そぞろ涼しき夫婦の夜鳴き(後)
性の悪い奴もいたもので、寒い夜に夜鳴きソバの店を出し、首を縮めた客が駆け込んできて、温かい湯気の香りにほわんと気が緩んだところを、ソバ切り包丁ならぬ首切りの脇差でバッサリやるというのだから性質が悪い。
へぇへぇ、ざまぁみろ。
いったい何の因果で人様にそう言いたいのか知れないが、バッサリやろうとするその刹那の店主の顔は、この世の何物にも代えがたい幸福と愉悦に歪んでいるのであった。
「へい、お待ち」
いましも店主はロッチェ先生のもじゃもじゃ頭めがけて、隠し持った刀を振り下ろそうとしていた。そしたら、
「くしゅん」
とくしゃみをされてから堪らない。ほら、あるじゃないか。寒いくて体が冷えているときに、急に温かいものに触れてぬくもると、開いた血管が体中を駆け巡って色々と緩くなる瞬間が。その時のロッチェ先生は、鼻に来たのだ。
しかもロッチェ先生、大事なソバ鍋に鼻水をぶっかけてはならないと、咄嗟に正面へ顔を向けたものだから。
「うへっ!」
商売服に飛沫を浴びた店主がよろめいて、あわや先生一命を取り留めたが、殺人鬼はまだ刀を手放していなかった。
「おや!」
「うぬ!」
ロッチェ先生、やっと辻斬りの正体見極めた。
店主が刀を構えなおした。突く気だ。その手首を先生はむんずと掴んだ。
捻った。
音もなく、素早く。刀の先がぐるりと回って、店主の顔の方を向いた。
「おゲッ」
ハンコを押すように、手首を押した。
その猫魔の如きしなやかな動作に店主は抵抗の力を加える間もなく、己が刀を己の首に突っ込んだ。破れた喉から悲鳴を上げて、悶えながら今度こそ刀を手放すと、抜け目なくそれを拾ったのは先生の方で。
首切りが終わった。
ロッチェは怒り心頭だった。せっかくここまで来て、寒い想いをしてきたのに、店主はソバを切らずじまいでくたばってしまった。
ロッチェは血の付いた刀を捨てて、棚の奥にしまってあったソバ切り包丁を取り出した。客寄せの餌とはいえ、一応材料もあった。
「駄賃はいるよ」
ロッチェはソバを打ち、切り、これだけは本当によくできていた汁につけて食った。
「人殺しはさ、困るんだよ。保険会社にとってはさァ。無闇やたらに人を殺されちゃあ、死亡保険の支払いが増える一方だ。……静代の依頼はこれで完了だな」
腹の立つこともあったが、仕事終わりの汁は美味くて、腹もぬくもった。優しいロッチェ先生は、この汁を妻への土産に持って帰ろうと決めた。きっと喜んでくれる。
ああ、それにしても。
ロッチェは冬月を見上げて湯気を吐いた。今日はこれでいいが、明日からの事が気にかかる。静代に、自分はこういうことの出来る人間であると、バレてしまった。これからどんな難題をふっかけられるものか、わかったものではない。
そうため息をつきながら、それでも妻が大好きで、早く彼女の腹を満たしてあげたいと、土産片手に夜道を急ぐロッチェ先生なのであった。
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