Ⅰ.『大司書、死を説いてカッとなる』

 人が星の海原へ漕ぎだしてしばらく経つ。

 霊長類でしかなかったホモサピエンスがそこに至るまで、どのような道を辿ったのかは膨大な資料が物語っている。その歴史をなぞっていくには、パラディホムスであっても途方もない時間がかかるだろう。

 特筆すべき点は、人が"肉体を捨てきれなかった"ことだ。

 星間航行には躊躇なくプログラムを送り出しても、意識のバックアッププログラムをネットワーク上で生かすことにはいささか、気持ちが悪い。人たらしめるわたしを、ほぼ完全な形で制限なき世界ヴァーチャルへ解き放つ技術を手に入れた人は結局、予備バックアップという名目で自らの分身を作り出すに留まった。

 当然、「分身パラディホムスは人か?」という問いへ突き当たった人間は、この挑戦を放棄。結果的に人間は、ヴァーチャルへの道すら一方向に制し、二つの世界が隔てられて久しい。

「……と、ここまでが貴方がた人の大まかな概歴です。もちろん、実際にはより濃いのですが」

『人類史・MMMCXXI~ゆりかごからの巣立ち~』の背表紙をスーッと撫で、煉瓦なみに厚い書のページを閉じる。ワタシが編纂した書物はだいたい、厚い。

 今度は逆方向、本の"地"から"天"に添って背表紙をたどると、百科事典よろしく重厚な造りの本が細かい立方体に分解。折りたたまれていった先で空間に開いた青い線へ収納、天井へと吸い込まれていく。

「ふぅ~ん」と隣から素っ気ない声がした。聞いていないようで、実のところ、しっかり頭に入れていることに気づいたのは最近だ。

「ねぇねぇ、ホモサピってなぁに、ザック?」

「生物種としての人間をかつて指していた言葉です。それよりジョン。記憶領域と出入力に限度がない以上、貴方にはなるべく正式名称フルネームを使っていただきたいのですが」

「いいじゃん。響きがたのしいもん。ザックだって、『ジョン』ってよぶし」

 ケラケラと、屈託のない笑顔で言ってのけるのは乳白色の人影。人格の多重化についてはまだ話していないから、ジョンの言葉は本心だ。吸収と"返し"の早さには恐れ入る。

「ワタシは貴方を一人の人間としてみているからで……まあ、よいでしょう。もう音韻を感じとれるなら、字音の講義は必要なさそうですね」

 肩をすくめたワタシに、ジョンも同じ仕草を返す。

 ジョンとワタシは、フィルビヴロ図書館の読者スペースに腰を下ろしていた。館内の5-II-Dエリアに設けているスペースではあるものの、そもそもがデジタルの世界フィルネットなのだから、空間的概念は有って無いようなものである。ワタシがジョンに付きっきりでいられるのも、ワタシという存在が館内のどこからでもアクセスできるおかげだ。

 司書として他の来館者に応えつつ、外見上の変化に乏しいパラディホムスへ訓示を垂れてみせる。

「いいですかジョン。言語の音階や韻を愉しむのは結構ですが、本質を理解する妨げになるかもしれません」

「ホンシツってなぁに? パンは小麦粉ってこと?」

 階段に腰かけたジョンが短い脚をブラブラさせて首をかしげた。

 いささか偏っている可能性はあるが、ジョンはすでに基礎知識を吸収している。その時点で、たいがいのパラディホムスは外見を"大人っぽく"するものだ。一部、好んで幼児体型を維持する者を除いては、リアルワールドの肉体か、理想としていた体型に近寄る。

 ジョンの場合は、肉体アップロードの初期に手違いがあったようなので、"あちら"の記憶をほとんど持ち合わせていない。そのことが体の変化と関係しているかもしれなかった。

「小麦粉は構成物。パンの本質は"食べ物としてのパン"。食することのできないパンは、材質によりけりですが玩具であったり、それこそこのような……」

 ワタシが手のひらを上へ向けると、焼き窯から出してきたばかりのような、バターの艶が美しいクロワッサンが出現した。香味情報を付加すれば、食欲をそそる香りでも漂ってきそうだ。

「視覚情報のまとまりであらわすことも可能です。もっとも、ワタシたちには本質的に不必要なものといえますが……ジョン?!」

 ワタシの手からパッとクロワッサンをくすね、ジョンが口へ突っ込む。もちろん、データの集まりであるパラディホムスジョンが同じ、コードで形成されたマスイメージクロワッサンを取り込んだところで人間よろしく、窒息することはない。

