55 アイドル声優3

「こんばんは、高寺さん」


 高寺のくぐもった声に呼応するように、いつも通りの、涼しげで清涼感のある声が聞こえてきた。電話なのでいつもと少し聞こえ方が違うが、それでも湧き水のように透き通っているのは変わらない。


「今少しいいかしら」

「うん! もちろん少しいいし、むしろ少しじゃなくてもいいよ!」

「少しでお願い。あまり時間はないの」

「了解だよ!」


 求愛をさらりと流された高寺だが、中野と話せているのがよほど嬉しいのか、笑顔はまったく崩れない。


「りんりん、お仕事お疲れさまっ!」

「ありがとう、高寺さん。でも今日はそれほど疲れてないわ」

「えっ、あたしの顔を見たら疲れが吹っ飛んだって? もうりんりんたっらーっ!」

「ごめんなさい、何を言ってるのかわからないわ」

「え、ちょっとー! 中野さーん!」


 高寺が持ち前の高音かつ大きな声でツッコんで周囲の客の視線を集めていると、そんなことはつゆ知らないであろう、落ち着いたスマホから返答がくる。


「そうじゃなくて、本当に何を言ってるのか聞こえなかったの。さっきから、音おかしくないかしら。後ろがうるさいのだけれど」

「あー、これビデオ通話」


 すると、ほぼ真っ黒だった向こうのカメラに、怪訝な表情をした中野の顔が映る。


 背景には白い壁の廊下と、いくつものドアが並んでいる。どうやら、まだスタジオにいるらしい。


「りんりん、耳の穴もかわいいねえ」


 高寺がぐへへぐへへとよだれを垂らしながら変態発言をすると、中野はわかりやすく嫌そうな顔になった。


「ちょっと高寺さん、なんでビデオ通話に……」

「なんで? え、あたしいっつもこうだけど。ほら友達とは顔見て話ししたいでしょ?」

「友達……」


 その瞬間、中野の顔に少しばかりの驚きが浮かび、ほんの少し頬が赤くなるが。


 それを振り切るように目をつむり、切り替える意図があるのか小さく空咳をついた。


「でも、べつにまた明日会うわけだし、今は用件を伝えたいだけというか……」

「まあまあ。それに、こっちは若ちゃんもいるしさ!」


 そう言うと、高寺が俺のことを映す。すると画面の左上にワイプ的に自分の顔が写り、反射的に会釈した。すると、中野はわかりやすく眉をひくつかせてみせる。一瞬照れた表情をしたのを、俺にも見られたと思ったらしい。


「お、お疲れ……」

「あらおかしいわね。さっきまでそこまで疲れていなかったのに、どうしてか今どっと疲労が押し寄せてきているわ。なぜかしら。ひとつ言えるのは若宮くんの顔を見てからこうなってるってことだけど……」

「おいそれもう答え出てんぞ。てか俺は乳酸か」

「そうね。もし人間を乳酸寄りか乳酸寄りじゃないかで分類するなら、あなたは前者に入るかしら」

「そこ無理に乗っかってこなくていいよ。てかどんな分類だし」


 すると、中野は口元に握り拳を当て、思い出したように言う。


「ときに若宮くん、あなたに弟か妹はいるのかしら」

「弟か妹? 俺は一人っ子だが」

「残念ね。もしいたら、『乳酸、キャッチボールしようぜっ!』とか『べっ、べつにわたし乳酸のことなんか好きじゃないからねっ!!』って言われていたかもしれないのに」

「おい、乳酸を兄さんっぽく言うな。あと少年の声と幼女の声、上手いな」

「うん、りんりんめっちゃ上手いなー!」

「高寺、目をキラキラさせてんな。上手い分、余計に複雑な気持ちになってんだぞ俺」

「ふたりして、プロの力量を評価してくれて、光栄だわ」

「まあまあ。ひとまずさ、ケンカはそれくらいにして」


 高寺は仲裁に入るとともに、話を元に戻す。


「で、どうしたのかなりんりんっ」

「今日の授業、1つも出られなかったから、ノートを貸してほしいの」

「もちのろんだよっ! ……あっ、でも、それって若ちゃんの役目じゃ?」

「べつに役目ではないけどな。なんかそうなってるだけで」


 すると、中野は少し頬を赤らめながら、目を逸らして言葉を続ける。


「もちろん、若宮くんにも借りたいわ。でもほら、地理があるでしょう?」

「あっ、選択科目か!」


 そう、じつは基本的に休んだ授業のノートは俺が貸しているのだが、社会だけは選択科目が違っていて、俺が世界史と日本史を取っているのに対し、中野は世界史と地理。ということで、この教科に関しては助けてやることはできないのだ。


 これがもしタブレット活用型の教師なら、プリントもPDF配布だったりするので楽なのだが、あいにく社会科は還暦間近の教師が多く、紙配布にこだわる「レジスタンス」が多かったりもする。採用枠が少ない科目はまあそうなりがちだわな、確率的に。


