03 隣の席の女の子
その日、授業が終わり放課後になると、俺は補講を受けるために、校舎A棟3階端にある教室に向かっていた。
うちの高校は1年が最上階で、2年が2階、3年が1階と学年があがるにつれ階は下がるようになっている。つまり、去年まで授業を受けていた階だ。
(まさか自分が補講を受ける日が来るなんて……)
そんなことを思うが、理由が理由なので諦めはすでについている。教室に入ると、すでに十人ほどの生徒が散らばりながら座っていた。
各クラスから集められたせいで、お互いになんとなく顔を知ってはいるものの、それぞれ特別仲のいい人がいるワケではないのか、話しかけたり、隣の席に座ったりはしない。
そのせいか、微妙に距離感が生まれていて、俺はそれを心地よく思った。教室もこうだったら楽なのにな……とクラスに話せる人が石神井しかいない身として思うが、現実的にそうなる可能性はないのだが。
空気を読んで、俺も他の生徒から少しずつ距離がある席に座る。窓際から2列目の、後ろから3番目の席。ここなら、静かに補講を終えることもできるだろう。人生初の補講で、少し緊張してるからちょうどいい。
(さてと……)
教科書と問題集、ノート、そして筆箱を取り出すと、俺はいつもの配置に並べる。筆箱が机の最左翼、左半分にノート、右半分に教科書、問題集という布陣だ。
並べ終わって手持ちぶさたになると、少しばかり心にゆとりが生まれてきたのか、教室内が妙に静かなことに気づいた。誰も話していないのだから静かで当たり前なのだが、テスト前であっても誰かしら喋っているので、ここまで静かな教室というのはなんだか変な感じだ。
目を細めながら窓の向こうを見ると、部活に精を出す生徒たちの声が聞こえてくる。夕焼けが教室に差し込んで、少しまぶしい。
すると。
後方のドアが開き、ひとりの女子が入ってきた。
自然と視線がその方向へと集まるが、それを拒むかのようにその女子はスタスタと歩き、教室後方の真ん中で立ち止まり、周囲を見回す。
長く伸ばした黒髪を綺麗に三つ編みにし、伸びた前髪は目にかかりそうになっている。黒縁の眼鏡をかけており、しかも少し低い位置にかけられているので、太い縁が邪魔になって目がよく見えない。身長は標準より少し高めで、163センチくらいだろうか。俺が173センチなので、10センチ低いくらい。細身の体型で、制服は崩さず、シャツもきっちり一番上までボタンをとめ、規則通りにかっちり着ている。
つまり、どの要素を取り出しても、校内に数十、数百といるごくごく普通の女子生徒だった。
とくに交流のある人もいなかったのだろう。最初はその姿を見ていた他の生徒たちもすぐ体勢を直し、教科書を見たり、頬杖をついたりして、待ち時間をふたたび潰し始めた。
そんななかで、俺はもうひとつのことに気づいた。彼女を、クラスの中で見たことがあったのだ。まだ今のクラスになって1週間ちょいだが、間違いない。一度も話したことはないが、俺の左隣の席の子だ。
そしてなぜ隣の席であるにも関わらず、俺が若干気付くのに遅れたかと言うと。
--彼女は先週、たしか2日しか学校に来ていなかったから--
だ。
始業式から欠席しており、学校に来た2日のうち1日は遅刻。2時間目が終わった後の休み時間に入ってきていたと記憶している。真面目そうな見た目だが、意外と素行不良な感じなのだろうか。
そして月曜日の今日も結局最後の授業までやって来なかった。昼休みに前後左右を見回したので間違いない。
(授業全部休んだのに、補講だけ来るってなんなんだ……?)
そんな彼女は。
教室の中を伺うこと約10秒。他の生徒から程よく距離が取れる席がどこにもないと気づいたらしく、窓際の列の後ろから3番目の席、つまり俺の隣に座った。
こうして、お互いに触れないかのようにして保たれていた、教室の空気が途切れる。机の上に広げた教科書を、少し首を折り曲げるような独特な姿勢で、彼女は見下ろしていた。
○○○
それから程なくして、数学の家政先生が入ってきた。
初老のおじいちゃん先生で、授業のわかりにくさと、生徒の授業に臨む態度への甘さには定評がある人物。つまり、彼の授業は結構な高確率で崩壊するか、誰も聞かず、3分の2が寝ている……なんて事態になる人だ。
だがさすがの補講である。今のところ誰も喋らず、静かに座っている。そんな教室を見回しながら、家政先生は言った。
「えーっと、各クラスの担任の先生から伝えてもらったんじゃと思うけどな、えー、今日はな、教科書じゃのうてな問題集を使うからな。タブレットは使わないからしまってよろしい」
忘れていたが、この家政先生は『レジスタンス』のひとりで、授業でタブレットを使うことはない。指令通り生徒たちはタブレットをカバンに入れ、問題集を取り出した。我が校の数学の授業においては補助的に使用される教材なのだがやたらと分厚く、持ち運びに適さないので生徒のほとんどがロッカーに置いている。
(補講なんだし、プリント何枚か用意してくれたらいいのにな……デジタル配布ならすぐなのに)
ゆえにそんな不満が浮かぶが、そういう配慮・気遣いが一切ないのがレジスタンスなのだ。紙で学んだほうが成績があがると信じて疑っていない。
「じゃあ最初の問題からな」
授業が始まり、俺はシャーペンを持つ。
と言っても、実は数学は得意科目。あの朝、あんなことが起きなければ満点近い点数を取れていたはずなので、とくに新しく覚えることもない。今から解くらしい問題集も、すでに3周はこなしている。
…。
いかん、注意が散漫になりそうだ。
……。
でも、なるよなあ。授業はきちんと聞く、真面目さが取り柄の俺でも。
………。
と、そんなことを思っていると、左隣がなにやらごそごそしていることに気づいた。黒髪黒縁の三つ編み女子が、右に傾き、机の横にかけたカバンを開けてなにかを探していたのだ。机の上に教科書と筆箱があるのを見ると、おそらく問題集を忘れたのだろう。カバンの中を諦めた彼女は、次に机の中を見る。
だが、ここはいつもとは違う教室である。当然、探している問題集はなく、もう一度右側に身を乗り出してカバンの中。次第にまどろっこしくなったのか、カバンを手に取って膝の上に置くと、彼女は内側のポケットや、外側の小物を入れるスペースを確認し始めた。 しかし、そこにも探し物は入っていなかったようで、手の動きはどんどん加速度的に早くなり、仕舞いにはカバンを机の上でひっくり返し、中身をぶちまけて、捜索開始。なんていうか、空港のゲートのようだ。
机の上には教科書、ノート、財布、スマホ、それにイラストが表紙に描かれた小説……
(あれは、もしかしてラノベ……?)
