6-2 天上の国、虚ろの終わり、真実の時

 握り込まれた拳の感触はない。空気を掴んでいる感覚だ。

 ノアは依然として、不敵な笑みを浮かべている。対するセリは、構えたままで動けないでいた。自身の攻撃が当たらないことが分かっているからというのもあるが、カンナギから譲渡されたコードである『仮想加速』の反動で、体が重いというのもある。

 カンナギはよくこんなにも負荷の大きいコードを連発して使っていたなと思った。

 一度だけ、しかし反転状態で使っただけとはいえ、ここまでの負荷があるとは思っていなかった。カンナギが言っていた「使うべき場所」とは使いどころを選べという意味も含まれていたのだと痛感した。

 セリはかつてないほど追い込まれていた。仲間は傷を負い動けず、自らの両腕も使えず、色付鬼は起動せず、唯一の対抗策であった天滅銃も顕現できない。

 だが、それは諦める理由にはならない。

 仮想加速はあと二回使用できるし、まだ足があり、その気になれば噛みつける。効く効かないの問題ではない。諦めない意志こそが重要なのだ。


「どうする?セリィ?!もう手もないんじゃないのか?」

「まだ、まだだ!コード『創造』+『仮想加速』」


 セリは両腕を大きく広げ創造を起動した。

 作り出すものは『生身の肉体』。仮想加速をかけて、創造速度を上げている。一瞬でこの世界に創り出された肉体がセリの前に立つ。

 その姿は、セリの再生人殻に酷似しているが、唯一違うところがある。髪の毛の色だ。黒髪ではなく、蒼色に変わっている。


「へえ。まだそんなことが出来たんだな。まあ、無駄だろうが、楽しみは多い方がいい待ってやるよ」


 ノアは相変わらず自身の勝ちを確信しているのか、余裕を崩さない。


「行くぞノア!『再装填リロード』!」


 セリは大声で叫ぶ。一瞬の出来事だった。再生人殻に宿った魂は生身の肉体へと装填される。再生人殻は倒れ、セリは生身のに人間として新生した。

 その代わり、再生人殻に付与されていたコード『創造』はもう使用できない。使えるのは、魂に刻み込まれている『介入』と『仮想加速』のみだ。そして色付鬼は纏えないし天滅銃ももう呼び出せないだろう。

 それでもセリは拳を今一度構え、ノアの前に立った。なにせ生身の肉体だ。再生できないからチャンスは一度。一瞬しかない。


「僕の手が、お前の体に触れた時が、お前の最後だノア」

「大体読めてるよ。介入を使って、俺を強制的にシステムダウンさせて消滅させる気なんだろ?そんなこと出来ると思ってるのか?俺にはまだコードがいくつも残ってるんだぞ?」

「出来るさ。お前は今幽体と同等な状態だ。コードがあっても、同時に使えるのはせいぜい二つ。勝機は十分にある」

「…だとしても幽体であるというだけで、性能的には生身よりは上だ。貴様が俺に触れる前にコードを使えば、貴様をミンチに出来る。これでも続けるか?」

「選択肢は一つ、だ」

「早撃ち勝負ってか?ハハハ、笑えるなぁ!だが乗ってやるよ。どうせ勝つのは俺だからな!」


 セリはまっすぐにノアを見ていた。それ以外は視界に入れていない。ノアはセリを静観している。あくまで自分は遅く動き、そして勝つつもりなんだろう。

 セリにとって、それは可能性の時間だった。集中できる十分な時間だった。

『仮想加速』を起動させる。最後の一回だ。細く鋭く、範囲を設定し、拳の照準をノアの顔面に合わせる。ゆっくりと息を吐き、全身に力を込める。

 静寂があたりを包む。

 セリは『仮想加速』のスイッチを入れた。加速される知覚の中でセリは考えていた。諦めない、何があっても。そしてノアの顔をぶん殴ってやる。それだけだ。


 一瞬セリの姿が空間から消えたように見える。ノアは落ち着いており、セリの軌道を見切っていた。まっすぐに突っ込んでくるのが分かる。だからあらかじめ、置き攻撃を仕込んでおけばいい。こちらまで突っ込んで来たら、相手は勝手に自滅する。そう考えていた。勝つのは当然であり、セリはなんの手立てもない。そう考えていた。

 だが、


 パキンという音ともにノアの前の空間が砕けた。セリは突っ込んできただろう。置き攻撃が発動し、空間を割ったのだ。ノアのコードは幽体の駆動限界で一時的に使用不可になったが、ノアの思惑通り、セリは粉々になったはずだった。ノアは邪悪な笑みを隠し切れなかった。これで邪魔ものはいなくなった。と。

