そぞろ涼しき夫婦の夜鳴き(中)
この頃はまだ狼がいたというが、さすがにあれは野犬だろう。
どこやらで月に吼えるのを遠耳に、ロッチェは夜道を急いでいた。うすら寒い夜風が枯れ葉を一枚、ひらり飛ばして纏わせる。
「旦那、どこへ行きなさる」
道端の物乞いがふいに声をかけて来た。ロッチェは彼に施しをやりながら、努めて笑顔を作って見せた。
「ソバを食いにね」
「ソバ」
「このあたりに出るんだろう? 美味い夜鳴きソバの店がさ」
「ええ、まあ。出ますがね。旦那も物好きですね。仕事の帰りとも見えないのに、こんな寒い夜にわざわざ出向くなんざ」
「うん、まあ……女房の願いでね」
ロッチェ先生、笑顔がしゅんと崩れちまった。
物乞いはその顔をどう思ったか知らないが、先生の施しが望外の額だったのに気を良くしたのか、歯の抜けた口で妙にニタニタ笑っていたが、ふと真面目な顔をしてロッチェの顔を振り仰いだ。
「店も出ますけどね。この先の道では最近、悪い者も出るそうですぜ」
「辻斬りだろう? 知ってるよ」
先生が事も無げに言ってのけるので、物乞いは目を丸くした。
どう見ても、豪傑には見えない。
ロッチェ先生の身なりはヒョロヒョロ、刀なぞ持ってるはずもない。それでいて辻斬りなぞ屁でもないと、手練れの剣客の如き静達である。
「じゃ――私はこれで」
「え、ああ、旦那、お気をつけて」
風と物乞いを置き去りに、ロッチェは夜闇へ踏み込んだ。
「仕方ないよぅ。愛する妻の命だもの」
珍しく泣き言を口にしながら、ロッチェの足は早まって行く。
本当は寒いし、暗いし、面倒なのだ。
何かを口にしていないと気が滅入る。愚痴か。あるいは美味いものだ。
「こうなれば、そのソバが本当に美味いものであることを祈るしかないよ。こんな寒空での温かいソバはさぞかし格別だろう。しかし、あの静代が言うことだ。ただで収まるはずがねぇや」
とぼとぼ、すたすた。ロッチェ先生はしょんぼり歩く。
けれど、闇を恐れてはいなかった。
やがて遠くに灯りが見えた。間違いない。ソバの屋台だ。客の姿は見えないが、火はまだ落ちてなさそうだ。
「いいかね」
ロッチェ先生が足早に寄って声をかけると、奥から中年の店主がぬっと禿げ頭を突き出した。
「らっしゃい」
「温かいのを一つ。急いで頼むよ」
「へい」
火だ。火はありがたい。それに立ち止まると急に寒くなる。ロッチェ先生は指先をすり合わせ、そわそわと身を震わせながら、ソバが出来上がるのを待った。白い息がふっと夜に浮いた。
「旦那、よく一人でここまで来られましたね」
店主が陰気な声でロッチェに話しかけてきた。食い物を売るより坊主の方が似合う声色だった。
「最近はこの辺り、日が落ちるとほとんど人が来ませんや」
「辻斬りが出るからだろう」
「ご存じでしたか。ご存じできたのなら、旦那は肚が太いですねえ」
「そんな事はないさ」
話なんかよりソバはまだかな、と内心ロッチェは思いながら、立ち上る湯気に顔を突っ込んだ。――この香りは期待できる。
「あんただって、こうして店を出しているじゃないか」
「あっしは平気なんですよ」
ロッチェがうっとりと目を閉じている間に、店主は台の下に屈みこんでごそごそと何かを取り出した。
「切る方ですから」
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