07 聞いたことのある声
そんな親子の交流があってから、一夜明けて。
うちの学校でもう30年近く教えているという女教師・下井草薫子先生(通称:女史)の現代文の授業中に、その事件は起きた。
この先生の授業では「美しい日本語を作る」という思想のもと、毎回数人の生徒が教科書および女史がプリントアウトしてきた題材を音読することになっている。女史はICT教育へのレジスタンス側なのでタブレットは使わない側だ。
俺たちの学年はこの4月から教わり始めたので、最初は「音読って……マジか……」とか思っていたのだけど、実際はべつに読み間違えてもいいし、詰まっても問題ない感じだった。音読好きな、というか音読している自分が好きな下井草女史は、生徒が読んだ後に自分も読み直すからだ。
たぶん、大学時代に英語の道に進んでいたら、きっと自分の英語の発音に酔っちゃうタイプの英語教師になっていただろう。そういう人に限って外国人と喋れなかったりするんだけどな。それで留学経験のある生徒に陰でバカにされるみたいな。
と、そんな話はさておき。
よくある感じの、教師の趣味が全面に押し出された授業の中で。
とくに大きな問題もなく、半分ほど授業が進んだ頃。
「では、最初から読んでみてください。次は……そうね、中野さん」
下井草女史が当てたのは、なんとあの中野さんだった。
去年の彼女の様子を知っているらしい一部の生徒たちは「マジか、中野さん当てられたか」「ヤバくね?」的な反応をしている。
彼女のことを知らない生徒たちも、最初のうちは「どうした?」という感じだったが、彼女が席を立たずに座っている時間が長くなると、次第にその異変に気づいていく。
「中野さん、聞こえてますか? 音読、あなたの番ですよ」
当然、下井草女史は中野さんにふたたび声をかける。が、俺の左の席にいる彼女は教科書を見つめたまま、微動だにしない。体も視線も、そして唇でさえ一切動かず、まるで彼女が一切動じていないかのようだった。
その様子は、明らかに異質。
次第にザワザワが大きくなっていく。
「あの子、今まで一度も喋ってるの見たことないよな……」
「えっ、そうなの」
「去年同じクラスだったけど、一回も声聞いたことないぞ」
「どんな声なんだろ」
「このまま帰るんじゃないか」
だが、それでも中野さんは反応せず。
その態度は、このクラスに広がる空気をすべて拒むかのような、強硬なものだった。
「うーん、困ったわねえ。みんな一度は当てることに毎年なっているんだけどねえ……」
どう対処していいかわからない様子で、下井草女史が頭を掻く。昨日、中野さんに無視された身としては、他人事には思えない展開だ。
すると、下井草女史は最大級に困った顔を見せて、ぼそっとつぶやいた。
「上手に読めないからって、恥ずかしがる必要ないんだけどね」
自分の音読に自信がある、下井草女史らしい言葉だった。
が。
女史がそうこぼした途端、中野さんの肩がぴくりと動くのに俺は気づいた。それは数センチとか数ミリとかのレベルで、おそらく俺以外の人は気づいていないだろう。
教壇から、下井草女史がさらにフォローする。
「ねえ中野さん。声が小さくても、下手でも全然構わないからね」
至極困った顔を向けたその瞬間……
ガタン!