「ぐっぷ……ザック、味しないよ? 食サン食品サンプルこれ?」

 丁寧にゲップまでしてみせたジョンが頬を膨らます。

「ジョン・ハンコック」

 背筋を伸ばし、フルネームで呼んだワタシへ露骨に眉をひそめる幼いパラディホムス。気づかない振りをしつつ、ワタシは話題を変えることにした。

「〈アグネィル〉について話したことをおぼえていますか」

 まだ早いと考えていたが、ここは一つ、灸を据える必要があるかもしれない。

「うん。ザックとおなじ、純粋プログラムで、パラディホムスのダウンロードを担ってるんだよね。アップロードは〈ゆりかご〉でだっけ。"あっち"でバックアップのパラディホムスが必要になったら、こっちで〈アグネィル〉が掻っ払いにくる。とっても高度なプログラムで、仕組みを理解できる者はほとんどいない。ザックにもわからないんだよね?」

 スラスラと知識を披露するジョン。丸暗記かとおもえば、関連した項目を引き合いに出すあたり、ちゃんと自分で思考しているようだ。いちいちワタシを比較対象にするのは偏りが出そうでやめてほしいが。

「そのとおり」とうなずいて続ける。

「彼らのプログラムは、ワタシにもほとんど理解できません。しかし、わかることもあります。〈アグネィル〉はフィルネットにおいて消滅の象徴。貴方がたにとって、まぎれもない"死"そのものなのです」

「……死?」

 幼いパラディホムスがまたしても首をかしげた。死の概念は、パラディホムスにとって知識の断片でしかない。"そういうものである"程度にしか考えられないのだ。

 もはや知る術はないが、自己憐憫からか、解放の証としたかったからなのか、人はパラディホムスから"死への恐怖"を取り除いた。生物種には当たり前の恐怖を持たないパラディホムスが〈楽園の人Paradihomines〉と名づけられたことに、思い当たる当人はほとんどいない。

「ええ。死とは、いなくなるということです。ここから完全に消えてしまう。ジョンという貴方は跡形もなく……」

「だからなぁに?」

「なにって……」

 言葉が出ないワタシに代わって、幼いパラディホムスが当たり前だとばかりに言葉を重ねる。

「ザックの言うぶんだと、人間の本質ってしんじゃうんでしょ」

 パラディホムスに死への恐怖はない。ジョンの反応は自然だ。なのになぜか、ひどくコア・コードがざわつく。ジョンの元を訪れる御迎えアグネィルが勝手に思い浮かび、ワタシの思考はパラドクスに陥りそうになる。

 そんなワタシを見つめ返してくる瞳の輪郭は、まだまだ描写が荒い。

「パラディホムスだってしぬんなら一緒じゃん? まえにザックが『ジョンの本質はジョンです』って言ってたけど、おんなじくらいロジカルじゃないよ」

「たしかに長らく、人は死を受け入れてきました。ですが、そのことと貴方の死は別問題ですよ。ジョンはジョン以外の何者でもない。同じように自明なのです」

「どうして? なんでザックは言いきれるの? 『ジョン』だって仮名かめいじゃん。ザックになにがわかるわけ? 知の蒐集者ってよばれてるから、自明にすりゃ考えなくて済むってカラクリ?」

「考えないという選択肢はワタシにはありません。ジョン、理論を突き詰めると、おのずと答えがわかるときもあります。『悟り』と定義されることもありましたが、いずれ貴方も……」

 説明を試みるワタシにジョンが頭を抱える。

「あ~もうわかんないなぁ。自分が知りたいってのに悟りに自明ってなんだよ。いっそ、〈アグネィル〉にリアルワールドへ……」

「いけませんっ、ジョンっ!!」

 ワタシは突っ立って声を張り上げていた。

 館内が一瞬、"静止"し、絶え間なく変化するコードの世界にわずかな空白ラグが訪れる。フィルビヴロという空間を構成する素材コードが、ワタシがコア・コードを昂ぶらせたせいで刹那、処理落ちしたのだ。

「待ってくださいジョン……!」

 ジョンの輪郭がたちまち、すっと薄れる。フワフワと漂い、同系色の仮想書架のあいだに消えてしまった。

「ああ……ワタシはまったく。またあの子を怒鳴ってしまった」

 自己嫌悪と館内への謝罪を同時進行させつつ、ワタシは手で顔を覆う。

 パラディホムスの気配を察したのはそのときだ。

「お隣よろしいかしら、大司書どの?」

「おや……。ミズ・メアリー」

 純白のふっくらしたスカートがワタシの前に立っていた。

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