エモい巨塔
『Z教授の総回診です』
院内にアナウンスが流れると、にわかに病棟がざわつき始める。そしてしばらくした後、多数の医師と看護師を引き連れて、Z先生は僕の病室へ現れるのだ。
「調子はどうですか?」
老獪な顔つきのZ先生がにこやかに訊ねる。
僕が明日受ける手術の不安を正直に吐露すると、Z先生はしばらく考え込んでからこう言った。
「いつだって僕らの内側は 恥ずかしいぐらい邪だから Wow……」
間髪を入れず、周囲の医師や看護師が口々に「エモい!」と囃し立てる。
閉口していると、一人の40代ぐらいの女性看護師が駆け寄りざまに僕の手を取って、ベッド脇で膝をついた。見ればボロボロと涙をこぼしている。
「大丈夫。Z先生はこの病気に関して、世界で一、二を争うエモさをお持ちなんですから!」
それでもいまいち反応が薄い僕の様子を察してか、Z先生はぐずぐずと鼻をすすり続ける看護師の肩にそっと手を置くと、これまでよりもずっと確信めいた力強い視線で僕をまっすぐに見つめて言った。
「船はもうあるはずだろう? 情熱を積んだハートの船が 大船かどうかなんて関係ないさ 漕ぎ出そうぜ まだ誰も知らないオペレーションを探しに」
取り巻きが何人か、エモすぎると絶叫して倒れる。つま先で地面をタップしながらリズムに乗ってる奴もいる。僕はもう我慢ができなくなって、声を荒げて抗議した。
「エモさなんてどうでもいいから、治療をちゃんとお願いします!」
大きく目を剥いたZ先生の体は、すぐにワナワナと震えだした。その目はみるみる潤んで、今にも涙がこぼれそうになっている。
まさかそんな反応が返ってくると思わず動揺していると、突然、Z先生は病室を走り去ってしまった。
取り巻きたちは口々に「先生!」と呼びかけながら後を追っていく。僕の手を握っていた40代看護師は、必然最後に出ていくことになったのだが、どういうわけか不意に出入り口の前で立ち止まった。
「先生はね、ホントは全然エモくなんかないの」
女の声は背中越しでもわかるぐらいに怒気をはらんでいる。何を言いたいのかは相変わらずわからない。
「全部あんたのためでしょ!」言い放つと、女は悔しそうに俯いた。「どうしてわかんないかな……」
そもそも、どうして僕が悪者みたいになっているのだろう。
「先生は、私がオペ室に連れて行くから。だからあんたも、先生とちゃんと向き合ってあげて」
女は少し涙声になりながら言うと、病室を去っていった。
ひどく疲れ切ってしまって電動ベッドを平らに均すと、四角い風景の青い部分を、飛行機雲が引っ掻いていくのが見えた。
*
翌日、車椅子に乗せられてオペ室へと入ると、そこに先生の姿はなかった。例の看護師が言うには、他のオペが少し長引いているだけで、僕のオペまでには間に合うだろうということだった。
結局、先生と顔を合わすことのないまま、僕は全身麻酔で眠りについた。
*
目を覚ますと、夕焼けで染まった病室がそこにあった。
すぐに看護師たちが気づいてやってきて、傍らで何やらあれこれと作業を始めている。あの40代の看護師もいる。
僕は無性に気になって訊ねてみた。
「あの、Z先生は何時いらっしゃいますか?」
「先生ですか……?」
「ええ、なんか変な感じになったままでしたし。お礼もしなきゃだし」
どういうわけか看護師たちは暗い顔をして黙ってしまった。
悪い予感を振り払いたくて、僕はなおも質問を重ねる。
「なにかあったんですか?」
すると看護師の一人が無言のまま、スローモーションみたいに僕の胸を指差した。
「……ウソだろ?」僕の、僕のだと疑ったこともなかった心臓が早鐘を打ちだす。「そんな、だって、そんなこと!」
そのまま、ただ茜色だけが病室を満たしていく。
どうしようもなく焦れる沈黙を破ったのは、40代の看護師がようやく絞り出したような呟きだった。
「Z先生の口癖……。ハートを揺らすんだ、って」
やにわに、僕の頬を涙が伝う。それはまるで血液のように、赤く熱く感じられた。どうしようもなく押さえきれなくなった情動が、叫びとなって噴出する。
「そんなの、エモ過ぎるって!」
人目も憚らず僕は泣いた。赤い赤い病室をブルーで染めるように――
「ですって、先生」突如そう看護師が言うと、脇に引かれていた仕切り用のカーテンを誰かが開けた。そこには、はにかみ顔のZ先生が立っているのだった。
どういうことかと目を丸くしていると、看護師が説明を始めた。
僕にとってZ先生がどれだけエモいかを自覚させるために、皆で共謀したのだそうだ。
「なんで、そんなことまでして……」
混乱する僕に、Z先生が顔を赤らめながら言う。
「だって、こうでもしないと言えないと思ったから……」
もじもじとしているZ先生を看護師たちが後ろから小突いている。やがてZ先生は大きく深呼吸をしてから、キラキラした瞳で、僕に本当のことを伝えた。
「私は、あなたのオペを、失敗しました!」
こんな風に、僕は胸を病的に締め付けられて、ここではない何処かへと、心臓に急かされるのだった。
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