04 無口じゃなくて無言
「あの……」
狭くなった喉から出たのは、自分が予想した以上に小さな声だった。窓の外から聞こえてくる生徒たちの声や、吹奏楽部の演奏の音、運動部員たちのかけ声にかき消されてしまいそうな音量だ。
それゆえに気づかなかったのが、彼女はなおも真剣な表情で板書を続けている。妙に姿勢のいい、それでいて首だけ曲げてノートを上から見下ろすような、特徴的な姿勢で。
「あの……」
なので、さっきより少しだけ大きな声を出す。すると、彼女の手が止まった。数秒のタイムラグののち、顔がゆっくりとこちらを向き、さっきまでメガネの縁に隠れて見えていなかった俺を映す。
予想よりずっと大きな瞳で、キレイな二重だった。黒目はカラコンを入れているかのような大きさで、なぜか俺の頭のなかには夜の海が浮かんだ。
その中に落ちていきそうな気になって意識の対象を変えると、肌が透き通るように白く、キメが細かいことに気付く。小ぶりで薄い唇は非常に形が良く、ほんのりと赤い色に染まっていた。
(この子、地味だけどめっちゃかわいくないか……)
そんなことを思ったせいで、自分がなんのために話しかけていたのか一瞬忘れそうになった。飛びかけた言葉を必死で掴み、俺は続ける。
「も、問題集、忘れたんだよね?」
十数文字にも関わらず、すっかり喉が渇き、声がうまく出ない。
「良かったら、これ、一緒に……」
しかし、なんとか振り絞って、言葉を出し切った。他の生徒たちからも、「よく言った!」「意外といいやつじゃん!」的な温かい視線を感じる。みんな、もはや補講は全然聞いていない。
……だが。
そんな注目されている状態にも関わらず、と言っていいだろうか。彼女の反応は想像とはまったく異なるものだった。
「……」
俺が一連の言葉を言い終わるやいなや、なにも言わず、すっと黒板のほうを向き直したのだ。
そして、そのまま板書を再開。むしろ、俺に声をかけられて無駄にした時間を取り戻すかのような、スピーディーさだった。
……。
え、これってどういうこと。参考書は見なくていいって意味?
ってことは、要するにこれ、無視ってやつですか?
無視。
ムシ。
むし。
MU☆SHI!
………。
………………。
………………………。
俺は顔の表面がかあっと熱くなるのを感じ、机に突っ伏すようにして隠す。
ダメだ、どんな書き方にしても、この現実に打ちのめられない気がしない……。
これまで、人に話しかけようと思って話しかけられないことは何度もあった。だが、勇気を振り絞って「あの、消しゴム落としたよ」的に話しかけると、大抵みんな笑顔で接してくれた。
その対応は、話しかけ見知りとしては救いだったと言える。
だからこそ、人から無視されること、スルーされることがこんなにも切ないことだったとは知らなかった。
正直、その後の授業のことはよく覚えていない。全部わかる範囲の補講で、良かったと思った。
○○○
補講が終わると、隣の席の黒髪黒縁女子はすぐに帰って行った。
失意と妙な疲労感のなか、帰り支度をしていると、背後から声がする。
「若宮くん……だよね?」
振り向くと、そこにいたのはショートカットで色白の文化系女子だった。おっとり優しい雰囲気をしており、上品な笑顔を俺に向けている。
薄曇りの空の色味を含んだような髪色は、黒髪より暗髪と例えるのが良さそうな雰囲気。色白な頬には「天使がさくらんぼを置き忘れたのかな?」と思えるほど、まあるく赤く染まっている。
普通にしていて微笑を浮かべているかのような表情は、人の良さそうな印象と、それとは真反対の蠱惑的な印象を合わせもっていた。
そして、彼女はほんのり膨らんだ胸を隠すように、ケースタブレットを持っていた。茶色い皮の保護ケースをつけており、どことなく大きめの手帳を持っているように見えた。
ここで俺がわかったことはふたつ。
ひとつは、この女の子が、俺のような根暗な非モテ男子ウケしそうな美少女であるということ。
そしてもうひとつは、話しかけられている状況にあって、俺は彼女のことを思い出せないでいるということだ。
「……」
結果、反応できないでいた。
「気にすること、ないと思うよ」
しかし、彼女はそんなことは気にしていないのか、それとも気づいていないのか、ゆったりした口調で言葉を続ける。ふんわりとした雰囲気でふんわりとした喋り方なので、なんというかふんわり感がスゴい。
「むしろあの状況の中で声かけてて……私、感心しちゃったもん」
「気にする……って、えっ?」
「中野さん、あ、さっき隣の席だった子ね……中野ひよりさん、って言うんだけど」
「中野……さん」
「あの子ね、全然喋らないの」
「そう、なん、だ」
途切れ途切れになりながら、俺は言葉を返す。はやくも彼女の喋り方が乗り移ったかのようだ。
「私、去年同じクラス……だったんだけど、声聞いたこと、一回もなくて」
「え、一回も?」
「うん一回も」
同じクラスなのに一回も声を聞いたことがない……?
