10 密室での買収劇3

 50万円は痛い出費ではあるものの、高い出費ではない。最初は理解不能にも思えたが、ちゃんと中野の話を聞くと、なるほど、たしかに計算上はそうだ……と感じる。


「そう考えると、俺を黙らせるために50万払うのは悪くない選択かもな。でもさ、ひとついいか?」

「なにかしら」

「芸能コースのある私学に行けば、こんな気苦労もしなくていいんじゃないのか? 公立通って声優業やって、しかもそれをバレないようにするなんてどう考えても不可能というか。だったら最初から同じような境遇の人が集まるとこに行けば…」

「それは無理なのよ」


 中野は俺の言葉を途中で止める。


「いや、正しく言えば不可能ではない。でも、そうしたら高校や、もしかすると大学に行くお金がなくなってしまう」

「高校はもう行ってるだろってのはさておき、大学に行く金? そんなの親が出してくれ……」


 そう言いかけて、俺は出て行きそうになった言葉を飲み込んだ。家庭の事情なんて、人それぞれじゃないか。


 幸い、俺の家は父親が頑張って稼いでくれているからお金に困ったことこそないけど、母親が病弱なせいで俺は子供の頃からそのお世話係になり、友達付き合いや部活動とは縁のない生活を送ってきた。


 べつに、それをイヤと思ったことはない。むしろ、大好きな母親のためになってきたという自負すら持っている……が、他の人から見ればどうだろう。「単身赴任で家族を放ったらかしの父親と、体が弱くてなにもできないお荷物な母親のせいで、子供らしい楽しさを知らない不幸な子供」と見られることもあるだろう。


 いや実際、そんな扱いを受けたことは少なくない。

 俺自身も、べつに隠しているワケではないが、母のことを聞かれると、答えに窮してしまう自分がいる。石神井にも絵里子のことはまだ詳しく話していないし、彼女と家にこもっていたからこそ、こんなふうにコンテンツ摂取人間になったことも明かしていない。


 べつに、やましいから言えないワケではない。

 ただ、どう言っていいのかわからないのだ。


 オヤジに関してもそうだ。正直、オヤジは家のことに関してはほぼ何もしてこなかったし、単身赴任中の今も何もしてないが、でもそれは3人の合意のうえ。少なくとも、全然関係ないやつに「最近はパパも家事をやるのが普通なのに」なんて文句を言われる筋合いはない。


 中野の家も同じだろう。どんな理由があるのかは知らないが、少なくとも今日初めて話した俺がなにか言っていい話ではないのだ。


 ふと見上げると、中野が「なに考えてるの?」という表情でこちらを見ていた。言葉を選びながら、俺は話し始める。


「そうだな。もし俺が黙ってれば、トータルでの出費は少なく済むかもな。転校する場合と比べたら、入学金くらいはリアルに浮くかもしれない」

「そうなの。だから、これ」


 すると、中野はカバンの中からなにやら四角い物体を取り出し、テーブルの上に置いた。それは……。


「げ、現ナマ?」


 そう、テレビやヤクザ映画で見かける、分厚い札束だったのだ。


「今ここにちょうど100万円あるわ。そしてこれが私が出せる限界」


 そして、中野は現ナマの隣に一枚の紙をすっと差し出す。そこには「誓約書」という文字が書かれており、難しい単語が並んでいるが、要約すると「甲(=俺)は乙(=中野)の秘密を公言しない代わりに100万円を受け取る。誰かに言った場合は契約違反とみなし、100万円をすみやかに返還する」といった感じだ。


「これ、マジか……」


 そう言うと、俺は中野の相づちを待った。

 しかし、いくら待っても声は聞こえてこない。 


 顔を上げると、中野は大まじめな顔でこちらを見ていた。大きな目を鋭くし、眉をつり上げ、体温があがっているのか白い頬が赤く染まっている。学校で見せる姿や、先ほどまでの冷徹な雰囲気とは違う、年相応な、生身の女子の顔がそこにはあった。


