62 家まで送ろうか2

「でもまあ、たぶん大丈夫だろ」


 中野がチラッとこちらを見る。横目でもわかる、美しい黒い瞳が俺を捉える。


「どうして?」

「だって相手石神井だし」

「だから怖いんじゃない。彼、あなたのためなら本気になりそうだから」

「おい」

「彼、いつも天邪鬼だけど、若宮くんのことになると天邪鬼じゃなくなるというか、まあ簡単に言えばホモのじゃくに」

「でもあいつ成績クッソ悪いからな」


 話を戻すように、俺は中野の発言を遮る。


「石神井くん、何位なの?」

「1年のときの通年成績は260位とかだったはず」

「それ、私の順位が250位だったこと知ってて言ってるわよね?」

「あっ……」


 そうなのだ。この清楚な美少女声優さんは黒髪色白整った顔立ち、そして変装時の黒縁眼鏡と、知的さを感じさせる要素を多数持っているにも関わらず、実際のところ成績があまり良くないのだ。


 学年360人中、250位VS260位。点数的に留年はない成績だが、劣等生である事実は否定しようがない。争いとしては、非常に低レベルと言えよう。


 中野は俺に睨みを利かせる。


「忘れていたと……」

「そうそう、完全に忘れてたというか、べつに深い意味で言ったわけでもないし……」


 焦る俺に、中野は優しい笑みを浮かべると、こう続ける。


「なら仕方ないわね。死刑」

「仕方ないんじゃないのかよ……」


 にこやかにくだされた死刑判決をくつがえすべく、俺は抵抗を続ける。


「悪気なかったから」

「悪気がないのと悪くないのはイコールではないわ。この国は法治国家だから、悪気なく人を殺した場合も大抵の場合は法律で裁かれるものよ。だから死刑」

「そうなんだけど。今俺が死んだら教えてやれないだろ?」


 その言葉に、中野が目を大きく見開く。黒い瞳は、夜空より深い色合いであるように思える。


「え、勉強教えてくれるの?」

「そりゃそうだろ。逆に1人で成績伸ばせると思ってたのか?」

「それは無理」

「返事早いな。もうちょっと迷ってもいいんじゃないか?」


 あんまりにも食い気味な返事だったため、そんなふうに苦言を呈すが、中野は神妙な面持ちだ。


「負担……じゃないかしら」

「正直、2週間前には完璧に近い状態になってるからな、いつも。ちなみに今回もだ」

「……暇なの?」

「おい。それが人様に物を頼む人間の言うことか」

「ごめんなさい、冗談よ……悔しいし、本意でもないけれど、心強いわ。感謝します」

「いいよべつに。んで、感謝するにしても、テスト終わってからだろ?」

「たしかに、それもそうね……」


 そう言うと、中野はふいっと黙った。


 なにか返ってくるのかと思ったが、形のいい薄い唇は閉じたまま遠ざかっていく。他者に頼るのが得意ではない彼女なだけに、俺の協力を受け入れた今でも、複雑な感情を抱いているのだろうか。


 話しかけ見知りを自負する俺だが、この状況で黙っているのも気が引ける……ので、話を振ってみることにした。


「てか土日も働いてるんだな」


 すると、中野が顔をあげてこちらを見る。ほんの少し、表情に安堵が混じった気がした。


「当たり前でしょう。私は2体存在してるワケじゃないのよ?」

「そりゃそうだ」

「しかも作品によっては結構多かったりね。最近は円盤、DVDとかブルーレイのことね、がなかなか売れないから、イベントやそこでの物販が大きな収入源になってるのよ」

「へえ」

「ランク制度って知ってるワケないよね?」

「あの、質問しながら知らないって決めつけるの止めてもらっていいですか? 知らないです」


 と、こんなふうにして今日も中野先生の声優業界講座が幕を上げた。


「声優は事務所に所属すると日本俳優連合、通称・日俳連ってところに加入することが多いのだけど、ランクによってギャラが変わるの。所属から3年間は新人扱いで1話1万5千円」

「へえ」

「面白いのはギャラとセリフ量は関係ないってこと。つまり、主人公に抜擢された新人声優も、セリフが一言しかないモブ役の新人声優もギャラは同じ1万5千円なの」


 働きっぷりが全然違うのにギャラが同じってのはなんだか変な話だ。


「ちなみに、新人期間を過ぎると、それ以降は実績によってギャラが変わる。マックスで1話4.5万円よ」

「アニメの収録って1話でどれくらいかかるんだっけ」

「作品によっては長引くこともあるけど、まあ3時間くらいかしら」

「3時間で4.5万……それ結構高くね?」

「若宮くん、それいい指摘です」


 中野が人差し指を立てながらそう述べる。先生気分になっているらしい。


「私も最初はそう思った。でも現実問題、4.5万円貰ってる人なんかごくごく少数だし、それに本当の意味で費やした時間って3時間じゃないの。声優として何年何十年って培ったスキルがあるからこそ、キャラに息吹を吹き込めるからね」