 だが。


 ノアの目の前にセリは平然と立っていた。拳を握り振りかぶり、こちらに向かってきている。普通の速度で。


「なっ!!」

「うおおおお!!!」


 セリは『仮想加速』を使ったはずで、まっすぐにこちらに向かっているはずだった。それは見えていたし、それしか手がないことも分かっていた。

 だがセリはあえて『仮想加速』を囮に使い、その場から消えるように演出したのだ。

 ノアがそれに気づいたときには遅かった。目の前に拳が見える、回避手段がない。

 セリの拳が、ノアの顔面にめり込み、幽体を突き抜けるように貫通した。

 セリはその一瞬。ノアの顔面に命中する前の瞬間に『介入』を発動していた。生身だからか、コードの発動にはラグがある、だから前もって発動する必要があった。

『介入』が起動しノアのシステムに直接アクセスした。正確には魂に、だ。

 セリの意識は吸い込まれるように、ノアの心へと潜航していった。


 そこは何もない空間。まるで水の中にいるよう。

 ここはノアの魂の中だ。あんなに、傲慢な奴の魂の中に何もないなんてありえない。セリはゆっくりとノアの魂に降り立った。目の前にはノアの心がいる。

 ノアは今までにない穏やかな笑みでセリを見ていた。そして静かに口を開く。


「ついにここまで来たんだね、セリ」


 その声色は、仏の座の力で記憶に深海潜航したときのあの優しいノアのものだった。

 違和感を覚える。ノアはセリをゴミにしか思っていないはずなのに、なぜ心はこんなにも落ち着いているのか、と。


「本当に、ノア?」

「僕は僕さ、セリ。君の旅をずっと見てきた。君こそ世界再生にふさわしい存在だ」


 意味が分からない。ノアの一人称もあの頃に戻っている。


「君なら、ここまで来れると思っていた。演じ続けていた意味があるってものだね」

「演じ…?」

「長い時間の中で壊れかけていた僕の心はもう一人の自分を演じることにしたんだ。いつか放たれた希望たちが、僕たちを止めてくれるだろうと、僕の代わりに世界を再生してくれるだろうと信じて」

「まさか、ずっと騙していたのか!」

「悪かったと思っているよ。でも…ココノエに蘇生されたときの僕は、その事象に耐えきれなかったんだ。だからこういう結果になった。セリ、世界再生のついででいいからさ。ココノエを救ってやってくれないかな」

「何だって?」

「僕と同じようにココノエは長い時間の中で自らの心を壊している。今のココノエは当時よりだいぶ変質してしまっている。今のココノエは確実に君の世界再生を阻む壁となるだろう」


 ノアは申し訳なさそうにうつむいた。


「本当はこんな結果になっちゃいけなかったのだろうけど。残念なことに、僕はアクラが苦しむ姿に耐えられなかった。だからあの時レーヴェを撃ち、カンナギをも殺そうとしてしまった。あの時はまだ正常だったココノエによって、カンナギは何とか無事だったけど。そこから僕はこの無謀な計画を考え、実行に移した」

「じゃあ、今までのは本当に演技だったの?僕をここまで来させるために、すべてを失ってでも演じ続けていたの?」


 セリにももはや敵意は消えていて、今はただのセリとして、ノアに話しかけていた。

 ノアは少し苦笑しまっすぐにセリを見た。


「セリ、君を作ってよかった。君は僕の目論見通り、ここまで来て僕を倒した。そしてこれからアクラとココノエを救いに行くんだ。僕の代わりに」

「ノア、あなたは…」


 あなたはなんて不器用で、なんて想いを独りで背負っていたのか。

 この途方もない長い長い時間の中で、ただ一つ希望を胸に抱きながらひたすらに、自分を殺して。そうまでして、僕を待っていたのか。希望であるセリを、ただ、ただ。


「申し訳ないけど、最後のお願いだ。今から僕はすべてのコードを使って、君の大切な人の魂と心の再生を行う。そう、新人類種の少女、名前はカテラだったね。そうしたら僕は耐えきれなくなって、きっと消え去る。だからこれは最後のお願い。僕の、僕たちの代わりにアクラを正常に戻して世界再生を為してくれ」

「…」

「本当に頼りっぱなしで申し訳ない。でも…これで…」

「…分かった。分かったよノア。あなたの想い僕が継ぐ。必ず世界再生をやって見せる。だから安心して休んで…そして上から見ていて」


 真剣な表情でセリはノアの目を見た。そして静かに言った。


「ありがとう、セリ。君は本当に優しいね」

「誰の器として作られたと思っているのさ」

「はは、褒められているのかな?。本当にありがとうセリ。君の、君たちのこれからの路に希望があることを祈っている。じゃあ、さようなら」

「うん、さよなら、ノア」


 優しい笑顔で、ノアの心はゆっくりと薄くなり消えていく。セリはなぜか少し泣きそうになった。視界が暗転していく。そしてセリは暖かい暗闇に包まれた。



「リ…セリ!……セリ!!」

「はっ」


 呼びかけに意識を取り戻したセリは、あたりを見回した。目の前にはカテラが立っていた。見た感じ、完全に回復しているようだ。横に、幽体に戻ったカンナギがこちらを心配そうに見ている。

 そしてここは介入する前の空間だ。ノアの幽体は痕跡もないほどに完全に消滅していた。


「ノアを倒したの?」

「うん…最後に、ノアの心に会ったんだ。ノアは世界再生を為し遂げろってさ」

「あのノアが?」

「…うん」


 セリは事の顛末をゆっくりと二人に伝えた。

 カテラは驚いていたが、カンナギはどこか思うところがあったのか、そこまで驚いていなかった。


「そうだったのね…なら、言われなくてもやらないとね」

「そうだねカテラ。無事でよかった」

「さて、これから行く場所は一つだ、セリ。中央の球状の場所に確実にアクラはいる。そこに向かってお前はアクラとともに世界再生を行うんだ。俺はココノエを抑える」

「でも、カンナギのレーレラはもう…」

「レーレラの管理権限は失ってしまったが、まだこの口がある。対話でココノエを止めて見せるさ。なに口はうまい方だと思っているから大丈夫だ」

「不器用だと思うけど?」


 カンナギは少し笑って言った。セリは笑い返して、球体を見据えた。

 球体は静かに蒼い光を放っている。


 ここからが最後の旅だ。今までの仲間たちの想いもノアの想いも背負って、これからすべてを終わらせて、始まりの時を迎えるんだ。

 

 世界再生を為し、すべてを零へと戻すために。三人は歩み出した。

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