 そして、素の姿を少しばかり見せた中野は、正直なところ、とてもかわいかった。

 整った顔立ちにまっすぐな目。綺麗で透き通った声に、形のいい薄い唇に、黒く艶やかな髪に、それとは対照的な白い肌。


 性格がちょっと、いやかなりヤバそうなことは差し置いても、魅力的なのは間違いない。

 こんな状況で、俺は彼女に見とれてしまったのだ。


「しまえよ、そのお金」


 動揺をさとられないよう、俺は必死に声色を落ち着ける。


「なに、どういうこと。もしかして、これじゃ足りないとか……」

「違う。金なんかいらない」

「……もしかして体で払えってこと?」

「いや違うから」


 想定外の返答が来たので動揺しかけるが、必死に自分をおさえ、なるだけ落ち着いた声で告げる。


「べつに誰にも言わないよ。中野が声優してること」

「……本当に?」

「ああ、本当だ。俺はウソは言わない」


 しかし、中野は疑ったような目を向ける。


「でも、最初はみんなそう言うのよ」

「最初は?」

「すごいねー、応援してる! 他の人には絶対に言わないから! でも、1週間もすればみんなが知ってて、裏でその女子が『ここだけの話なんだけど、あの子声優してるんだって。絶対に言っちゃダメだよ』って言ってるの」

「なるほど」

「そして、色んな面倒なことが起こる……だから、契約することで、口封じしようとしてるの。じゃなきゃお金なんか出さないわ」

「まあ普通はそうかもな。でも俺、友達ほとんどいないし。石神井にさえ言わなければ、広めようもないっつーか」

「今はそうでも、いつか友達100人くらいできたら言うかもしれないじゃない」

「俺は小学生か」

「あら、問題は精神年齢でしょう? 見た目がいくら老けてても、心が小学生なら言いふらすものよ」

「老け顔は余計だろ」

「目なんか死んでる感じだもの」

「老けるを通り越して死んじゃったっ!?」


 気にしていることを言われ若干傷つくが、中野がなおも真剣な表情であるのに気づき、俺も話を続ける。


「言っていいこととダメなことの区別くらいつくし、それに友達100人なんか、一生かかってもできないと思う。俺、わりと話しかけ見知りするほうだし……」

「話しかけ見知り?」

「あっ、人見知りってほどじゃないけど、自分から話しかけるのは苦手的な」

「つまり、話しかけられたら普通に話せると?」

「そうそれ」

「じゃあダメじゃない。私の秘密も話すんじゃないの?」

「あ……」


 自分で墓穴を掘ってしまった。しまった……。

 下を向いて考える様子の中野に、俺は話を続ける。


「そ、それに、みんな一個くらい、隠したい、誰にも言いたくないことってあるだろ」

「あなたにはあるの?」

「あー……まあ」


 そう聞かれ、俺は言葉に詰まった。そして、自然と絵里子の顔が浮かんでいた。

 正直なところ、我が家の特殊な親子関係について、俺は今までに誰かに話したことがない。さっきも書いたが石神井にも言ってない。


 コンテンツ観賞ノートとか、補講を受けるきっかけとなった起きた事件のこととか、そういうのは全然話せるんだけど、絵里子のことになるとなぜか口が自動的にふさがってしまうのだ。

 そんなことを思っている間も、中野は俺に詰め寄ってくる。


「あなたの答え次第では、私はあなたのことを信用するわ……」

「答え次第……」

「なんていうのかしら。お互いに弱みを握り合う、みたいな? そうすればフェアだし、私もあなたが秘密を言う心配がなくなるでしょう?」


 中野はまっすぐに俺を見つめる。


 たしかに、俺は中野の秘密を知ってしまった。だから、俺が少なからず心の中に隠し込んでいる親子関係について、話してしまうのがフェアかもしれない。中野の言うとおりに。 お互いに弱みを握り合うというのも、信用できない間柄では、抑止力としてはまっとうな選択だろう。


 しかし、だ。

 それは絵里子にとってはフェアではない気がした。我が家において、絵里子の存在は、深刻に扱うのは違うとしても、丁寧に扱うべき事柄だ。だからこそ、石神井にもまだ絵里子については明かしていない。


 我が家の家庭事情を聞いて、石神井が悪く言ったりする人間じゃないのはわかってるけど、でも、軽はずみに言うのはやはり違うのだ。


 そう考えると、中野を安心させるためだけにべらべら喋るのは、間違っていると思った。

 なので、俺は重い口を開いてこう述べる。


「……ダメだ。言えない」

「どういうこと?」


 心の中を見透かすような、中野の視線が俺を捉える。瞬きもないまま、1秒、2秒、3秒……。


「なにかやましいことでも?」

「べつにやましいとか、そういうのじゃないんだ。ただ、俺ひとりの問題ではないというか。隠してるとか隠したいってワケではないんだけど、でも俺が勝手に話したら傷つくかもしれない人がいるというか……そういうの、色々考えたら言うべきじゃないかなって」


