08 密室での買収劇1
「気がついたみたいね」
無機質な部屋で意識を回復して30秒後。両手首に手錠の痛みを感じつつ、柔和で心地よい声のした方向を向いて目をこらすと、そこには中野さんの姿があった。
ということで、この物語は時系列的に冒頭に戻る。
大きく曇りのない瞳は、縁が極端に太い眼鏡という足かせを取り外されて、存在感をいかんなく発揮していた。長めの前髪は右から左に流され、形のいい眉毛を垣間見せており、普段の一見野暮ったい雰囲気はまったく感じられない。また、手には一冊の本が開かれていて、知的な雰囲気を添えている。
三つ編みをほどき、眼鏡をはずした彼女は、見違えるような美少女だった。
「私が誰か、わかっているわよね?」
俺がコクリとうなずくと、彼女は困ったようにため息をつく。吐息もまた、年の割に妙になまめかしい。
「同じクラスの無口で地味な女の子・中野ひより……つまり私が……声優の鷺ノ宮ひよりであることにあなたが気付いてしまった件について、少しばかり話し合いたいと思っているのだけれど……」
「ちょ、ちょっと待てよ中野」
話し合いといいつつ拉致され、今のなお手錠がつけられているので、俺としては違和感しかなく、結果、自然と呼び捨てしてしまっていた。
自分で言っておいて内心「あっ……」となりかけるが、中野さんはなにも言い返さない。それどころか、喋るのをやめて優雅に脚を組み、読書を再開した。
「勇者さま、あなたはどこから来たのですか?」
「ここは始まりの町・カジバリーシティ」
「俺たちはこの家に住んでる、ごくごく一般市民で全然怪しくない平民だ」
訂正。音読を再開した。目の前に俺がいることを忘れたかのような雰囲気で、器用に姉弟3人の声を出している。
「えと、ちょっとどうした?」
「どうした? もしかしてあなた、音読がある文化圏で育ってこなかった?」
「そういう意味じゃなくて、なんで音読し始めたって意味で」
「それはだって、あなたが『ちょっと待てよ』って言うから」
「あ、うん、それもそういう意味じゃなくてだな」
のっけから筋書きのないかけ合いをさせられているようで、調子が狂う。
結果、俺がいきなり名字で呼んだのもうやむやになってしまった……が、でもそりゃそうか。俺は今まで女子の友達とかいなかったから経験なかったけど、普通のことだもんな。 なので、呼び捨てのまま話を続けることにする。
「中野……ここはどこなんだ?」
「さあどこでしょうね。でも少なくとも、どこかの事務所の一室というのは間違いないかしら?」
彼女は読みかけの本をふたたび、テーブルのうえに置くと、ヒンヤリした声でそう答える。まるで耳が氷に触れたと錯覚するかのような声色で、とても澄んでいて美しいものの、1ミリの感情も含まれていなかった。情感たっぷりだった朗読のときと比べると別人のようで、思わず背筋がヒヤッとする。
そして、俺は「事務所」という単語にも反応する。どこかの事務所って、絶対ヤ○ザじゃねーか!!
さっき俺にピストル的な何かを当ててきた男が「君は知ってはいけないことに気づいてしまった」的なことを言ってたけど……この子が声優ってのはやっぱり本当の話のようだ。
でも、それにしてもなにが起こってんのか全然わからない。芸能界ってそういう裏社会的なあれと関係が深いって聞いてたけど、黒いワンボックスカーで拉致られるとか、川崎でも滅多にないよ!?