「なるほど、たしかにそうだ」

「もともと俳優・声優が不当な条件で働かさせられないようにって理由でできたはずの制度なのだけど、いつからかそれが基準になってしまったようでね」

「『それ以上働くと体に悪い』って考えて導入された8時間労働が、いつの間にか最低限働く時間に変わってしまったのと似てるな」

「的確な例えね」

「どうも」

「それにご存じのとおり、事務所が一部持っていくから、手元に残るお金はもっと少ない。スタジオに行く交通費も自腹だし、そうやって考えると残るお金はそう多くない。だからこそ、声優はなるだけイベントに出るのよね。私もそう」


 話が元の場所に戻ってくる。


「もちろんオーディションに受かったり指名があれば端役でも、ゲストでも喜んで出るけどね」

「いくらイベントのが稼ぎがいいって言っても本業はそっちだもんな」

「そう……でも、平日だと授業に差し障るのが基本なんだけど」

「でしょうね」

「アニメの収録って『あさじゅう』、つまり朝10時からのと夕方16時からのがあるんだけど、今はあさじゅうが月曜と木曜に入ってる。夕方だけに限定すれば授業ももっと出られるし、学生のうちはそうやってうまく両立している人も多いのだけど……」


 正直なところ、この数週間か彼女と接してきたことで、「この時間は学校にはいない」というタイミングがあることに気付いていたが、作品ごとに収録曜日・開始時間が決まっていることがその理由だったらしい。


 平日の収録、土日のイベントとこの時点ですでにかなり忙しそうだが、台本を読み込んだり、声に出して練習する時間も必要だろう。


「正直、俺が思うよりずっと忙しそうだけど……その、大丈夫なのか、体とか」


 すると、中野は余裕を感じさせる笑みを浮かべた。


「そこは大丈夫よ。忙しいのには慣れてるし、それに贅沢は言えないわ。ほとんどの声優にとっては、忙しくて死にそうなのより暇で死にそうなほうがずっと辛いものだから」

「なるほど」

「一説によると、声優業だけで食べてる人は300人程度しかいないそうなの。声優全体のたぶん1%くらいかしら? まあ正直な話、声優業に付随するアーティスト活動とか舞台なんかを合わせると1000人くらいにはなりそうだけど」

「それでも多くはないよな」

「講師をしたり舞台に出たり、人によっては俳優とは全然関係のない仕事をしている人もいるからね」


 そう言うと、中野はニコリと微笑む。


「私が仕事ばっかりしている理由、これでわかった?」

「あぁ……」


 俺は歯切れの悪い返答をする。返答というより、相槌と言ったほうが近いかもしれない……だけど、そうやって言葉ではうなずきつつも、正直中野のことが余計にわからなくなっていた。


 たしかに、声優の世界は彼女が言うとおり、厳しい世界なんだろう。それは話を聞いていてもよくわかる。


 だけど、学業に大きな支障をきたし、進級が危うくなるほどまでガッツリ働くものなんだろうか。仕事ばかりして勉強で苦労するというのは、まだ働いたことのない俺には矛盾しているように思えたのだ。実際、俺と一緒になった数学をはじめ、複数教科で補講を受けている感じだったし……。


 それに、まだ高校生であるうちから、そこまで仕事に対して熱心になれるのも不思議だった。いくら子役時代から仕事をしていたとは言え、仕事を第一にしている気がさすがに強い。実際に話してみると意外に天然な部分があったり、石神井の安い挑発に乗るなど子供っぽい部分もあり……つまり、仕事面以外では比較的、年相応な精神年齢であるにも関わらずだ。


 そんなことをひとり、胸のなかで考えていると、中野が不意に立ち止まる。彼女の視線は横に向いており……そこには2階建ての、洋風な外観の一戸建ての家があった。


「ここか……一軒家なんだな」

「そう。いい家でしょ」


 俺が黙って頷くと、中野はニコリともせず、こう続ける。


「……今日はありがとう。送ってくれて」


 そう言うと、中野は胸の前で小さく手を振り、家の中へと入っていった。

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