夜のロッチェは腹の虫(中)

 ロッチェ先生が連れ込まれた部屋は、ひどく殺風景なところだった。路地から見たところでは厨房か何かの勝手口のように思われたが、十畳ほどの部屋はガランと空いていて、蛍光灯の古ぼけた白い光がいっそう寂しさを際立たせていた。物と言ったら三つしかない。入った手前の右側には、タバコの乗った透明の丸テーブルと木の椅子。そのちょっと奥の壁際には麻雀台と思わしき四角いテーブル。そして、部屋のずっと向こう側、白茶けた壁にぴったりとくっついているのは、この部屋に似つかわしくないほど大きなダブルベッドだった。

 ロッチェ先生はまた愕然とした。この部屋がある目的のための場所であることは間違いないが、それにしてはムードもへったくれもなく、投げやりな態度が透けて見えた。ここで繰り広げられる行為は『楽しむ』ものではなく、『手っ取り早く済ませる』ものなのだろう。シャワー施設に通じるような扉さえ見当たらない。壁はどこまでも一色の白塗りで、出入り口は今いる扉のみ。無論、暖房装置などなく、部屋の空気が寒々しいのは視覚の雰囲気によるものだけじゃない。

 先生じゃないが、いやまったく、この現代に、こんな部屋が、ちゃんとしたビルの一画に存在しているなんてね!

「料金は後でいいわ」

 女は茫然としているロッチェ先生を引きずって、奥のベッドまでつかつかと歩いて行った。そしてベッドの前でようやく先生の腕を離すと、そのままシーツの上に小さなお尻を乗っけて、上目遣いに先生を見あげた。

 路上では幼く見えた女だが、こうして白光の下でまじまじと見てみると、さっきより十ほども老けて見えた。髪の下から覗く頬骨が角ばっているのと、その割に頬の肉が痩せすぎているのが原因のように思われた。

 女の目はすでに、獲物を確保した肉食獣の、勝ち誇った余裕に満ちていた。

「あなたが上? それとも私が乗った方がいいの? 服は自分で脱ぐかしら。脱がせてやってもいいけど」

「いや、いや! 君、君いけないよ、こんな事は……」

「大丈夫だって。サツなんて来やしないんだから。あたし、こっちじゃあまり派手な商売はしない主義だから。本業の人達からもお目こぼししてもらってンのよ」

「君の言っていることはよくわからない。人を無理やり連れ込んでおいて、派手な商売はしないなどよく言えたものだね」

 ロッチェ先生、女の手から放されて、ようやく狼狽から落ち着いてきたかと思うと、今度はだんだん腹が立ってきた。温厚な先生だってたまには怒るのだ。ぐっと目に力を入れて睨んでやったのだが、女はよほど面の皮が厚いのか、それとも先生の眼力が弱いのか、突然、何かに思い至ったように、クスクスと笑い始めた。

「なによう、初心みたいなこと言っちゃって。うっふっふ。おじさん、結構かわいいとこあるのね。いいわよ、出来るだけ優しく扱ってあげるから……ふふふ!」

 先生、頭にかっと熱いものが込み上げた。それでも怒っているのか、照れているのか、よくわからないのが先生なのだけど。

「き、き、君! 人をからかっちゃいけないよ!」

「うっふっふ」

 先生がムキになるほど、女はますます太々しい笑みを浮かべて、ベッドの上でうんと体をのけぞらせた。そして、今やはっきりと妖婦の目つきで、先生の赤い顔を見つめながら、自らの服のボタンを外し、裾をまくりあげた。

 その日、先生の一番の衝撃はこの瞬間だった。

 服の一枚下は裸だった。さすがに下着は身に着けていただろうが、裾をまくり上げたその下からは、剥き出しの腹が現れた。

 その腹が、先生を蠱惑した。

 といっても、色気ではなく、食い気の方で。

「茶碗蒸し!」

 女の腹は瑞々しく、若かった。肌艶が良く、白い光の中で、ほんのり卵色をしているように見えた。決して太り過ぎず、しかし女らしい曲線と陰影を確かにもった、ツヤツヤで温かな腹。それが、先生にはタクシーの運ちゃんから聞いた茶碗蒸しを連想させた。

 ぐう、と先生のお腹が鳴った。ごっくりと、唾を呑んだ。細い瞳はギラギラ血走って、女の腹を食い入るように見つめていた。さっきからこの女、娘に見えたり、老けて見えたりしていたが、この腹は明らかに若い。そんな事を考えていた。

 ――ロッチェ先生の脳裏に、古い記憶がよみがえった。

 先生がまだ若かった頃。

 こんな風に、いい腹をした女がいた。

 その頃のロッチェは、今とはまるで違っていた。

 いけない。あの頃の記憶は捨てなくてはならない。忌まわしい稼業の記憶など。

「なにをぼんやりしているの?」

 先生の態度をなんと勘違いしたのか、女は唇の端を吊り上げて、さらに服をまくり上げ、乳を見せようとしていた。

 その時だった。

 バン、と大きな音を立てて、背後の扉が開いた。

 驚いて振り返った先生の目に、四十歳ぐらいの、ゴリラのようにいかつい男が映った。黒い皮のジャンパーを羽織ったその男は、鼻息荒く、小山のような肩を上下させ、先生よりも興奮に血走った目で、部屋の中の情景を網膜に焼き付けていた。

「花江!」

 男の鼻息は夜気に冷えて白霧となった。

「お前はまた、こんな因業な事をして……」

「なにさ。せっかくいいところだったのに」

 男が興奮しているのとは対照的に、女はベッドの上で、さっきまでの媚態さえ拭い落としたように、冷淡に落ち着き払っていた。けだるそうに服の乱れを直すその仕草は、心なしか一層老けて見えた。