「ITを使った授業が行なわれているってのも、進学先に選んだ一因だったはずなんだけどね……そうすれば授業を休んでも、誰かに頼らなくていいんじゃないかって」


 そう語る中野の様子は、不満を漏らすというより、理不尽な現実にお手上げになったという感じだった。なるほど、そういうふうに考える人もいるんだな。


「まあまあそういじけずに。今はもうあたしと若ちゃんがいるんだからさ」


 事情を理解した高寺が、元気な声で返す。


「とりあえ明日貸すねっ!」

「嬉しいわ。ありがとう」


 ほっとしたように中野はそう言うと、はあとため息をついた。


「りんりんどしたのっ? 疲れちった?」

「うん、誰かさんのせいで、それもあるのだけど」


 そう言うと、中野は少し遠い場所を見るような目で、答えを漏らす。


「明日でもう2週間前でしょう? 中間テストの」

「ええっ! そうだっけ!!」

「今日、帰りのホームルームで野方先生言ってただろ」

「……野方先生、なんで聞こえるように言ってくれなかったんだろ」

「高寺が聞いてなかっただけだろ」


 勝手にしょぼくれている高寺に俺が冷静な指摘を入れていると、中野が少し呆れたようにふっと笑う。


「いいわね。高寺さんは気楽で」

「りんりんっ! 今っ、鼻で笑ったでしょ?」

「違うわ。正確に言うと、鼻でも口でも笑ったわ」

「認めちゃうのかーいっ!」


 高寺は元気にそうツッコむと、一瞬がくっと肩を落とすが……数秒後、肩が静かに揺れ出すとともに、ふふふ……と急に笑い始めた。


「どした? 頭おかしくなったか?」

「りんりん、若ちゃん、あたし、いい考えがあるの」

「なにかしら」


 中野が不安そうな声で尋ねると、高寺はぱっと明るい表情になって提案する。


「ねっ、今度3人で勉強会しないっ?」



   ○○○



「「勉強会…?」」


 高寺の突然の提案に、俺と電話の向こうの中野の声がかぶる。


「そう! テスト前の学生と言えば勉強会でしょ! みんなでファミレスに集まって、ドリンクバーだけ頼んで夜まで頑張るの!」


 そして、俺のほうをふいっと見て、高寺はせがむように言う。


「ねっ、いいよね若ちゃん! 一緒に勉強しよっ!」


 もともと、俺は勉強はひとりでやる主義だ。むしろ勉強なんてそういうものだし、励まし合って頑張ってるようじゃ、長続きしないとすら思ってる。


 でも、正直中間テストの準備はすでに2週間前から着々と進めていたため、今の時点で全教科最低90点取れる自信があり、つまり勉強会をしたところで影響はなさそうなのも事実だった。


 言っておくが、俺はべつにガリ勉なワケではない。通学時間や休み時間、寝る前の時間を読書や映画・アニメ鑑賞に当てるべく、授業を真剣に聞いて毎日コツコツ予習復習を繰り返しているうちに、そういう生活スタイルが自分にとって「普通」になったのだ。


 コンテンツ観賞記録ノートもだけど、俺は一度習慣化したものは長く続く傾向がある。「長く続けたい」というポジティブな信条からそうなっているというより、「やらないと気持ち悪い」というのが実態で、一種の脅迫観念的なものかと思うこともあるくらいなのだが、まあそれはさておき、である。


 そんなことを考えていると、俺が断る口実を探しているとでも勘違いしたのか、高寺が飛びつくようにして俺の右腕をつかんできた。


「ねー、若ちゃん! 一緒にお勉強しよーよー!」

「お、俺はいいけど……中野はどうなんだ?」


 不用意に近づいてきた高寺の顔から、視線を逃すようにスマホに目をやると、中野は少し考えた表情になって、言葉を絞り出す。


「正直、そういうのをしたことはないし、若宮くんといると疲れることも多いけど」

「おい、その乳酸設定やめろ」

「でも、一方で、若宮くんは勉強に関してだ・け・は、見所があるのも事実だしね」


 中野はいつも以上に明瞭な声で、「だ・け・は」の部分を強調して言った。


「あの、滑舌よく悪口言うのやめてもらっていい? プロの格闘家は素人とケンカしないんだし、声優も悪口にプロの技術使うのやめようぜ」

「若宮くんは用法用量を守って正しくお使いください、ということかしら」

「もしかして特定保健用食品のCMとか狙ってるのかな、中野さん」


 と、そんな小競り合いをしていると、高寺がスマホの画面を自分だけに向け、喜びを爆発させるようにして言う。


「はいっ、じゃあ決定ね! ってことで日程決めよう! えーっと、あたしの都合がいいのは……」


 そんなふうに、高寺の勢いに俺と中野は引っ張られ、勉強会が決まったのだった。

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