という音が響いた。中野さんが勢いよく立ち上がり、イスが後ろに押されたのだ。途端に教室内が静かになり、クラス中の視線が彼女に集まる。
そして、中野さんは教科書を持つと……やがて、小さな声が彼女の口から漏れた。
「蜘蛛の糸 芥川龍之介」
え、今声出したよな。
中野さんが声を出したのが信じられなかったのは他の生徒も同じだったようで、クラス中に驚きが広がる。
「え、あれほんとに中野さんの声?」
「うそ、あいつ喋れたの?」
「俺てっきりなんか病気なのかと思ってた」
「いや喋れない病気って何だよ。人魚姫かよ」
そんな無責任な小さな言葉が、教室を飛び交う。
……が、中野さんがふたたび沈黙すると、教室も自然と静かになっていった。まるで、彼女の朗読を聞くためにお膳立てされたかのようで、ヒリヒリともピリピリとも形容しがたい緊張感が部屋を支配していく。
教室が静かになったことを確認したかのように、中野さんはふたたび語り始めた。
「ある日のことでございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、ひとりでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のように真っ白で、その真ん中にある金色のずいからは、なんとも言えない良いにおいが、絶え間なくあたりへ溢れております」
彼女の口からこぼれ出るその音は、わき水のように澄み渡っていた。
決して大きな声を出しているわけではない。にもかかわらず、不思議と耳に届く。窓の向こうから吹いてくる春の風に乗っているかのようだ。
同時に、程よく抑揚がきいており、声を聞いているだけで情景が浮かんでくる。クラスが、極楽浄土の蓮池のふちに変わったようで、みな、その声に驚く。
「するとその地獄の底に、かんだたという男がひとり、ほかの罪人と一緒にうごめいている姿が、御眼にとまりました。このかんだたという男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒でございますが、それでもたったひとつ、善い事を致した覚えがございます」
しかし、戸惑いは次第に心地よさに変わり、中には目をつむって聞いている者もいた。
下井草女史ですら、その声に魅了されたのか、うっとりした表情をして教壇の上でひとり頷いている。
驚くほど深い声が、教室全体を心地よい場所へと変えていく。
「お釈迦様は地獄の様子をご覧になりながら、このかんだたには蜘蛛を助けたことがあるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報いにはできるなら、この男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました」
だが、彼女の声を聞いているうちに、俺の中にふとひとつの疑問が浮かぶ。
そして、それは次第に確信へと変わっていった。
――この声、どこかで聞いたことがある――
という確信である。
俺が日頃聞いている女性の声なんてごく一部だ。下井草女史に見えないように机の中でスマホを取り出すと、俺はオヤジにLINEを送った。
遅めの昼休憩中だったのか、すぐに既読がつく。
そして、1枚の写真が届いた。
そこに写っているのは2人の男女。男はオヤジ。スーツを着て、居心地が悪そうに両方の手のひらを腹の前でぎゅっと重ねている。
もう一方は、オヤジが手がけたCMでナレーションを担当したという女子高校生の声優。長い黒髪をおろし、大きな目を笑顔でくしゃっとさせて、左手には花束、右手は胸の前でピースさせている。
オヤジから来たLINEによると、彼女の名前は鷺ノ宮ひよりだと言う。
それは今、この教室で「蜘蛛の糸」を音読している彼女、中野ひよりに他ならない。
○○○
授業が終わると、生徒たちはそれぞれ帰る準備をし始めた。
ちらちらと中野さんのことを見ているやつもいるが、朗読が終わるといつもと同じように、人を寄せつけないオーラを放ち始めたため、話しかけたくてもできないようだ。
そんななか、情報面でみなの一歩先を行く俺は、さっと彼女の横に立ち、
「中野さん」
と声をかける。そして、不思議そうに見上げてきた彼女に対し、小声で……
「中野さんって……声優の鷺ノ宮ひよりだよね?」
などと話しかけることは、できるはずもなかった。
だって俺、話しかけ見知りだもん。
補講のときは周りの圧力に屈して、自分に話しかける言い訳というか大義名分を作って、なんとか自分を追い込んで話しかけたけど、今は違う。むしろ、情報面で他の生徒より一歩先を行っているという意味でも、どう振る舞っていいか、余計にわかんなくなっている。
しかし、俺の中で、彼女の正体に関する疑念は、確信に変わりつつあった。髪型とか黒縁メガネで、完全に没個性な女子高生に擬態しているけど、よく見ると肌とかスタイルとか顔の小ささとか、すべてにおいて均整がとれている。
そしてなにより、補講のときに見た、黒縁メガネの向こうにある瞳の美しさ。それは、NAVERまとめにまとめられている写真と同じ形だった。
ダメだ、気になる……。
でも話しかけるのは無理……。
そんなふうに逡巡すること十数秒。帰り支度を終えた中野さんは立ち上がると、周囲の目線に一切反応することなく、そそくさと教室を出て行った。
○○○
「実際、どうだったんだろ……」
心の声が言葉になってこぼれて、俺はハッとなる。慌てて周囲を見るが、下駄箱に同じクラスの人はいない。運動部は部活に出かけ、そして帰宅部はすでに帰ったようだ。
しかし、だ。
まさかあの子が声優だったなんて。今日の今日まで、一言も話してなかったワケだから、たぶん誰にも気付かれてない感じだけど……。もしかして、一言も喋ってなかったのって、声優ってところに秘密があるのかな? もしかして、隠してるのかな?
