1章

01 旧校舎の片隅で

俺の通う神奈川県立溝の口高等学校は、県から「ICT利活用教育推進研究校」に指定されている。


 ICTという単語に「難しそうだな……」と思った人や、思った結果、第1話にして早速ブラウザバックしかけた人のために簡単に説明すると「IT教育を頑張ってる学校です」という意味で、タブレットを使って授業を受けたり、県内の公立高校では唯一校内にWi-Fiが飛んでいたり、ちょっと変わった環境だ。


 どんなふうに授業でタブレットを使うかと言うと、主に生徒ひとりひとりの端末に入っているアプリを活用。集団学習用に開発されたものらしく、映像を使って理解を深めたり、先生の端末に向けてレポートを提出したり、グループワークではプレゼン資料を作ったりすることができるという、なかなかの優れものだ。


 たとえば日本史の授業では、関ヶ原の戦いを地図で表示し、時間経過によって戦況がどう変わっていったかを視覚的に確認して学びを深めている……みたいに言えば、そのスゴさが伝わりやすいだろうか?


 もっとも、タブレットを使用するかはある程度、教師の裁量に任せられている。なので若手の教師が「採点が楽になる」という理由で、小テストですらタブレットで行なう一方、中高年以降の教師のなかにはまったく使わない人もいる。


 そういう教師はデジタル配布で済む資料もプリントとして配りがちで、結果的にリュックが重くなったり、授業を休んだ場合は取りに行かないといけなくなるので生徒の間では不評であり、『レジスタンス(※抵抗勢力の意)』という通称で呼ばれていたりするのだが、ほとんどが還暦近い先生たちなので、まあそこは仕方ないと個人的には思っている。


 とはいえ、教師がタブレットを活用しなくても生徒各人が使う分には自由だし、上にも述べたとおり校内にWi-Fiが飛んでいるので、生徒たちは自由に接続することができる。これは授業中に限った話ではなく休み時間も当てはまり、生徒たちはYouTubeやマンガアプリなどを、自身のスマホで自由に楽しんでいる感じ。


 と、ここまで書くと「なにその最高な高校……」と思うかもしれないが、最新なのは教育スタイルだけだったりする。


 じつは我が高校、校舎がとてつもなくボロいのだ。



 学校のある川崎市は、財政的に苦しいのか区役所や図書館が軒並みボロいことで有名だ。聞いた話によると、今の市の財源では老朽化した水道管を全部変えるのに120年程度必要だそうで、そのうち地震や台風の被害に遭わなくとも自然に破裂する可能性がある……というのはちょっとしたトリビアだが、そんな状況ゆえにボロい区役所たちと比べても、段違いにボロいのがウチの高校なのである。



 建築されて半世紀以上経つ校舎は、壁の至るところがひび割れ、シミだらけ。



 パイプというパイプがサビついていて、冬になるたび水道管が凍結して、どこかしらの蛇口が必ず使えなくなる。



 壁が異様に薄く、「隣の教室の授業が聞こえてきたと思ったら、隣は体育の授業中で誰もいなかった(=つまりもう一個の隣の教室の声だった)」「校内Wi-Fiがわりと強いのも、単純に壁が薄いせい」という噂がまことしやかに囁やかれる。



 数年前に耐震補強工事が行なわれたもののリフォームされたのはトイレだけで、「トイレが学校内で一番キレイ」というシュールな状況が発生。自然とそこに人が集まるようになった結果、便所飯をしていたカースト下位の人間たちの居場所がなくなる。



 毎年、新入生たちに向かって校長がマジなテンションで「え~、旧校舎は震度5以上で倒壊する可能性あるので、授業のあるとき以外は絶対に近づかないように」と述べる。



 ……とまあそんな感じの、公立高校ならではの酷い環境になっているこの神奈川県立溝の口高等学校なのだが、なんだかんだ言っても校内にWi-Fiが飛んでいるのは、スマホ世代の生徒たちにとっては嬉しいことで、そこだけで多くのデメリットを不本意ながらも受け入れているのが実態だ。



   ○○○



 さて。


 前置きが少々長くなったが、そんな色んな意味で個性的な我が高校には唯一、Wi-Fiがとどかない場所がある。

 「旧校舎」の名称で呼ばれる「校舎C棟」1階奥、地下倉庫へとつながる階段だ。 


 上にも述べたとおり、我が高校のWi-Fiは結構強く、基本どこでも繋がるのだが、半地下かつ基地からもっとも遠いという理由で、この階段だけはスマホにあの扇形が表示されなくなるのである。


