもう10分くらいはやいからね」

「そうなんだ。じゃあ私も明日からはやめに行こうかな……なんちゃって」

「ちょっと。冗談はやめろよ、あと3分くらいで」

「すぐにやめろ、とは言わないんだね」

「やっぱり事前に告知するのは大事かなって」

「ふふ……そういうとこも優しいんだ。若宮くんらしい」


 そう言うと、本天沼さんはクスッと笑った。和やかな空気がふたりの間を流れて、俺も思わず笑顔になる。中野と話していると悪口の応酬になり、高寺と話しているとやつがボケボケすぎて反応が親っぽくなってしまう俺だが、その点、本天沼さんはあくまでクラスメートとしての会話ができるのが嬉しい。


 そんなことを思っていると、笑顔の本天沼さんが目を逸らし、急に頬を染める。


「若宮くんって、とっても話しやすいよね」

「え、なに急に」


 驚き、言葉に詰まるが、彼女は意味深に視線を外したままだ。


「最初はもっと静かでとっつきにくい人なのかなあって思ってたけど……気さくで優しいし、相手の気持ちも考えられるよね」

「あー、俺、話しかけ見知りだから」

「ん、なにそれ」


 初めて聞いた単語に本天沼さんが反応する。


「人見知りの話しかける限定版。話しかけられたら普通に返せるんだよ」

「なるほど……たしかに静かどころかお喋り、だもんね」

「そう……かも」

「クラスだといつもひとりで読書してて、『自分、孤独を愛してます』『馴れ合いは求めてません』って感じなのに」

「え、俺ってそんな感じに見えてるの? 馴れ合い全然求めてるんだけど」

「ふふ。面白いね、若宮くんって」


 本天沼さんは俺の問いに答えないが、笑顔だった。いやなんていうか、笑顔はいつものことなんだけど、笑顔の中でも笑顔というか、俺の思い込みじゃなければ会話をかなり楽しんでくれているみたいな。


「しかも、ちゃんと話を聞いてくれるよね」

「そうかな?」

「そうだよ。女の子って、自分の話を聞いてくれる男の子に心を許すって、DNAにすり込まれてるからさ」

「そうなんだ」

「だからさ、若宮くんは中野さんとも仲良くなれたんだろうな……ってね」

「……その話、まだするんだ」


 数分間話して、本天沼さんの意図に気づいた俺はため息をおさえられず、がくっと肩を落とす。


 ……いや、正直に言って意図は最初から気付いていた。なぜなら、このほんわか女子は中間テストが終わって以降、ふたりで話す機会がくると必ずこうやって中野の話を聞いてきていたから。


 あるときは休み時間。


 またあるときは廊下ですれ違ったとき。


 またあるときは食堂横の自販機の前で。


 またあるときはトイレに入ろうとしてたとき。


 またあるときは帰り道に立ち寄った本屋の参考書コーナーで。


 改行が多くなりすぎたのでやめるけど、とまあそんな感じで、この一週間で10回くらい中野の話を振られていたのだ。


 俺が中野にノートを貸す方法を考えているときに首を突っ込んできたり、本天沼さんがもともと好奇心の旺盛な性格なのは知っていた。そもそも1年のとき、中野に果敢に話しかけにいったって言ってたしな。


 だけど、一日何回も聞かれるのはさすがの俺でも面倒に思ってしまう。


 そんな気持ちは知らないのか、気づきつつあえて無視しているのか、本天沼さんは俺の瞳の奥をのぞき込むようにしてこう述べる。


「仲良くなったってとこは……否定、しないんだね」

「よくもまあ諦めずに聞いてくるね。これでもう10回目だよ?」

「違うよ、まだ9回目。クラスメートのこと、知りたいと思うのはダメなこと?」

「知りたい気持ちを持つのは構わないよ。でも、人づてはダメでしょ」

「でも中野さん、学校で喋りかけても無視するし……」

「あー、それはそうだろうね……」

「ファミレスでは、話してくれたのになあ」


 中野は依然として、教室では無言を貫いているのだ。


 そして、それを知ったうえで話しかけている本天沼さん。ある意味、ちょっと恐ろしい。「でも、俺が中野のことを教えるって違うでしょ?」


「体育で一緒のペアになろうと思っても、まどちゃんと一緒になっちゃうんだもん」


 なるほど、女子だけの授業ではそんなふうになっていたのか。


 中野の性格的に、毎回同じ相手をパートナーに選ぶことは、隠れて声優業をしているという秘密を守るうえでリスクと考えるはずだが、本天沼さんと一緒になるよりはマシと判断したようだ。


「まどちゃん、妙に嬉しそうにしてて、中野さんは一言も喋ってないのに『りんりん、体柔らかいねえ』とか『りんりん、スポーツもできるんだねえ』とか言ってて」

「それは……ちょっと気持ち悪いな……」


 高寺がぐへぐへしながら中野にまとわりつく光景が容易に浮かぶ。


 学校で中野が返答しないのは合意のうえなんだろうし、もしかするとそれが原因で高寺が若干暴走している可能性すらある。その場で注意されない的な理由で。


 しかし、本天沼さんの感想は、俺とは違うようだ。にこにこな笑顔でこう述べる。


「でもね、百歩譲って高寺さんはまだわかる……たださ、男子の若宮くんが中野さんと繋がっていたってのは、たとえ千歩譲ってもわからない」

「いやそれはその……」

「おかしいよね? 私が喋れていなかった中野さんと、若宮くんが一緒にいた。しかも無視されてたのに……」

「それはまあ、色々事情があるというか」

「その色々を、知りたいんだよね」

「いやウソ。事情はない。ないから話すこともない」

「……そんな下手なウソついてさ」


 すると、視界から急に本天沼さんの姿が消える。振り返ると、立ち止まっていた。その口が真一文字にキツくしめられ、体が心なしか硬直している。


「あれ、どうかした?」

「どうかしたって言うか……仕方ないよね、教えてくれないんだし、うん……」


 俺への返答は途中から独り言に変わり、そして自分に言い聞かせるような口調になる。


 そして、なぜか顔が赤らんでいき……意を決したように、彼女は口を開いた。


「若宮くん……あの、その……パ、パンツくらいだったら、見せてあげてもいい、よ……?」

「……はあっっっ!!?」

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