第14話 母


 Σ


 セシリアと共に、本宅の方へと移動する。

 前庭を横切るとき、夜にしては妙に明るいと思って見上げると、雲間に満月が出ていた。

 俺は思わず足を止めて見惚れた。

 美しいと思った。

 上空は風が強いのか、あっとう言う間に雲が右から左へと流れていく。

 ああ、外の世界はなんて変化に満ちているんだろうか。

 穴蔵に閉じこもっていた俺には、風月や、鈴虫の鳴き声さえ驚きがあった。


「ルルブロさん、どうかしましたか?」


 先を歩くセシリアが振り返る。


「ああ、すまん」


 俺は慌てて彼女を追いかけた。


 本宅は納屋よりもさらに大きかった。

 壁のデザインや窓や玄関の造りなどを見ると、豪邸そのものだった。

 手入れが出来ず、色んな所が朽ちてしまっており、打ち捨てられた廃墟のようになってはいるが、建物の骨格だけをみれば貴族の住居だと言ってもおかしくない。


 エントランスに入ると、短い廊下を歩いた。

 それからなだらかな階段を上がり、一番突き当りにある部屋が母の寝室のようだった。


「母さん。ルルブロさんを連れてきたわ」


 セシリアが外から声をかけると、中から「はい」と声が返ってきた。

 セシリアは扉を開き、どうぞ、と先に俺に入室するように促した。


 俺はここに至ってもなお、少しだけ躊躇してから、中に入った。


「これはこれは。ようこそ、いらっしゃいました」


 セシリアの母はそういうと、ベッドの上で腰かけたまま、丁寧に頭を下げた。

 力なく、掠れた声だった。


「このような格好のままで申し訳ありません。私たちを助けにきてくれた恩人様に対して」


 母親はごほんごほんと咳をした。

 枯れ木のように痩せた腕。

 細い肩。

 油が抜けた白髪。

 見ていて痛々しいほどに弱っている。


「母のイザベラです」

 と、セシリアが言った。

「重い結核を患っておりまして。もう長い間、ベッドの上から降りることさえ出来ておりません」


 セシリアは母に寄り添うと、労わるようにゆっくりと背中を撫でてやった。


「本当に、情けないことでございます。子に迷惑をかけ、この子の人生の重荷になってしまって」


 イザベラは胸に手を当て、沈痛な面持ちで目を伏せた。

 それからセシリアの方へ向き、「セシリア、あなたは外で待ってなさい」と言った。

 セシリアは少し驚いたような表情を見せた後、「分かったわ」と言い、部屋を出て行った。


「この度は、本当にありがとうございました」

 

 セシリアが出ていき、二人きりになると、イザベラは居住まいを正し、改めて頭を下げた。


「御覧の通り、私どもにはお金がなくて。何もお礼が出来ません。それなのに――手を貸していただけるなんて」


 イザベラは声を震わせた。


「別に礼は要らない。その代わりに、俺たちはセシリアに次のダンジョンまでの道を色々案内してもらう予定だ」

「ダンジョン、ですか」

「聞いていないのか。俺たちはダンジョンで暮らすモンスターだ。訳あって元いたところにいられなくなったから、他へ移るんだ」

「そうでしたか。私たちが出来ることならば、何でも致します。少しでも恩がお返しできれば」

「そうかしこまる必要はない。俺たちはまだ何もしていない」

「いえ。こうして手を差し伸べてくれるだけで、私たちには神の思し召しのように感じています」


 イザベラは胸の前で手を組み、神に祈るように目を閉じた。


「やめてくれ。俺たちは神の遣いどころか、ただのモンスターだ」


 俺は言い、近くにあった朽ちかけのソファに座った。


「大体、あんた、俺が怖くないのか。甲殻虫の化け物だぞ。この見た目だけでも、普通は嫌悪感があるはずだ」


 俺が言うと、セシリアは「滅相もない」と首を振った。


「私たちは街の嫌われ者です。どんなに困っていても、力を貸してくれる者はいませんでした。しかし、あなた方は違った。私たちを助けると仰った。そのものの価値を測るのに、外見や容姿、血や生まれなど、なんの意味がございましょうか」

「しかし、騙しているのかもしれないぞ。俺たちは、お前たちが寝入った後、食べてしまうかもしれない」

「それならそれで構いません。私もセシリアも、もう限界なのでございます」

「限界?」

「はい。あの子は領主様の命令に背くことが出来ません。あなた方が助けてくれないならば、きっと、ヒュンドルの討伐に失敗し、死んでしまうことでしょう。或いはセシリアが冷徹な子であってくれたなら、私にも救いはありました。私を見捨てて、国を捨てて、生きればいいのですから。しかし、母の私が言うのもなんですが、セシリアはとても心根が優しい人間です。あの子はどうしても私を見捨てることが出来ません。私は、もうあの子の枷になりたくないのです――が、かといって私が自死を選べば、あの子は一生、そのことを悔いて生きていくことになります。いいえ、それならばまだ良い。セシリアはもしかすると、私を助けられなかったことを悔い、私の後を追ってくるかもしれない。それだけは避けたいのです。私はもう、生きることも、死ぬことも出来ない。もう――」


 逃げ場がないのです。


 イザベラは深い息を吐いた。

 人生に疲弊した老女の嘆きだった。

 考えてみれば、セシリアの母親にしてはかなり老け込んでいる。

 病と葛藤で、とても苦しんで来たことが察せられた。


 思っていたよりも、事態はずっと逼迫していた。

 この母子は、もはやギリギリまで追い詰められていたのだ。


 ですから――とイザベラは続けた。


「ですから、私たちは、あなたたちに食われても構わないのです。いいえ、もしかしたらそれは救いにすらなるかもしれません。人々に見捨てられて自ら死んでしまうくらいなら、モンスターに食べられた方がマシというもの。しかし――」


 イザベラはそこで言葉を止め、ゆっくりと、辛そうに体を起こした。

 そして、土下座をするように、布団に頭を擦りつけた。


「しかし、それでもお願いがあります。もしもあなたたちが人間を食べるというなら、どうか私だけにしてくださいまし。セシリアは見逃してやってくださいまし。あの子はまだ若い。傷つき、絶望しても、また立ち上がることが出来るかもしれない。どうか、どうか。よろしくお願いいたします」


 イザベラは長い間、頭を下げていた。


「……頭を上げてくれ。悪かった。冗談だよ。俺たちは人間は食わない」


 俺は言った。

 するとイザベラは面相を上げ、にこりと笑った。


「はい。分かっておりました。あなたが、悪いモンスターではないことは」

「どうしてわかる」

「はて。女の勘というやつでしょうか。ルルブロ様の目を見ていると、温かみを感じるのです。とても悪いひとには見えない」


 どきりとした。

 この俺の無機質な目に――温かみを感じるだって?


「な、なんだよ、それは」


 俺は慌てて彼女から目を背けた。


「申し訳ありません」


 その様子を見て、イザベラはくすくすと笑った。


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