第92話 これは切実な問題だ

 アン・メイヤーがここにいる。その事実を知るだけで心がザワついた。


 あの時の借りを返したい……今はそんなことは思わない。あれは流石に僕が子ども過ぎた。実際子どもだったし。


 ……それよりも僕の心を騒がせるのは、ギタリストとしての純粋な探究心だ。


 生で彼女のプレイを見てみたい。


 今の僕が彼女のプレイを見たらどう感じるのだろうか。彼女はあれから、どれほどの進化を遂げたのだろうか。興味が尽きない。


 凛も何やらメラメラしている。やっぱりギタリストならアン・メイヤーの名前を聞いて黙っているのは難しいのだろう。


 それはそれとして、僕は今もっと切実な問題に直面している。


 女装で外出するなんて夢にも思わなかったし、全くの想定外だった。


 そう、女装している時に『お手洗い』に行きたくなるなんて、全くの想定外だった。


 どうしよう……。


 まず、男子トイレが相応しいのか、女子トイレが相応しいのかが問題だ。


 自分で言うのもなんだが、見た目は完璧な女子だ。それは佳織さんが凛と僕を見分けられなかったことでも証明されている。


 そんな僕が男子トイレに駆け込むとどうなるだろう……。


 想像するだけでも恐ろしい……。


 では、女子トイレならどうだ。


 確かに今の僕が女子トイレに行っても問題になることはないだろう……でも……でも。


 色々と失いそうで怖い。


 それに警察官僚の息子が分かっていて軽犯罪を犯すわけにはいかない。


 ……悩ましい。


 僕がモジモジしていると衣織が耳打ちで教えてくれた。


「トイレ行きたいんでしょ? 多目的トイレ使わせてもらったら?」


 多目的トイレ……そう、僕は失念していた。


 男女共用で使える多目的トイレがあったじゃないか。


 必要な人が使えなくなると不味いので本来推奨されることではないが、普通のトイレを利用するよりは騒ぎにならないだろう。


 衣織ありがとう。これで僕は救われる。


「ちょっとお手洗い」


 僕はお手洗いに急いだ。


 それでも利用者の多そうなショッピングモールのお手洗いは避け、例の公園のトイレへ急いだ。


 公園のトイレに到着すると誰もいなかったので、結局僕は普通に男子トイレを使った。



 ——なんとか間に合った。女装でお漏らしという、最悪の羞恥は避けることができた。


 もうこれからどんなに望まれても女装で外出はしないと固く心に誓った。




 ——そして、その帰り道。


 僕は彼女と運命の再会を果たす。


 そう……


 アン・メイヤーと。






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