66 敵前逃亡

 中間テストが終わって、平穏な日常が戻ってきた。


 テスト期間中は自分の勉強で夜寝るのが遅くなるため、朝起きるのも少し遅くなる。おまけに今回は中野のサポートもしていたため、毎日結構ドタバタだった。


 しかし、今はわりとゆっくりだ。出発の1時間前に起き、ゆっくり朝食を準備できる。


 今日のメニューは冷や汁に、ベーコンオイルと薬味のせ冷や奴と、玄米ご飯。冷や汁は作り置きしておいた味噌玉を水に溶き、ごま、ねぎ、大葉などを添える。冷や奴は生姜、ねぎなどの薬味をのせるのは普通だが、そこにあえて焼いたベーコンを加えることで程よいジューシーさをプラス。あっさりしつつも、一日のパワーを補給できるようにしている。 そんなふうに料理をしつつ、俺は絵里子の部屋に向かう。今日も今日とて、手のかかる母親さんは、すやすや気持ちよさそうに寝息を立てていた。


「おい朝だぞ。起きろー」

「ぐーぐー」

「本当に寝てる人はぐーぐーなんて言いません」


 いつも通りのツッコミを入れつつ、俺は布団を奪う。だが、絵里子はまだまだ寝足りないようで、さっきまで頭を置いていた枕を即座に抱き枕に変えると……


「スイミンミン……スイミンミン……」


 とつぶやき始めた。


「なんだその擬音は」

「『宇宙兄弟』風の擬音」

「いやわかるけど、朝イチに出す問題かそれ。いいからはやく起きろ」

「ざわ……ざわざわざわ……」

「第2問出さなくていいから」

「ざわ……ざわざわざわ……」


 しかし、絵里子は枕に必死に手足を絡ませ、微動だにしない状態で続ける。俺が答えないと、このクイズは終わらないらしい。


 絵里子は母親でありながら、三人兄弟の末っ子のような性格なので、寝起きに時々こういう面倒なクイズを仕掛けてくることがあるのだ。


 そしてそれに答えるのは俺の役目でもある。


「簡単だ。『カイジ』だその擬音は」

「せいか~い」

「第2問のほうが簡単ってどうなんだよ」


 目をゴシゴシこすり、ふわああと大きなあくびをしながら、絵里子が上体を起こす。良かった、今日は2問で終了らしい。これなら学校にも間に合いそうだ。


「まったく、朝から面倒だなほんと」

「ホントにね。親の顔が見てみたいね」

「それはお前だ」

「あっ、そうだった。育てた自覚があんまりないから、つい」

「安心しろ、育てられた自覚もないから」


 こんなふうにして、毎朝恒例の親子漫談は、今日も平常通りに開催された。



   ○○○



 クイズは早々に終了したものの、結果的にいつの通り5分ほどの攻防を繰り広げたのち、俺と絵里子は朝ご飯を食べ始めた。さっき作ったメニューに加え、カルシウム補給のためにヨーグルトにグラノーラを入れたものも追加した。


 注文していた新しい炊飯器を使って初めてご飯を炊いたのだが、首尾良くふっくら仕上がった。お米がキラキラと輝き、今までよりも良い感じで炊けている気がする。味も、気のせいか3割増しくらいに感じられた。やっぱ、家電は新しいものに限るな。そして、親父を説得して奮発させた甲斐があった。