 俺は本音を中野に告げる。胸のうちを話さない俺に、きっと中野は落胆し、交渉は決裂するだろう。

 そうなると、俺は嫌でもお金を受け取ることになってしまう。事情を抱えた同級生からお金を貰うなんて、絶対嫌なのに……。


 しかし、である。

 顔をあげると、中野は目を見開いたように驚いた表情をしており。

 そして、ふっと小さく笑みを浮かべた。


「言わないのね。それ、とてもいいと思うわ」

「えっ、なんで」

「むしろ、非常に信頼できる回答ね」

「信頼できる……さっきそれじゃフェアじゃないって」


 驚きながら指摘すると、中野は静かに首を横に振る。


「たしかに一見、お互いに秘密を抱えている関係はフェアに見えるかもしれない。でも、私からすれば、フェアになるために自分の秘密を易々と話す人間のほうが、よっぽど信用できないのよ。だってそのほうが、私の秘密も喋っちゃいそうでしょう?」

「な、なるほど……」


 と一瞬納得しかけて、ひとつの疑問が頭に浮かぶ。


「いや……もしかして俺のこと試したのか?」

「もしかしてとか言うまでもなく試したわ」

「なんだよそれ……」

「昔、そういうことがあってね。そこで学んだの」

「秘密を言うフリして、秘密を言わせられたのか……どんな経験してんだよ」

「人間っていうのは、秘密を話させたいときにこそ自分の秘密を話す生き物なんだって」

「……そうか」


 オトナが語るようなその言葉に、俺は思わず言葉を失う。

 中野のことを知らない今の俺には、予想することさえできないが、きっと、今までに色んな体験をしてきたのだろう。そう感じさせる言葉だ。


「だから、さっきまでは1ミリもあなたのことを信用していなかったけど、そうね。今からは0.05ミリくらいは信用してあげることにするわ」

「0.05ミリ……ああ、蜘蛛の糸の太さか」

「正解。蜘蛛の糸、だけにね」


 なるほど、今の俺はかんだたの状態らしい。窮地にいるのは間違いないが、欲を出さなければ無事に帰れるということか。

 ってなんだよこの話は。

 コホンと空咳をつくと、俺は姿勢を正してこう告げる。


「俺はべつにあんたを助けようとしてるわけじゃない。お金を受け取らないのも、俺がそうしたいだけ」


 中野はまばたきもなく、俺の目をじっと見つめ続けている。


「俺は声優ってものに興味がないし、仮に触れることがあっても、好きになることはないと思う。俺はそういう人間だから」


 そして、最後にこう述べる。


「そのうえで声優してるってこと、誰にも言わないこと約束するよ。それでいいか?」


 中野は、もう一度こくりと頷いた。笑顔なのか、俺を信じられないで口の端を歪ませているのか、判別のつかない表情で。



   ○○○



 そんな買収話が一段落した頃。

 コンコン…とドアをノックする音が聞こえた。続いて、ガチャとあいて、人が入ってくる気配を感じる。


「終わったようだね」


 サングラスをかけた、30歳くらいの一組の男女が入ってきた。

 前に女、その後ろに従うように男という配置。俺を誘拐した奴らだろう。


「うまく片付いたようで、なによりだな、ひより」


 そう言うと女はサングラスを外す。気の強そうなはっきりした顔をした美人で、パンツスーツがよく似合う。


「忙しいのにありがとう、美祐子」

「いえいえ。お礼の言葉なら彼に言ってあげて。ね、先生」


 そう言うと女は男の背中を押した。

 男がサングラスを外すと……気弱そうな顔立ちに、すらっとした細身の長身。黒いスーツに、癖毛の黒髪。顔にはうっすらと冷や汗が……あれ、この人、俺知ってる……。


「先生、こんなところで何をやってるんですか?」

「や、やあ若宮くん」


 いつもとおりの気弱な笑顔を浮かべながら、野方先生は俺に対して申し訳なさそうに手を上げた。

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