第21話 井の中の蛙、大学を知らず

 新米編集者である私――花園はなぞの美咲みさきが、同居している担当作家、袖野そでの白雪しらゆきの脱稿を待っていると、不意にスマホが鳴った。

 その電話の内容を聞いて、私はもうひとりの担当作家――高校生作家の松井まつい光一こういちの自宅に駆けつけた。

「松井くん! 大丈夫ですか!? 殴り合いになったって聞いて飛んできました!」

「ああ、花園さん。ご心配かけてすみません」

 松井くんの左頬にはガーゼがテープで留めてあって、口の端からは血が滲んでいる。

「何があったんですか!?」

 痛々しいその姿に、私は動揺を隠せなかった。

「ちょっと、高校に行ってみようと思い立ったんです」

「松井くんが通ってた高校に……?」

 松井くんは不登校で引きこもり中だ。

 なんでも、高校で虐めにあって学校に通えなくなってしまったらしいが……。

「学園モノの小説を書くなら、学校に籍を置いてる今しかないな、って思ったんですけど……僕を虐めてた奴らが、他の子をターゲットにしてたんです。それで腹が立って、殴りかかって……」

 殴り合いに発展したわけか。

 それにしても、松井くんを虐めていたのみならず、松井くんが不登校になったあとは他の子に標的を変えていたなんて、たしかに松井くんにとっては腹立たしいことこの上ないだろう。

 私もむかっ腹が立った。

「こうなったら、出るとこ出ましょう、松井くん」

「え?」

「その犯罪者共を傷害罪と人権侵害で訴えてやりますよ! うちの作家に手を出すなんて、うちの出版社の顧問弁護士を甘く見てもらっては困りますね!」

「い、いやいやいや、そこまでしなくても……」

「松井くん、甘すぎです。そうやって周りが甘やかすからその犯罪者共は調子に乗るんです! 賠償金や慰謝料もふんだくってやりますよ! 泣いて後悔させてやる!」

 私は怒り心頭であった。

 いくら子供とはいえ、高校生ともなれば理性的な考えが出来るはずの年齢である。責任能力だって充分にあるはずなのだ。うちの顧問弁護士は優秀なので口では負けないだろう。

 松井くん自身は「やっといじめっ子を殴れたのでスッキリしました」とは言っていたが、大人を怒らせたらどうなるか思い知らせてやろうと思っている。

「でも、僕はやっぱりあの高校にはこれ以上通えそうにないですね……。殴り合いまで起こしちゃったし、あんないじめっ子がいるような学校、行きたくないし……」

 松井くんは膝に乗せたロシアンブルーを撫でながら、悲しそうに笑う。

「僕、最近、大学に行ってみたいなって、思ってるんです」

 彼はぽつりとつぶやいた。

「大学に行ったら、もっと世の中を広く知って、執筆にも役立つかなって……。僕って、いわば井の中の蛙みたいなものじゃないですか」

 引きこもって、家から出られず、世の中を知る手段は、ネットしかない。

 たしかに、知見を広めることは必要ではあろう。

「でも、高卒の資格がないと、大学には行けないじゃないですか。僕、出席日数も足りないし、卒業できないかもって言われてて……」

「うーん、いっそ転校するとか、通信制の高校で高卒の資格をとるとか、色んな方法があるけど……」

 そういったことは、松井くんよりも松井くんのご両親に相談したほうがいい案件だ。

「でも、松井くん、えらいですよ。いじめっ子、怖かったでしょう? でも勇気を出して、高校に行けたし、いじめっ子の虐めをやめさせようと殴り合いまでした」

 いや、殴り合いという暴力に走ったことは悪いことかもしれないけど、それでもいじめっ子に立ち向かったその勇気を、私は讃えたい。

「松井くん。私は松井くんの味方ですからね」

「ありがとうございます。作家と担当編集は二人三脚、一蓮托生、ですもんね」

 そう言って、二人で笑った。


「そういえば、白雪さんって大学では何を勉強してたんですか?」

「なんです、藪から棒に」

 私と白雪さんの暮らす家。

 夕食を済ませ、いつものように執筆部屋でパソコンに向かいあう白雪さんと、その背中を見ながら洗濯物をたたむ私。

 女二人の生活では下着が盗まれたりしないか最初は心配だったが、部屋干し用の窓が大きく、ステンレス製の物干し竿が壁から生えた部屋があったのは有り難かった。

 というか、家が大きいだけあって部屋がたくさんある。そのほとんどは物置か空き部屋になっていたが、何か有用な使いみちはないのだろうか……。

 私は今日の昼間、松井くんと話した内容を白雪さんに打ち明ける。

「ふーん、大学で勉強したい、ですか。何を勉強したいとか具体的に決まってるんですか?」

「いえ、『とにかく外の世界を知りたい』って感じでしたね」

「内容がふわふわで曖昧すぎます。それで大学に行っても失敗するだけでしょう」

「そうなんですよねー……」

 松井くんはそもそも大学で何を学べるのかもわからない状態だった。将来の夢のために大学を志す人間ならば自ずと進む道は決まってくるのだろうが、松井くんの場合、すでに小説家になるという夢を叶えている状態でのスタートだ。

「書きたい小説の内容次第で学科を決めるのもいいでしょうけれど……まあ、日本文学を専攻するあたりが無難ではないでしょうか」

「なるほど」

「大学の学科に縛られず、いろんな講義を学べる所が良いですね。わたくしもかつてはフランス語やラテン語など、語学にハマっていた時期もありました」

「ら、ラテン語……?」

「まあ、大学を卒業した瞬間、全部忘れたんですけれどね。勉強なんてそんなものですよ」

 教科書は多分まだ物置に置いてますけどね、と白雪さんは付け加えた。

「大学でもわたくしは浮いていたのであまり思い出したくないんですよね……好奇の目というのはどうしてあんなに不快なものなのか……」

「白雪さんが美人すぎて誰も近寄れないんですよ」

「あら、美咲さんに褒めていただけるなら悪い気はしませんね」

 振り返った白雪さんは闇色の目を細めて微笑む。

「美咲さんも、わたくしを美人だと思ってくださってるんですか?」

「むしろ白雪さんを美人じゃないなんて思う人、いないと思いますけど……」

「わたくしにとって重要なのは、美咲さんにとってわたくしが魅力的に映っているかどうかだけですよ」

 白雪さんは正座のまま、しなだれるように私に身を寄せる。

 ……なんか、流れるように自然にキスしてしまった。

 この頃になると何度もキスしているうちに、コツを覚えてきていた。

 何度か深いキスをすると、もう白雪さんは乗り気だった。

「わたくしの部屋に移動しましょう、美咲さん」

「白雪さん、私まだ松井くんについてのご相談、終わってないんですけど」

「今だけは松井くんのことは忘れてくださいな」

 いたずらっぽく微笑まれ、闇色の瞳で顔を覗き込まれると、もう逆らえない。

 私はふすまを開ける白雪さんに引きずられるように部屋に連れ込まれるのであった。


〈続く〉

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