 そして、そういう理由で誰も寄りつかない階段の途中でひとり、弁当箱を脇に文庫本を広げている、非常に暗い人間がいた。シチュエーション的に暗いだけでなく、目つきが悪く、伸びた前髪が軽く目にかかっており、まるで社会と交わるのを拒絶しているかのよう。おまけに読書のしすぎで猫背気味になっていて、見れば見るほど暗くて陰鬱な人間だとわかる。


 その名も若宮惣太郎。

 つまり、俺である。


(あと少しだな……)


 誰もいない、Wi-Fiすら寄せ付けないこの場所はとても静かで、読書が捗る。春の穏やかな日差しを灯りにした読書は、昼休み終了の10分前には終了した。読書を終えたのではない。今、手に持っているラノベを読み終えたのだ。


 そして、俺はボールペンを手にとってノート……細かく言えばロルボーンのポケット付きメモに感想を記入していく。ペン先のボールが転がり、インクが紙へと浸透する音が聞こえそうな静かな環境……校舎の外の道を男女の声が聞こえ、近づき、遠ざかっていく。


 意識して耳を澄ませたワケではないが、ペンの動きが止まっていたことに自分でも遅れて気付いた。小さく息を吸い、ふたたび記入を続ける。


 そんなふうにして数分経った頃、遠くから足音が聞こえてきて、背後から聞き慣れた声がした。


「こんなとこにいたのか」


 振り返ると、髪色の明るい、目鼻立ちのはっきりしたイケメンが笑っていた。彼の名は石神井大和。1年のときから同じクラスで、俺の唯一の親友であり、唯一の友人だ。なお、文化祭実行委員(後夜祭の花火担当)でもあるのだが、まあそれについては後ほど。


 石神井は階段を降りてくると、俺の隣に座る。右手には食堂横の自販機で買ったらしい、いちごミルクオレの紙パックが握られていた。ぱっちりした二重の瞳が、俺の手元に注がれる。


「人気のない旧校舎の階段、手にはラノベ……すまんな、まさかオ○ニー中とは」

「いやなんでそうなるんだ。普通に読書だろ」

「普通ってなんだよ。ラノベでシコる男なんか世の中にたくさんいるだろ?」

「それはまあそうかもだけど……でも学校ではしないだろ」

「学校ではしない……ってことは家ではしてるんだな?」

「石神井、お前は一体何を言ってるんだ……」


 そんなふうに返答すると、石神井は満足そうに笑う。


「また新しい本読んでるのか」

「正確には読んでた、だな。さっき読み終わった」

「今年何冊目だっけ?」

「それを知りたいなら今日が今年の何日目か数えてくれ。基本2日で1冊ペースだから」

「相変わらずスゴい読書量だな」

「いやいや、俺なんか大したことないよ。本当の読書家はもっと読んでるけど俺は読まない日も全然あるし、1ヶ月全然読まないとかもあるし、好きな小説家はって聞かれたら森見登美彦って一応答えるけど、ゆうて半分くらいしか読んでないし……」

「急に早口になるんだな」

「だから俺なんかオタクって呼べるレベルじゃ全然ないんだよ」

「そうか。俺からすれば、感想書いててオタクじゃないって無理あると思うけど」


 そう言うと、石神井はなぜか満足げに笑う。


「でも、なんでこんなところで?」

「それは、えっと……」


 石神井の言葉に、俺は思わず押し黙った。


「教室から中庭、中庭から図書室、図書室から今にも潰れそうな旧校舎の地下階段……近年稀に見る都落ちだな」

「そういうつもりはないんだけど……静かなところを求めて移動してたら気付いたらここだったっていうか」

「もしかして自分以外の人間は話す価値もないバカだと思っているのか?」

「やめてくれよ、そういうふうに人を中二病的に言うのは……」

「だな。若宮はそういう人間じゃないよな」

「それにもし自分以外をバカだと思ってるのなら。それって石神井も入るってことだぞ」

「俺も? まあでも俺はバカだからな……」

「認めるのかよ……」


 思わず呆れるが、石神井はニヒルな笑みで、その整った顔立ちを崩すだけだ。

 すると、石神井は神妙な笑顔をこちらに向けつつ、俺の手からノートをそっと取って、しげしげと眺め始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る