思わず尋ね返したが、彼女はいたって真面目な表情で、ウソをついているわけではなさそうだった。そんなこと、あり得るのか??
そう思うと、自然と質問が出る。
「喋らないって、なんか理由でも……?」
「んー、どうなんだろう」
「もしかして、なんかの病気とか? 喉がすげえ弱いとか」
「いや、そんなことはない……と思うけど。私、こう見えてみんなと仲良くなりたいタイプだから……話したことがない人も『今』みたいに、チャンスがあったら話しかけるんだけど……中野さんは、いっつも無視で」
暗髪おっとり文化系美少女は、眉毛をハの字にして首をかしげる。自分のほうが知りたいよ、といった感じで、俺は彼女の「今」の部分を強調した言い方に胸がトクンと脈打っていた。
ほわっとした雰囲気の彼女が自ら積極的にコミュニケーションをとるタイプというのはちょっと予想外だが、それ以上に今は中野さんに興味が湧く。
「彼女の場合、そもそも築くつもりないのかも、人間関係」
「他の人にも同じ感じ?」
「そう。男子とか、女子とかも関係なし……前に、授業でグループディスカッションあったときも、最後まで一言も喋らなかったんだ」
「すごいなそれ……」
最近の学校では、生徒の思考能力、演説能力を鍛えるために、グループディスカッションを取り入れている高校が少なくない。
受けている当人としては高校生に論理的な議論なんて難しいよねー、というのが本音だし、日頃の人間関係と地続きで議論が行なわれるため、友達の多い人や人気者が結果的に喋るだけ、という感じになることも多い。
結果、俺はグループディスカッションが苦手で、うまく発言できたことはないのだが、それでも「一言も喋らない」という方法に出る人がいるとは思わなかった。
「私、喋るの下手で、スピードも遅いからGD苦手なんだけど、でも喋らないワケにはいかないでしょ?」
「なのに無言だったと」
「だから誰も喋りかけなくなったし、それにあの子、地味に遅刻とか早退するの」
「真面目そうな見た目なのにな」
「だから不思議で……色々と謎なんだよね」
地味な見た目に反して、なかなか素行不良な感じで、どういう子なのか、本格的にわからなくなる。
結果、いつしか俺たちはふたりして沈黙していた。
すると、暗髪おっとり女子が、なにかに気付いたように「あ」と言い、手を胸の前で合わせる。
「そうだ自己紹介忘れてた……私、本天沼(ほんあまぬま)舞。若宮くんと同じクラスなんだけど……わかる?」
マジかこの子、同じクラスだったのか。2年が始まってまだ1週間とは言え、これだけ話してわからないとは言えない状況なので、俺は急いで脳内で画像検索をかけていく。
すると、1枚の写真がヒットした。その写真は休み時間に石神井を写したもので、彼女は奴と並んで話していた。
思い出した。石神井と、同じ中学校の子だ。たまにふたりで話したりしてる。
そして、学級委員でもあった。
「も、もちろん。学級委員の」
「うれしい。覚えてくれてたんだぁ」
「そ、そりゃね!」
「ふふ。私だけかと思った……ほら私、石神井くんから若宮くんのこと、聞いてたから、ね?」
「あ、そうなんだ」
なるほど、向こうはこちらを把握済みだったらしい。
「だから、一方的じゃなくて……ちょっとホッとした」
嬉しそうに、目のなくなる笑い方で本天沼さんが笑い、そして俺の方向に数センチ近づいた。彼女にとっては無意識の行動だったようだが、ふわっとせっけんのニオイが香ってくる。思わず、クラッとしそうになる。
しかし、次の瞬間、彼女はすっと身を引くと、少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「べつに、勉強が苦手ってワケじゃないの。ただ、数学だけは……どうしても好きになれなくて……」
「はあ」
「それでこっそり、補講受けてたんだけど」
「こっそり」
そこに俺が現れてしまったということか。なんだよ、めっちゃ間が悪いな俺!!
「えっと、なんかごめん」
「いや、いいのいいの! 話しかけたの、私だしさ……」
はにかんだ笑顔を浮かべながら、本天沼さんは手を振って苦笑いを浮かべる。
たしかに、クラスメートに知られたくないのであれば、自分から話しかけなければいいだけだ。
「若宮くん気づいてない感じだったし、静かに帰ろうと思ったんだけど……でも」
「でも?」
「でも、中野さんに話しかけてるの見て……居ても立ってもいられなくてっ!!」
「そ、そこまで?」
「そう! 若宮くんは、そこまでのことをしたの……!」
本天沼さんの口調に、熱が帯びてきたのを感じる。
「若宮くんに話しかけないと、私、今日絶対眠れないなって……」
「さ、左様ですか……」
俺を見る目は、なぜか少しうるっとしていて、感情が高ぶっているのが伝わる。
あれ、どうしたんだろこの子。ぱっと見、大人しくて文化系な女の子かと思いきや、意外とそうでもないのだろうか。
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