第138話 鳴とアンの選択

 家に帰った僕と凛を出迎えてくれたのは、とても美味しそうで爽やかな、豊かな香りだった。


 アンがポトフを作ってくれていたのだ。


 ポトフはフランスでは定番の家庭料理だ。日本でも食べることはできるが、アンの求めている味とは何か違うらしい。


 僕も海外で味噌汁を飲んで、何か違うと感じることがあった。きっとそんな感じなんだろう。


 アンのポトフで1番驚いたのはスープがなかったことだ。


 アン曰くフランスでは具とスープを別々で食べるのが定番だそうだ。そりゃ日本のポトフを食べて何か違うと言うのも頷ける。根本的に違うのだから。


 粗塩でいただくアンご自慢のポトフは、それはもう絶品だった。もうシンプルに美味しくて、凛も僕もまた食べたいとリクエストしてしまったほどだ。


 美人だし、スタイルもいいし、料理もできるし……おまけに高収入。


 アンはスペックが高すぎだ。




「ナル・オトナシ、ちょっといい?」


「うん、ていうか鳴でいいよ」


「そう、じゃぁ鳴、私、鳴が帰ってきたら話そうと思っていたことがあったの」


 アンから改まって……なんだろう。まさか裸を見たから責任を取れとかじゃないよね?



「実はね、鳴と出会ったあのコンクール」


 ああ、コンクールね……責任取れじゃなくて一安心です。


「うん」


 歯切れが悪くなるアン、余程言いにくいことなのだろうか。


「実は……」


 本当に粘るな……そんなに言いにくいことなのか。




「実は、デキレースだったの」



 うん?




 今なんて言った……。




 デキレース?



 あの、コンクールが……。



 でも……デキレースなんてありえない。僕自身アンに完敗したことは分かっている。




「アン……それって」


「日本人の鳴には分からないかもしれないけど、あのコンクールは技術点を高く評価しない傾向の審査員で固められていたの……だから、もし、あのコンクールがフランス以外で行われていたら……」





 なんだ、そんなことか……。




 デキレースじゃない。僕の評価どおりじゃないか。




「知っていたよアン」



「え……」



「アン、それはデキレースじゃない、まっとうな評価だよ。僕はあの時、冷静じゃなくてアンにギターバトルを挑んでしまったけど、勝てないことは分かっていた」


「鳴……」


「僕は、アンの音色を聴いた時から冷静じゃなかった。当時の僕では逆立ちしたって出せっこない音だったからね」


「そんな風に私のことを評価していてくれたの……」


「うん」


「私はてっきり、デキレースに気付いて怒っちゃったのかと思ってた」


「流石にそこまではね……」


「私はあれから猛練習したわ……だから私は鳴に感謝しているの。あの時鳴に出会っていなければ今の私はなかった」


「そっか……なんか恥ずかしいな」



 同じ場所にいながらも、アンに完敗してギターをやめた僕。


 煮え湯を飲まされながらも努力を怠らなかったアン。


 これが今の僕と彼女の立場の差だ。




「ありがとうね」


 チュッと頬に柔らかい感触が……。


 チュッだと……。


 アンは僕の頬にキスをして客間に消えた。


 僕は自分の顔が紅潮していくのが分かった。


 フランス人だからほっぺにチューは挨拶がわりなのか?


 本当に刺激の強い生活に変わってきた。



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