色んな疑問が頭の中を駆け巡ってわけがわからなくなり、俺は逃げるように視線を落とす……と、テーブルの上に置かれた一冊の本が視界に入ってきた。
その表紙は、今の彼女の清純な雰囲気や、教室での真面目くさった雰囲気には合わない、ひとりの勇者の周りを不自然なほど巨乳な魔法使いや剣士の服装をした女子たちが囲んでいるイラストで……。
「ラノベ……か」
「そうよ。純文学の小説かと思った?」
「まあなんていうか」
「清楚な黒髪の美少女には、たしかにそのほうが合ってるかしら」
「自分で言うな自分で」
あの授業を除けば、教室では一言も声を発したことがない美少女相手に、俺はまたしても無意識でツッコミを入れる。話しかけ見知りなはずなのにこれはおかしいぞ……いや、拉致されて話しかけ見知りなんかなるワケないか。
「補講のとき、カバンの中身を全部ひっくり返してた、あのときにも入ってたなって」
「ああ、そういうことね。あまり謝るつもりはないのだけれど、あのときは無視してごめんなさいね」
「謝るつもりないのかよ」
「ないわ。これは仕事用なの。まだ入るとも決まっていないけれど、アニメ化されそうな作品は常にチェックしているのよ」
「アニメ化……」
「いつオーディションに呼ばれても大丈夫なように準備するのはプロとして大切なことだし、それに経費で落ちる趣味を持つのは悪いことではない。私にとっては、それが読書だったということ。まあ、もしオーディションに落ちたら……」
「落ちたら?」
「メルカリで売りさばくけどね」
「売るなよ!」
さっきより2オクターブくらい低い声を出す彼女に、思わず大きな声が出る。なにを言ってるかわからないけど、良くないことを言ってるのはわかった。
しかし、そんな俺の困惑をよそに、1ミリも表情を変えないまま、目の前の美少女はコホンと空咳をついて話を切り替える。
「声優はね、俳優と違って結構なベテランさんでもオーディションは受けるものなの。だから、いちいち保管していたら本棚が溢れ返っちゃうのよ」
「そういうものなんだな」
「台本だけでスゴい量になるからね」
「でもプロなら落ちても作品に敬意を持って保管しとこうぜ……てか、け、経費?」
「あらごめんなさい。働いたことのないニート高校生にはなかなかわからない単語、概念でしょうね」
「いや、高校生は普通みんなそうだろ」
てか、経費どうのこうのじゃなく、俺が一番理解できていないのはよく喋る中野という存在そのものなのだが……いきなり誘拐したかと思えば、目が覚めたらオーディションとか経費とか言いだすとか、一体何なんだよこの子。さすがに自由すぎないか??
というか俺、さっきから普通に話せてるし、この子も外では普通に喋るんだな……。誰に話しかけられても無視して、グループディスカッションの授業でも沈黙を貫いたって聞いていたのに。
でも今はそんなことを言っている場合じゃない。とりあえず帰るのが先だ。
「あのさ、質問なんだが」
「却下」
しかも食い気味な却下だった。
「聞きたいことがあるのだけれど」
「そっちは質問OKなんだな」
「失礼。言い方を変えるわ」
中野は顎の下に左手をそっと添えると、思案する表情を浮かべ、言い直す。
「答えてもらいたいことがあるのだけど」
「同じだろ、ってか若干強制感が強まってないか?」
「あなたアニメ観る人?」
「まあ、少しは」
その瞬間、彼女の表情が険しくなる。あれ、俺、なんかマズいこと言ったのかな。
「じゃあ……たとえば何を観たり?」
過去に観た作品の名前をあげていくと、中野の表情が神妙に変わっていく。俺がアニメに詳しいと、なんか問題があるんだろうか。
「なるほど。全然観ないってワケではないのね」
「まあな」
「むしろ詳しいくらい。オタクなの?」
「いやオタクじゃない。俺なんか大したことないよ。そりゃアニメもマンガもラノベも映画も人並み以上には観るけど、でも自信を持って詳しいって言えるものはないし、あとたとえば一応好きな監督が誰かって聞かれたら岩井俊二って答えるけど、マイベスト岩井俊二は今だって『花とアリス』で、なにげに最近の作品は観てなかったり、なんていうかそういう時点で我ながら浅いというかオタク気質なワケでは」
「あの、聞いてないことまで答えないでもらえるかしら?」
「ごめんなさい」
「それに急に早口で……その早口でオタクじゃないって無理がない?」
中野は冷ややかな口調でそう告げる。俺としてはオタクかどうかはそこじゃないんだよ……と持論を丁寧に述べたいところだが、組事務所でそんなことをするほど剛胆ではなかった。
「……それならあなた、もしかして人のほうのオタク?」
「人のほうのオタク……?」
「声優オタクかってこと」
「ああ」
「知ってる声優さんの名前、教えてもらえるかしら」
==○○==○○==○○==○○==○○==
余談です。
声優オタクには有名な話ですが、声優さんはかなりの売れっ子や有名な方でもオーディションを受けているそうです。もちろんテレビドラマや映画に出る俳優さんもオーディションは受けるのですが、名が売れると指名の比率が上がっていきます。そこは声優業界と違うところでしょうね。
オーディションネタについては今後、ひよりちゃんがたくさん話していきますが、現実の世界でも声優さんがラジオやインタビューでよく話しているので気になった方は聴いてみてください。「化物語」のラジオ「あとがたり」とか、新しいゲストが来るたびにオーディション話が出ます。神谷浩史さんはオーディション話が好き?なようで、「サイコパス」の劇場版舞台挨拶や、鈴木おさむさんの番組に出たときもオーディションの話をしています。
最近のでいうと、花江夏樹さんが『鬼滅の刃』のオーディション舞台裏をたしかナタリーで話されてました。なかなか返事がこず、落ちたと諦めてた…的な、今読み返すとすごく面白い記事なので気になった方は読んでみてください。
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