夜のロッチェは腹の虫(後)

 後から思えば、その時のロッチェ先生はいつもと違っていた。

 女の腹を見た途端に掘り起こされた古い記憶が、先生の挙動を変えていた。

「まぁ、まぁ、一服どうぞ」

 先生はゴリラ男の前に煙草の箱を差し出した。先生は煙草など持ち歩かない。テーブルの上に置いてあったものだ。

「なに言ってんだ、お前?」

 男はキョトンとした。顔はまだ怒っているのに、キョトンとした。

「落ち着いて、どうぞ。大丈夫ですから」

 何が大丈夫なのか、男にはさっぱりわからないが、目の前の小柄で貧相なロッチェ先生が変に落ち着いているせいで、昂った感情が空回りしてわけがわからなくなっていた。

「どうぞ」

「お、お、おう。話があるのか。あるのか! ええ、お前、人の女房を……」

「火もどうぞ」

 男が煙草を一本抜きとって口に咥えると、先生は素早く、テーブルからライターを取り上げた。点火した。着けた。ボッと灯った火を、煙草ではなく、男の目に。

 ぎゃっ――

「ハイそれじゃあサヨナラとんとん!」

 先生は訳の分からぬことを喚きながら、もがく男を突き飛ばして一目散に逃げた。それはまた、一陣の風のごとし。いつもの先生にはとても出来ぬ素早さで、若かった。

 ロッチェは少しだけ若返っていた。いつも眠たそうな目は不敵に煌めき、痩せた頬は上気して、息は弾んでいた。

 ――まあ、無料だ。何も失わず、ちょっとだけ良い腹を見れた。

 狭い路地を駆けながら、先生の心は踊っていた。


 ちょうど、いい時間になった。

 先生は足を止め、息を整え、ぐう、と腹を鳴らした。

 すっかり夜になった町は、明々と看板に照らされ、人々が行きかっていた。

 いい時間だ。腹が減った。茶碗蒸しだ。おお、やっとのやっとで茶碗蒸しだ。先生は運ちゃんに教えられた通りに、今度はわかりやすい大通りを辿って、目当てのスナックに辿り着いた。

 そこはまた先生の理想通り、こじんまりとした扉だった。スナックの扉があまり大きいと大変だ。

 先生は改めて大きく息を吸い、扉の向こうを覗き見るように、鼻をひくつかせた。一応店は開いているようだが、まだ食べ物の出ている気配がない。いや、まだ開店したばかりなのだろう。スナックの扉は分厚く彼方と此方を隔てる壁だが、ロッチェ先生の貪欲な嗅覚は確かに人の気配を嗅ぎだしたのである。

「今日という夜の、最後の締めに」

 開いたばかりで客がいないのなら好都合。ロッチェ先生は、存分に楽しむつもりでいた。茶碗蒸しのダシは何だ。

「いらっしゃいませー」

 気だるい声で迎えたママの、その顔を見て引きつった。

「君は……!」

「あら」

 さっきの女、だった。

 カウンターには一人の客が酒を飲んでいた。顔を見なくてもわかった。ゴリラのような男が、ジロリとこちらを向いた。右目にガーゼを当てていた。

「失礼しました!」

 ロッチェ先生、慌てて逃げた。

 まったく世の中には不思議なカップルがいたものだ。

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