「信じられないな……同じクラスに声優がいるって」
またしても、心の声が言葉になって、口からこぼれた。
ダメだ、今日の俺。いくらクラスメートの秘密を知ったかもしれないとは言え、思ったことが全部言葉になるなんて、危うすぎる。このままだと電車に乗っておっぱいの大きい女性を見たら「おっぱいおっきい……」とかつぶやいちゃうぞリアルに……。
そんなことを思いつつ、靴紐を結び終えて立ち上がると……隣に、いつの間にか人がいたことに気付く。
振り向くと、それは女子。黒髪で、黒縁メガネで、その奥にはキレイな二重の瞳が驚いたように見開かれていて……
それが誰かわかった瞬間、俺は自然と動きを封じられる。
「……」
しかし、中野さんは黙ったままでなにも言わない。俺は言わないではなく言えない状態であり、つまり、俺たちは下駄箱の横で見つめ合うことになった。
「……」
補講で見たときにも思ったが、黒い縁の眼鏡の奥に見える目はずっと大きく、力強い。
そして、色素の薄い白い肌は、ノーメイクだと思えないほどスベスベで、きめが細かかった。
沈黙が一秒のびるにつれ、俺の心音が大きくなり、血の流れがはやまっていくのを感じる。
すると、よく見ると、中野さんの口が小さく動いているのに気付いた。とても、とても小さな声でなにかを話している。
「今からこのカス野郎と事務所で話すとして、使う時間は2時間。かかるお金は交通費、人件費込みで数千円から数万円。もし口止めしなくて事が露見したら……平穏な学校生活が営めなくなり、最悪転校の可能性もある。公立で30万、私立だと200万……迷わず前者」
え、この子今、金がどうとか言ってなかったか?
しかし、中野さんは独り言を終えると、なにもなかったかのように帰り支度を再開し、俺には目もくれず教室を出て行った。
「ちがっ……たのか?」
その場に残された俺が我に返ったときには、すでに中野さんの姿は見えなくなっていた。
○○○
学校を出てからも、俺はずっと中野さんのことを考えていた。
あの朗読は間違いなくプロの技術で、声も親父が作ったCMのナレーションと同じ。親父と撮った記念写真と同じ顔をしている。
スマホで「鷺ノ宮ひより 画像」とグーグル画像検索したら、さっき近づいて見たのと同じ顔が出てくる。
普段の彼女と写真の中の彼女が、笑顔的な意味で全然違うことをのぞけば、状況証拠的には十分なほどだ。
「でも、勘違いの可能性のほうが高いよな……」
考えれば考えるほど、つい30分前の確信はどこへやら、急に勘違いだったのではないか……。
そんなことを考えながら道路沿いを歩いていると、少し先に黒いワンボックスカーが止まっているのに気づいた。川崎駅前の繁華街では、こういう車に遭遇しないこともないが、家族連れが多いこのあたりではあまりいないタイプの車だ。フィルムが貼られているせいか、横から中が見えないようになっている。
つまり、一言で言うと…
『あやしい』
のだ。俺は早足で通り過ぎることにした。
しかし、その車の横にさしかかった途端、頭の後ろで「カチャ…」と不穏な音が聞こえた。そして首筋に冷たい金属の感触があたる。
「動くな。振り向いたら殺す」
カタカナで書くと、ウゴクナ。フリムイタラコロス。
日常生活では聞くことがない言葉に、頭の中で翻訳が追いつかない。
え、なにこれ。
どういうこと?
状況を理解できずにいると、ワンボックスカーのドアがいきなり開き、中からサングラスをかけたスーツ姿の若い女が出てきた。
「ちょっとついてこい」
そう言うと、脇腹を横蹴りして、俺を車の後部座席に押し込む。
「ぐほっ…!!!」
勢いよく倒れ込んだせいで背中を強打し、視界に光が飛んだ。
しかし、スーツの女は間髪いれず、俺の両腕を背中にまわすと、手際よく手錠をかけ、目隠しをした。暗闇の中、今度は若い男の声が聞こえる。
「すまないね……でも仕方ないことなんだ。僕を責めないでおくれ、うん……君は知ってはいけないことに気づいてしまったんだよ、うん」
直後、俺は後頭部に強い金属の衝撃を感じ、痛みの中で意識を失った。
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