64 月明かりに照らされて2

「勉強ってどうすればできるようになるのかしら」


 中野の澄んだ瞳が、俺をしっかりと捉える。


 テストの件に俺が触れないことにしびれを切らしたのか、中野が自ら会話の方向性を変えてきた。それは迂遠な会話、やり取りを好む彼女にしては、かなりダイレクトな問い方でもあった。


 しかし、仕事と勉強の2種類の疲れがあらわれた、曇った顔つきを見ると、そんな違和感を口にすることはできない。


「どうすれば?」


 驚いたフリをして、俺は答えるのを先に延ばす。


「この2週間、自分なりには頑張って勉強してきたつもりなの。3人で勉強して、若宮くんにノート作ってもらって、家についても深夜まで自習して、仕事の合間も廊下のソファーに座って教科書読んで」

「そうだな。俺も頑張ってたと思うぞ」

「でも、テスト勉強し始めた2週間前より、なぜか今のほうが点数悪くなってる。これっていわゆるアレ? スランプってやつ?」

「ごめん、それってジョークで言ってるんだよな?」

「むしろ本気に思われてたら怒るわ」

「……だよな」


 やり取り自体は、いつもの感じだった。


 しかし、ふたりの間に漂う雰囲気は、明らかにいつものそれではなかった。だから、彼女の質問に対し、俺はなんて返していいのかわからず、


「……」

「……」


 結果、ふたりの間に沈黙が訪れる。黙って坂道を登るロボットにでもなったかのような気分だった。


 でも、彼女の気持ちはよくわかった。学校にいるときはずっと勉強しているし、学校にいないときも、仕事のときを除いてテスト勉強に集中していたから。最初こそ、石神井に対決を持ちかけられて乗っかった感じだったが、今の中野はなんていうか、普通に少しでもいい点数を取ろうと努力していた。声優業をしているとか関係なく、普通の高校生だった。


 だからこそ、俺は簡単に、彼女にかける言葉が見つからなかった。正解の言葉が思いつかなかったのだ。


 でも、同時にこうも思った。こういうシチュエーションで一番不正解なのは『何も言わない』ことなのだと。


(どうしよう……なんて言えば、この空気を払拭できるんだ……??)


 そんなふうに心の中でひとり思案する……のだが、程なくして俺はその堂々巡りをやめることになった。中野が急に足を止め、俺のほうを見たのだ。合わせるように俺も歩みを止めると、どこかポカンとしている中野に、普段よりも身長差を感じる角度から尋ねる。


