5.

第14話

 やがて赤ずきんは立ち上がった。当然ながら両脚も酷く痛み、一歩歩くのも苦労する有様だった。彼女が落ちた崖をよじ登るのは不可能だった。そもそも彼女は、自分がどの方角から来たのかもわからなかった。間もなく完全に日が暮れれば、周囲は自分の手も見えないほどの闇に覆われるであろう。そうなれば迂闊に歩き回るのは自殺行為だ。かといって、この場で一晩を過ごすのも同じくらい危険だった。夜の森は恐ろしく冷えるし、夜行性の獣も徘徊している。彼女にはもう自分の身を護る手段は無かった。相打ちか……と、彼女は独り言ちた。考えれば考えるほど、彼女の置かれている状況は絶望的だった。

彼女は今更死を恐れはしなかった。最初に罠に狼の前足を発見してから、自身が冷静さを欠いていたのは事実だったが、その事で後悔は無かった。いずれは起きる事が起きただけだと、事態を冷静に受け止めていた。だが、その一方で、彼女はまだ生きているのも事実だった。狼の王は彼女の前に現れた、彼女は全力で戦った、その結果彼女は辛うじて勝利を収めた。それは彼女にとって、身に余る光栄だった。そうであれば、最後の一瞬まで決して生きる事を諦めないのが、彼女自身に与えられた義務であるように感じた。

そんな事を考えていると、突然赤ずきんは、自分の身体が酷く汚れている事を思い出した。彼女は、身を清めたいと欲した。そして彼女は、自分が落下した谷には川があったはずだと思い出した。崖の反対側を見ると、確かにそこには小川が静かに流れていた。彼女はそちらに向かってゆっくりと歩き出した。川のそばは岩場になっており、ただでさえ重い足取りをさらに重くさせたが、赤ずきんは躓いても転んでも歩くのを止めなかった。ほとんど這うようになりながら、彼女は何とか川岸にたどり着いた。そして両手で水を掬うと、それを口に含んだ。そして静かに口を漱ぐと、水を吐いた。真っ赤に染まった唾液が口からこぼれ、小川の清流を汚した。そうやって、赤ずきんは何度も口を漱いだ。川の水は冷たく、酷く疲れた身体に心地よかった。

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赤ずきんと狼 小林 梟鸚 @Pseudomonas

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