そぞろ涼しき夫婦の夜鳴き(前)

「ご機嫌いかが? 私のロッチェ」

 背後からバラの香りに包まれて、ロッチェ先生はドキリとした。

「や、やあ、ご機嫌だよ」

「そうお? そうね。最近のあなた、とても活き活きしていなぁい?」

 先生の愛妻である静代はバス上がりの芳醇な香りを振りまきながら、ちっちゃな机で原稿にかじりついている先生の背中にすり寄った。静代は痩せた初老のロッチェ先生とは反対に大柄で、実際の年齢も若く、なにより野性味のある活力にあふれていた。なにしろ一介の営業からのし上がり、いまや某という保険会社のトップに君臨する女帝なのだ。

 無論、美しい。そんな妻にいきなり襲撃されると、ロッチェのごときは一溜りもない。

「私が活き活きだって、ハハハ、そう見えるかい」

 などと作り笑いも引きつっている。

 何かある!

 先生は肚の中でそう考えているのだ。妻が突然こんな態度を取ってくるのは、必ず厄介な頼み事をしてくる時なのだから。

「そ。例えばホラ、この間あなた、コロッチェとドライブに行ったじゃない。コロッチェったらその後、随分とあなたを見直したらしいわよ」

「ソ、ソ、それはだね、あの子のちょっとした相談に乗ってあげたからだよ」

「あら、どんな相談? 私まだ何も聞いていないわよ」

 ロッチェは言葉に詰まった。あの事は、まだ妻には言っていないのだ。いずれ言うつもりではあるが、そのいずれの踏ん切りがつかないのがロッチェ先生という人で、どうせなら息子の口から直接伝えてほしいと願っているのだった。それをこんな形で暴露させられてしまっては、父親として立つ瀬がない。

「ま、まあ、男同士の話だよ。いずれあの子から言うことがあるだろう」

「フーン。そう。あと、そういえば、あなたこの前〇〇でも活躍したみたいじゃない?」

 〇〇という町の名前を聞いた時、いよいよロッチェの心臓は飛び跳ねた。それはつい最近、茶椀蒸しの騒動があった町の名ではないか。妻はどこまで知っているのだ。先生が、先生らしからぬ、ピンク色の誘惑に乗りかけてしまったことなど、決して知られてはならぬ。もう原稿どころではない。どうせ進んでなどいないのだけど。

「活躍なんて、どういうことだい」

「ガラの悪いチンピラに、一泡吹かせてやったんですって?」

「あ――ああ、その事かぁ!」

 そっちか。そっちなら、まだ、良い。知られて困る問題はその前だ。あの女に一時発情してしまったことさバレなければ、それでひとまず良いと先生は急き込んだ。

「あの時はねえ、ウン、大変だったんだよ。いや、世の中には話のわからない奴がいて困るよ。まぁでも、正当防衛だから、活躍というほどでもないけどね」

「ヒーローみたい。あなたって、本当はそういう才能があったのね」

「才能なんかじゃあ」

「そんな頼もしいあなたに、お願いがあるのだけど」

 来たな!

「詩人のあなたも、私は好きよ。だけど、前々から思っていたんだけど、あなたの本当の才能とか素質って、どこか違う所にもあるんじゃないかしら。あなたの頼もしいところ、子どもたちにも見せてやりたいわ」

「そんな事はない、そんな事はないさ」

 ロッチェにしては珍しく、あからさまな抵抗を示したのだが、その時である。

「あなたって本っ当に素敵!」

 がぶりと噛みつくように、静代のボリュームある身体が先生に覆いかぶさってきた。長い髪から漂う香りに先生の鼻が詰まりそうだ。先生が震えている間に、妻は夫の枯れ枝のような手を握り、それを人形のように操って自分の方へ手繰り寄せた。

「ひゃ――」

 触れた。先生の一番好きな、いけない場所へ。

「あなたは本当に、ここが好きよね」

 不敵に笑う妻に、先生は答える術がない。答えずとも伝わるだろう。ロッチェ先生のどうしようもないフェチズム。初老のロッチェがいきり立つ急所。妻は心得ていて当然だが、それを今こうして意識させるのは、明確な意味があってのことだ。

「ねえ、聞かせて。あの女の人と、私とで、どっちのが好き?」

 バレてるじゃないか!

 ロッチェは目を瞑り、ただ情けなく己の男がいきり立つのを感じていた。どうせ妻に隠し立てなど出来ないと、わかりきっていただけに諦めも早い。静代の地獄耳は仕事においても家庭においても抜群なのだ。

「あなた、返事は?」

「君だよ」

「私、の?」

「君の、お腹が」

「そうよね。いつだって、どんな時だって」

 静代が言いたいのは、息子のコロッチェを身ごもっていた時の事だ。妊娠中の妻のお腹に、夫が顔を寄せて耳を当てる。それはどこの夫婦でも当たり前の、微笑ましい光景だろう。だがロッチェの場合は事情が違う。他のあらゆる点では枯れ切ってしまっている先生だが、それだけにある一点への執着は強く、妻の二人分に膨らんだお腹に顔を寄せると、もう、たまらなくなってしまって――。

「頼もしいお父さんと、あの時のお父さん。どっちの事を子どもに話そうかしら」

「……私にどうして欲しいんだい」

「お仕事を頼みたいの。大丈夫。あなたもきっと気に入るお仕事よ」

 静代は夫の頬へキスをすると、鼻歌交じりにバスローブを脱ぎ、ベッドへ寝転がった。

 先生は冷たいため息をつき、空白だらけの原稿をうっちゃって立ち上がった。

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