しまわれるもの

『カン!』と甲高いゴングの音が鳴った。メッセージアプリの着信音だ。


 卓袱台の上に置いておいたスマホを手にとって画面をみる。やはり妹からの返信だった。

『ウチ、狭いんで、ムリ』

 なんとなく予想はしていたが少しムッとしてしまう。妹には子供が三人、しかも女の子が二人。それにお前だってさんざ世話になった雛人形じゃないか。

 俺は部屋の隅に並べてある二つのダンボール箱に目を落とす。デカい。さすが七段飾り。改めて見返すまでもないが、確かに結構なボリューム感ではある。


 そういえば、雛人形を片すのはいつも俺と母ちゃんだった。でも俺は不器用なもんだから大抵は母ちゃんがやりなおすことになる。だから実質は母ちゃん一人でやってたようなもんなんだけど。

 妹は、まだ小さいうちには手伝い方がわからないからと免除され、低学年になってからは「片付けキライ」の一言で押し通し、無理にやらせようとするとわざとらしくお飾りをぞんざいに扱うことで免れ、高学年になる頃にはもう母ちゃんも俺もハナから諦めるようになっていて、おそらくただの一度もきちんと片付けに参加したことはないはずだ。そのくせ三月三日になると必ず友達を集めてお祝いパーティーを開くのだった。ちゃっかりしている。

 実家を民泊にするのも妹の発案だ。


「古民家とは言えないまでも、そこそこ味があって広さもあるし、固定資産税も馬鹿にならないし」

「でも管理とか必要なんだろ?」

「ボクシング引退したんだから時間はあるでしょ」


 そのままなし崩しに、ボクシング引退したんだから、という理由で遺品整理も俺の担当になってしまった。妹は「こういうときは時間を持て余してても良いことないから」としきりに言ってくるのだが、どうも信用ならないと俺が考えていることにあいつは気づいてもいないだろう。とはいえ、四人目が腹の中にいる人間に手伝えと言い返すわけにもいかなかった。本当にちゃっかりしている。


 改めて和室を見回して溜息を漏らす。中途半端に口を開けたままのダンボールが幾つも並んでいる。しかも、ただでさえ取捨選択が難しいというのに、いよいよ処遇の決められない大物まで現れてしまった。

 誰かに売るとか譲るとか、あるいはメーカーに頼めば供養なんかをしてくれるそうなのだが、どうも何か寂しいような気になってしまう。せめて俺が結婚するとか、結婚するかもしれないぐらいの可能性だけでもあれば、ちょっとは取っておくという選択もあるのだけれど。男やもめの六畳一間に保管しておくにはいささか大きすぎる。なにせ立派な七段飾りだ。


 ああでもない、こうでもない。ホントに。こうやってズルズルと引退を引き伸ばしたんだろ。生涯戦績、7勝28敗4分2KO。いつも全部を出し切れた気がしなくて、次こそは次こそはって。出来るわけねぇっての。雛人形ひとつどうしたらいいか決められない奴がさ。三十四で辞めて、二年後に母ちゃんが亡くなって。決断するタイミングなんて、いくらでもあっただろうに。



 カンカンカンカンと連続でゴングの音が鳴った。

 見ればネットオークションやフリマアプリの価格情報が並んでいる。



 俺は雛人形を収めたダンボール箱の前に立った。


 そこで何故かふと引退試合の記憶が頭に浮かんだ。いいとこ無しで防戦一方。焦れば焦るほど、観客席の母ちゃんがどんな顔してるのかと気が気じゃなくなっていく。


 母ちゃんが俺の試合を見たのはこの引退試合だけだった。何度か声を掛けたことはあったが、とても見てられないと断っていたし、俺の方も負けが込みだしてからはどうにも誘いづらくなってしまっていた。

 それでも、辞めろなんて言われたことは一度もなかった。こんな馬鹿な息子にずっと仕送りを続けてくれていた。

 いつだってそうだ。親父が早い内に死んじまって、あくせく働いている中にあっても、毎年かかさず雛人形と五月人形は飾っていた。


 ああそうだ。手を合わせて拝んでたよ。観客席でも、人形飾りを並べた後も。そんでしまうときにもやっぱり同じようにして、「ありがとうございました」とつぶやくんだった。


 雛人形のダンボールは、何かを言いたげに黙っている。




 俺は、体に火でも付いたみたいに動き出した。

 他のダンボールを脇にやってスペースを作り、雛人形のそれを開く。台座から設置して、赤い布を掛け、木箱に収められた雛人形やらぼんぼりやらを取り出し、覆っている白い紙を注意深く外しては然るべき場所へ飾っていく。不思議と置き方はすぐに思い出せる。


 雛飾りが完成すると、片付け途中の散らかった和室がにわかに明るくなったように感じた。


 壁掛け時計を見れば、もう夜の八時を回っている。俺は思いついて台所へ駆けていく。片付けが一段落したときの楽しみに缶ビールを持参していたのだ。二本ほどひったくって和室へ戻ると、卓袱台の脇にどかりと腰を落としプルタブを引いた。そして一息に半分ほど飲み込む。味なんてどうでもいい。



 雛人形たちがこっちを見ている。

 良いもんだと思う。いまさらになって綺麗なもんだと思い知る。



 そういえば、俺の試合の時にも時々、どこの誰だか知らないおっちゃんがビール片手に観客席に座ってたな。「テメーはいつになったら勝てんだ」なんてヤジ飛ばしやがって。まさか気持ちのわかる日が来るとは。


「どうだい? 晴れ舞台は」


 連中、笑ってやがる。

 俺はあの日どうだったろうか。最後の一撃。伸びてくる相手の右腕から目は離してなかった。拳が顎にクリーンヒットするその瞬間、俺はにやりと笑ったんじゃなかったっけ。いや、そういう幻想を抱いているだけかもしれないが。


 四十がらみのおっさんが、自分で飾った雛人形に話しかけている。冷静に考えたら妙に可笑しくなってきてゲラゲラと笑い転げた。

 ひとしきり笑い終えると体がひどく重く感じて、そのまま仰向けになった。吊り下げられた円形の蛍光灯は、リングのマットから眺める照明みたいだ。

 横目に見れば角度のせいか、雛人形たちは妙な表情で笑っている。あの日の母ちゃんみたいに。言葉が見つからないってことなんだろうな。


 俺は右腕の前腕で両目を塞いだ。


「安心しろよ。ちょっと休んで立ち上がったら、ちゃんと丁寧にしまってやるから」


 なんてことはない。しまうだけ。

 捨てるわけじゃないさ。


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