「ん、どうした? 急に止まって」

「たいしたことではないのだけど、若宮くん、息切れしてないなって」

「えっ、あっ……たしかに」


 中野に指摘されて初めて気付いたが、これまで少しも休まず、急な坂道を登って来ていたも関わらず、今日の俺は息が少しも乱れていなかったのだ。


「しかも、全然しんどくない」

「最初、あれだけ息切れしてたのにね」

「次の日は筋肉痛になったからな」

「さすが、中学高校と帰宅部で、友達がいなかった人なだけあるわ」

「そうだな帰宅部で……ってその文章、後半関係なくね?」


 俺がツッコミを入れると、中野はふふっと不敵な笑みを浮かべながら、俺の横を通り過ぎていく。


 それを追うように俺も登り始める。会話はすでに、勉強のことから逸れていたが、俺も中野もそれを指摘はしなかった。


「運動不足が解消されて良かったね。おかげで私と同じスピードで登れている」

「テスト勉強してたつもりがな……声優って、体鍛えたりするもんなのか?」

「私は寝る前に必ず腕立て、腹筋、背筋、スクワット、そしてストレッチをするようにしているわ。周りの人はジムに行ってる人も多いわね」


 たしかにパーソナルトレーニングとか通ってそうだもんな。マンションの一室にある、なんかオシャレな犬とかがいそうなとこ。めっちゃ偏見だけど。


「最近の声優は人前に出ることも多いし、なんだかんだ言ってこのお仕事は体力勝負だから。あと、基本的に風邪が引けないから。風邪は喉にも悪いし」

「声出なくなったら仕事になんないもんな……大変だなー、毎日毎日努力するなんて」


 すると、中野が俺のほうを振り返り、坂の上から呼びかける。


「若宮くん、努力は必ず報われる、って言葉、あるでしょう?」

「あるな」

「この言葉について、あなたはどう思う?」

「どう?」


 初めて受けた質問の真意がはかれず、俺が答えを返せずにいると、中野が語り始める。


「声優はね、自分の力ではどうにもならないことが多い仕事なの。事務所の力とか運とかでね」

「だろうな」

「だから、自分はこんなに努力してるのに、って思考に陥る人は少なくない。実際、私も美祐子がマネージャーになる直前の1年間は、仕事がほとんどなくて、腐りかけた時期もあったの」

「へえ、そうなんだ」


 だが、中野は俺の問いかけに具体的には答えず、「そういう時期もあったということよ」とぼかし、そしてこう続ける。


「でも、私は曲がりなりにも10年この世界で生き残ってきて、思うのよ。努力が自分を裏切るか裏切らないかなんて議論しているうちは三流。むしろ、努力に裏切られてから、本当の努力が始まるものなんだって」

「努力に裏切られてからが本番か」

「結局ね、大事なのは日々の鍛錬なの。自分は血の通った演技できてるか? イベントで気の利いた返しができてるか? 現場での振る舞いに問題はないか? ファンの期待に応えられているか……みたいに、どんなことでも、意識と視点を高く持てば、努力で磨けないことはないと私は思うのよ」

「高校生のくせによくそんなこと考えてんだな」


 尊敬半分、呆れ半分で俺はそう返す。


「好きでこんなことを考えるようになったわけではないけどね。考えないと、生きていけなかっただけで」

「業界で生き残るって大変なんだな」


 俺がそう言うと、中野は笑みとも苦笑とも言えぬ、曖昧な表情でこちらを見る。まるで、俺の発言が半分正解で半分外れ、とでも言いたげな感じだった。


 そして、俺はこう続ける。


「でも、俺は思うぞ。勉強だって同じって」

「えっ?」


 驚いた顔で聞き返す中野に、俺は言う。


「勉強も、一番大事なのは、日々の努力だろ? そりゃ生まれ持った頭の良さとか、復習したことがテストに出る運の良さとかもあるけど、それを言っても意味ないし、最後は努力。俺、学年1位だけどそう思う」

「悔しいけど説得力あるわ」

「んで、努力って意味では勉強のほうがずっと簡単じゃないか? 声優として売れ続けるよりも」

「若宮くん、もしかして私を励ましてる?」


 後ろから聞こえる声に、俺は静かに「べつに」と述べ、そして振り向いて補足する。


「たださっき、質問にうまく答えられなかったから。どうすれば勉強ができるようになるのかって」

「あの話、まだ続いてたのね。すごい時差だから気づかなかったわ」

「少なくとも、だ。中野はこの2週間、真面目に勉強してきただろ。だから自分を信じてやってくしかないと思うけど。テストでも」


 そう言っている間も言い終わってからも、中野はじっと俺の目を見続ける。


 にらめっこのような時間が数秒間続くと、堪えきれなくなったかのように、中野はぷっと吹き出す。それは子供のような、想像以上にあどけない笑顔で……俺は胸の奥を除かれてしまわないよう、視線を逸らす。


「ありがとう。おかげさまでなんだか元気が出てきたわ。明日のテストに向けて、悪いイメージを払拭できそう」

「なら良かった」

「でも、さすがにそろそろいいかしら? まだ夜も冷えるし、このせいで風邪引いても本末転倒だし」


 そう言うと、中野は寒そうに手のひらで腕をこする。じつは俺たちは、とっくの前から中野の家の前に到達していたのだ。


「それとも、私ともう少し話していたい感じ?」

「やめろよその、俺が引き留めてたみたいな言い方」


 すると、中野はふたたびいつもの冷ややかな表情に戻る。


「冗談よ。今日はありがとう。また明日ね」


 月明かりの下に立つ俺にそんな言葉を投げかけると、家の中へと入っていった。

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