 そんなことを思いつつ上機嫌で食べていると、絵里子が……


「じーっ」


 と声を出し始める。なんだろうと思って向かいの絵里子に視線を向けると、左右の頬に両手をつき、目を細めて俺を見つめていた。


「なんだよその、付き合いたての彼女が、彼氏に構ってほしいときにするみたいな表情」

「違うよ。今日は彼氏の浮気に気づいた女の子が、自供させようとするときの表情」

「いや彼女の顔なのは同じかよ」

「ふふふ」


 母親になぞの恋人チックな会話を強制され、苦い気持ちになってため息をついていると、絵里子は普通の体勢に戻って俺に尋ねる。


「そうちゃん、そう言えばあの後ってどうなったの」

「あの後って?」

「パン屋さんで、同じクラスの女の子と会ったじゃない」

「ああ、中野のことね」


 じれったそうな顔で言うのでなんのことかと思いきや、中野のことだったらしい。浮気、と先程発言したのも無意味ってワケでもなかったようだ。


「中野さん? それともナカノちゃん?」

「普通に名字だけども。ナカノなんて名前のやつ、いないだろ」

「わかんないじゃん。ヨシノちゃんとかモエノちゃんが世の中にはいるんだから、ナカノちゃんだっているかもしれないよ?」

「ヨシノ、モエノ、ナカノ……いや、ないない。ナカノはさすがにないでしょ。ナカノが醸し出す名字感ナメすぎ」

「イントネーション変えたらイケるんじゃない? な→か→の↘︎じゃなくて、な↗︎か↘︎の↘︎みたいな」

「中野ひよりね、あいつの名前は」


 すると、絵里子は何度かその名前を小さく口ずさんだのち、少し恥ずかしそうに述べる。


「お母さん、あのとき人見知りが炸裂して、なんというか敵前逃亡しちゃったでしょ?」

「うん、まあべつに敵ではないけど、逃亡してたな」

「あのあと、何話したのかなあとか、って」


 逃げたが、話した内容は気になるらしい。とはいえ、どこまで話していいのか。べつに学校で無言を貫いてることとか、言っても意味ないよな?


 微妙にわからなかったので、俺は親父との間では共通認識となっている辺りを話してみることにする。


「前に親父が帰ってきたとき、CMの話してなかった?」

「ああ、予備校のやつ? お父さんが作ったっていう」

「そうそう。じつはあのCMで声を当ててるのが、中野なんだよ」

「……えっ?」


 驚いて、絵里子が口をぽかんと開く。


「米、見えてるぞ」

「あの子、声優さんなんだ」

「うん」

「たしかに、キレイな声してるなって思ったけど……すごい偶然ね」


 そして、絵里子が中野の芸名を尋ねてきたので、俺は鷺ノ宮であることを告げる。声優マニアなわけではないので、絵里子も知らなかったようだ。


「でも、調べたらいっぱい出てるのね」


 スマホをいじりながら絵里子がつぶやく。作品のなかには、絵里子も観たことがあるものもあったようだ。俺が観てるやつは大抵絵里子も観ているので、まあ当然なんだけどさ。「らしいな。まあ、作品のことで細かく聞いたことはないけど」


「……そうちゃんって、本当にミーハーじゃないよね、同じクラスの子が人気声優なのに、なんでそんな普通でいられるの」

「いや、でも中野は中野だし」

「でも現役高校生声優なんて、日本中でもきっと100人もいないでしょ」

「かもな」

「それに、すごく売れっ子みたいだし」

「まあ、たしかに忙しそうではあるな。学校休む日もあるし、早退することもあるし」


 絵里子はそんなふうに言うが、俺にとって中野は普通のクラスメートなのだ。


 異様に金にがめつく、早退したり休むこともあるが、基本的にはみんなと同じように授業を受け、勉強し、試験を受けている。そして、学校では基本的に変装しているので、ルックスの良さに圧倒されることも、外で会うときに比べれば少ない。


 すると、俺の態度に感じるところがあったのか、ミーハーな雰囲気がなくなり、母親の顔に戻る。


「高校生なのに、そんなに働いてスゴいねえ」


 目を細めながら、自分には真似できないという感じの口調だ。


 俺を産んで以降、体を壊してずっと家にこもっていた絵里子にとって、子供の頃から働いている中野は、ある意味信じられない存在なのだろう。


「まあ、いろんな生き方があるからな」


 答えに窮して俺がそんなふうにごまかすと、絵里子はさらにこう続ける。


「それを許す親御さんもスゴいよね。勇気あるというかさ」


 見ると、絵里子は親の顔になっていた。


「子供の頃から芸能界に入って、一生懸命頑張るって、親からすればすごく怖いと思う」


 珍しく親のようなことを言うなと思って黙っていると、絵里子は言葉を続ける。


「だって、親の後ろにいる年頃に人前に出てるワケでしょ?」


 たしかに、中野は12年前に子役デビューし、10年前に今の事務所に入ったという。俺が7~8歳の頃は、親以外の大人と接することなんか学校の先生以外でなかったし、そう考えるとたしかにスゴい。


「まだ近くで観てたい年頃のはずなのに大人の中に放り込むって、大変だよねえ」


 中野と自分自身の違いを感じただけでなく、親としての違いも感じたらしい絵里子は、遠くを見るような目で、そんなふうにつぶやいた。

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