さくらさん

 さくらさんは桜ではない。そよ風だ。

 彼女が歩むごと、桜の花びらがひらりひらりと舞って散る。


 そうやって因果を逆さに取り違えそうなぐらい、彼女の横顔は涼やかで、儚げなのだ。



 僕たちは川沿いの小径を並んで歩いている。

 片側には住宅の背中、僕らを挟んでもう一方に、前ならえで整列したような黒い幹とモルタルブロックの白い擁壁。


 傍から見たらどう見えるだろうか。

 四十がらみの男と、二十代なかばぐらいの女。

 しかも親密というには、もう半歩ずつ足りない僕たちは。


 お互いなにも喋らない。

 川のわずかなせせらぎに、時折どこからか、車の急ぐ気配や、チィチィと小鳥の鳴き声が交じる。


 さくらさんは、ずっと前を向いたまま。

 コツリ、コツリ、コツリ。

 彼女の黒いショートブーツが、花びらの絨毯を、ゆっくりと、変わらないリズムで踏んでいく。


 チラチラと横目で見ていた僕は、何故だか、彼女がほんとうは目の前の景色なんて見ていないんじゃないかと思いはじめた。


 小径をおおう桜の幌からまだらに陽射しがこぼれている。

 ほのかに桃色がかった光が、彼女の黒髪を栗色に染めた。


 コツリ、コツリ。彼女はいくつかの花弁を散らしながら歩く。


 僕のせいだったらつらいな。


 けど確かめようにも、僕たちに残された時間はもうほとんどない。

 最初から、十四時までと決めてあるから。


 さくらさんは、そよ風だ。


 それが手であろうと言葉であろうと、ふれようとした瞬間、きっと彼女はするりと何処かへ消えてしまうだろう。僕にそんな権利があればの話だけど。

 だったら刻限まで、そよいでいよう。

 どうせ自動で別れはくるんだから。



 さくらさんが立ち止まった。


 景色に大きな違いはなかったけれど、道の傍らに石造りのベンチが設えてある。

 そこに彼女は一人分の隙間を空けるように腰を掛けた。

 なにも言わずに、僕も腰掛ける。


 そこは空色に塗られた木造家屋の陰になっていた。

 ひんやりとしたベンチを半周取り囲んだ生け垣の根本から、苔の匂いがもやもやと立ち上ってくる。


 相変わらず彼女は前を向いたまま。


 その視線の先、ここからの対岸の桜はとても静謐にたなびいていた。

 ざわと風が吹くたびに、花びらが雲のようになって流れていく。


 美しいけれど、それ以上に、寂しく感じられた。

 もう時間だ。


 彼女の鞄の中で、アラームが鳴る。

 スマホを取り出して止めてから、彼女は言った。


「ありがとうございました」


 さくらさんと目が合った。

 目を覚ましたばかりみたいな目に、どうにか微笑みを浮かべているようだった。


 では、これで。

 彼女の差し出した白い封筒を受け取ると、僕はできるだけ丁寧にお辞儀をした。


 彼女はそよ風で、僕はサクラだ。

 最近では友達レンタルとか、おっさんレンタルとか言うらしいが。


 顔を上げると、彼女はまだ僕を見ていた。でも目は合わない。

 僕の立っているところに、僕じゃない誰かを見ている。


 もう一度だけ、小さくお辞儀をして、その場をあとにした。



***



 そのまましばらく、ぶらぶらと川沿いを歩いていた。


 水面は花筏。歩いて渡れてしまいそうなピンク色のシーツが不思議と流されずに浮かんでいる。


 去りぎわ、彼女の目尻から、花びらが滑り落ちた。

 一人では近づけなかった場所に座って、今なにを眺めているんだろうか。


「桜だけが知っている」


 ぼそりとつぶやいて、肩口に積もった花弁を払った。「さりとて桜は語るまじ」


 感傷と悲嘆の違いなんて、傍目からじゃわかりっこないのだ。

 ましてやサクラなんかがいきなり語りだしてしまっては、風情もなにもあったものか。


「これでいいんだよ」



 にわかに春が吹いた。

 キラキラ輝く水面を舞台に、桜吹雪が舞い踊る。


 僕は思わず、風のやって来た方に振りかえった。

 ずっと向こうで、桜がそよいだ。



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