雑多な山のなかから問題集を探す彼女。表情には1ミリの変化もないのに、頬は少し赤く染まっていた。制服の内ポケットに手を入れ始めたことで、心のなかでは大いに焦っていることが伝わってくる。
そうやって彼女が探し続けている間、俺は生徒たちの視線が自分のほうに向いてくるのを感じていた。
『見せてあげればいいのに』
『隣であんな焦ってるじゃん』
『気の利かないやつだな』
視界の端で、みながそんな目をしていているのがわかる。ついさっきまでお互いの存在に触れあわない空気だったのに、まさかこんなところで一致団結してくるとはって感じだし、そんなことを思っている間に視線に遠慮がなくなっていくのを感じる。
そして、分厚い老眼鏡で小さな文字を必死に読み上げている家政先生は、教室内で起きている異変にはまったく気づいていない。レジスタンスは、変化を嫌うだけでなく。変化に鈍感なのだ。
無視するのも限界に達した頃、俺は意を決して手をあげた。
「先生、トイレに行ってきてもいいですか?」
○○○
トイレの洗面台で顔をばしゃばしゃ洗う。
「はあはあはあ…」
息継ぎがうまくいかず、呼吸が荒くなる。ハンカチで濡れた顔をぬぐうと、鏡の中には少しやつれた表情の男がいた。
「あれくらいでビビるとか、俺どんだけメンタル豆腐なんだよ…」
しかも分類的には絹じゃなく木綿。豆腐の中でも耐久性ない感じの。いやもしかしたら豆乳かもしれんな。もはや豆腐じゃない。
そんなどうでもいい一人問答を脳内で繰り広げながら、俺は野方先生の顔を思い浮かべていた。野方先生、きっとあの子に伝達し忘れたはず。いや、違うか。本当は俺に伝えるときに言う予定だったけど、まだあの子は登校してなかったんだ。
こういうとき、話しかけ見知りで友達の少ない人間は弱い。
普段注目されることがないので視線に耐えるのが苦手だし、話したことのない人にさりげなく話しかけるなんて難易度が高すぎる。
でも。
視線とかはさておき、隣に困っている人がいるのを知ってて無視できるほど、強情な性格でもなかった。
というかむしろ、申し訳なさを感じるくらいなのだ。
たとえば、電車で寝ているフリをして席を譲らないとかできないし、重そうな荷物を持って階段を降りているおばあさんにはついつい声をかけてしまうからな……。
べつに、人助けをしたいとかいい人に思われたいとかじゃない。むしろ、「できるのにしなかった」ということで自分を責めるのがイヤなだけなのだ。できる善行をしないのは、もはや悪行というかさ……。
そんな名言チックな言葉が浮かび、俺はひとり覚悟を決めた。
○○○
トイレから席に戻ると、俺はゆっくりと左側を見た。
黒髪黒縁三つ編みの女子は、もう探すのを諦めたのか、静かにノートに板書をしている。 たしかに、板書さえきっちりしていれば、今わからなくても問題ないかもしれない。帰宅すれば問題集はあるわけだし、教師が言っていたこともわかるだろう。
だが、俺は教室の視線に応えることにした。
たまたま隣になったのが俺だったんだ。それぞれ間隔をあけて座っている補講で、彼女に問題集を見せられるのは俺しかいないし、見せないまま終わるのも、きっとストレスに感じるはずだ。
鼓動が、少しずつはやくなっていく。思えば、自分から女子に話しかけるのは、小学生以来かもしれない。石神井がなんの躊躇いもなく俺に話しかけてきたのがいかにスゴいこと、いやヤバいことなのか実感する。
でも、これは仕方ないことなんだ。
「あの……」
彼女にだけ届くような小さな声で、俺は喋りかけた。
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