第4話

 彼女は咄嗟に左手を出したが、そちらの手は弓矢を持っていたため、上手く身体を支えられなかった。そのまま彼女は派手に転倒し、藪の中に突っ込んでしまった。森の静寂は、あっけなく打ち破られた。血まみれの狼は突然の事に驚き、立ち上がってけたたましく吠えた。赤ずきんは慌てて弓を構えようとしたが、転んだ拍子につがえていた矢は折れてしまっていた。彼女の脳裏に、死がよぎった。

だが、狼は赤ずきんに気が付いても、彼女を襲うでもなく、また逃げ出す様子も無かった。ただひたすらに、木の根元で激しく鳴き、赤ずきんを威嚇するのみだった。赤ずきんはそそくさと狼から距離を取りつつ、その様子を凝視した。立ち上がった狼の左後肢には、トラバサミの罠がガッツリと食いついていた。

全ては結果論だった。赤ずきんは、全身の力が抜けていくのを感じると、そのまま狼の目の前でへたり込んでしまった。一歩間違えれば確実に死んでいた。彼女は、自分の心臓の音が、狼の威嚇の声よりも大きく鳴り響いているのを聞いた。運動によるものとは明らかに異なる汗が、全身から噴き出しているのを感じた。激しい口渇を覚え、彼女は腰にぶら下げた水筒を手に取ると、中に入っていた水を一気に全部飲み干した。その水筒を持つ手は震えていた。

暫くして、やっと赤ずきんは冷静さを取り戻すと、改めて目の前の猛獣をじっくりと眺めた。それは、狼としてはやや小柄な体型だった。恐らく、まだ若い個体なのだろう。左後肢の出血はもう止まっていた。この狼が罠にかかってから、それなりの時間が経っている様だった。全身が血に濡れてはいたが、その灰色の毛皮、筋肉質な四肢、凶暴に輝く瞳は、やはりこの獣が森の支配者の血族であるという事実を物語っていた。彼らは、絶体絶命の状況にあっても、決して人間に媚びたり命乞いをする事は無いのだった。

しばし狼と見つめ合っているうちに、赤ずきんは、早くこの誇り高き若い戦士を楽にしてやらなければ、と思った。もちろんそこには、時間が勿体無いという打算もあったのだが、とにかく彼女は、狼にとどめを刺す事にした。いくら手負いとは言え、その爪や牙が届く範囲まで近づくのはあまりにも危険である。とどめには弓矢を使う事にした。彼女は、折れてしまった矢を捨てると、矢筒から別の矢を取り出し、弓につがえた。そして、目の前の動けぬ的に向かって、ゆっくりと弓を引いた。狼は、もう威嚇するのは止めて、赤ずきんの様子をジッと見据えていた。赤ずきんも、狼の瞳を真っ直ぐに睨み返した。弓を射るときは、目標から目を離してはならないと教わっていたからだ。外す距離ではなかったが、彼女にはこの若い狼を一撃で絶命させる義務があった。少なくとも、彼女自身はそう感じていた。そのためには、最大の精度と最大の威力でもって、狼の急所を射抜く必要があった。赤ずきんは、大地に対して真っ直ぐに立ち、ゆっくりと息を吐きながら、弓を引き絞り……そして、矢を放った。

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