 無論、ロッチェ先生の脳裏にあった茶碗蒸しの誘惑や古い記憶など、男が怒鳴り込んできた瞬間に消し飛んでいた。だからといって先生に何が出来る訳でもなく、ただ口をあんぐり開けたまま、「ズボンを脱ぐ前で良かったな」などとぼんやり考えるぐらいだった。

「何度も言っただろう。お前はこんな浅ましい真似をしなくたって、十分に稼いでやれる女じゃねえか。男の身体が欲しいってンならオレがいくらでも相手をしてやる。いや、だからオレと夫婦になろうって、もう三年も前から言い続けているってえのに、お前はどうして他の男を引っ張り込んだりするんだ。ええ、それも見ず知らずの、どこの馬の骨ともわからない奴なんかと……」

 男はロッチェ先生など眼中にもないように、女だけを睨んで、なおもくどくどと喚きたてた。その男、顔付きこそ獰猛なれど、その瞳は困惑と哀願に濡れていて、食いしばった口から唾だか涎だかを垂らしていた。その姿は母親に駄々をこねる子どものようでもあった。そして母親ならぬ女は、足の爪先を天井に向かって跳ね上げながら、いとも面倒くさそうに振舞っていた。

「こっちこそ、何度も言ったでしょう。私はこういうのが好きなの。あんたと仮の夫婦をやるのも悪くはないけど、それだけじゃあねえ」

「オレじゃ不満だってえのかい。そんななわけはないだろう。お前、オレに抱かれていつもヒイヒイ喜んでるじゃねえか。やっぱりアンタが最高よと、一晩中、何度も、何度も、ぎゅうぎゅうにくっついて、腹の底まで満足し合っているじゃねえか」

「そりゃ、あんたの体はたくましいし、やり方も愛があって、とっても良いわ。だけどねえ、考えてごらんなさいよ。いくらお腹いっぱいに食べて満足したところで、時間が経てばまたお腹が空くのは当然でしょう。それに、どんなに美味しいご馳走だからって、毎日同じものばかり食べさせられてたんじゃあ、退屈するじゃない」

「馬鹿! お前、そんな考えは間違ってる! 男と女ってのは、普通、一つずつなものなんだ」

「私はいいのよ、普通じゃなくたって。あんたも私の、普通の女じゃないってところに惚れて、夫婦になりたいと言ってきたんでしょう。それともあんた、私をただの詰まらない女にしたいわけ」

「そうじゃない、そうじゃないんだ」

「私はねえ、今でも、そんでこれからもずっと、あんたのことを世界で一番いい男だと思ってるのよ。他のはあくまでつまみ食い……。あんたが一番。だけど、ねえ。ちょっと聞きなさいよ。これ以上あんたが私をいじめるようなら、あんた、もうダメかもね。関係を続けるのもだんだん面倒くさくなってきたわ」

「オレは……オレだって……お前が、花江が一番だ。いや、唯一だ。オレはお前ひとりだけで幸せだっていうのに、お前はオレひとりじゃ不満だっていうのか!」

「しつこいね!」

 ――余所でやってくれないかなあ。

 ロッチェ先生はお腹が空いてきた。目の前で突如繰り広げられた男女の爛れた関係に、ちょっとばかし興味がないこともなかったが、その二人の間に挟まれて交互に怒鳴られるのはたまったものじゃない。先生はいたたまれなくなって、でも気持ちはだんだん落ち着いてきて、やがてはっと閃いた。

 ――そうだ。今のうちに、私がおいとますれば良いのだ。

 それは素晴らしいアイデアだった。先生はまだ何もしていないのだから、お金を払う必要もないだろうと思われた。素晴らしきかな後払い。夫婦の事は夫婦で話し合ってもらうとして、無関係なロッチェ先生は速やかに消えてしまった方が、全てにとって最善であることは間違いない。

 先生はそろり、そろりと足音を忍びながら横に歩き、なおも言い合っている男の視界からさりげなくいなくなることに成功した。男は気づかない。どうやら男は女との言い合いに相当劣勢らしく、怒りの感情でなんとか戦意を保っているが、その顔はなんだかベソをかいているように見えた。

 ――誰だか知らないが気の毒なことだ。だけど、もうちょっとそこからどいてくれないかな。

 男は部屋に入って中の景色を見た瞬間に激昂し、唯一の出口である扉の前に突っ立ったまま、そこから根が生えたように動かないでいるのだ。女に向かって激しく罵り、あるいは懇願しながら、部屋の奥の方へは一歩も進んでくれないのだった。まるで、それ以上女に近づくことで、かえって自分の方を心理的に追い込んでしまうのだと、ひどく恐れているように。

 先生はなおも言い争う二人に気を付けながら、そろそろと壁に寄ると、ヤモリのようにピタリと張り付いた。ぼんやり屋のロッチェ先生にしては俊敏な行動だった。突然の事には驚き狼狽するが、やるしかないと決めたのなら、先生は案外素早いのだ。

 後はそのまま、音を立てず、静かに、男の背中の後ろを通って扉から逃げてしまえばいい。

――それにしても、なんと間抜けな格好だろう。これじゃあ完全に、亭主の帰還から慌てて逃げる間男じゃないか。冗談じゃない。私はここに来たくて来たわけじゃない。あの女が勝手に私を引っ張り込んだのだ。私はただ歩いていただけだ。それにしても、今、何時だろう? もうそろそろいい時間なはずだ。私は茶碗蒸しが食べたいのだ。おお、つやつやで、温かな茶碗蒸し……。こんな寒い嫌な夜に、全てを包む茶碗蒸し……。

 ぐう、とお腹が鳴った。

 それはまた大きな音だった。部屋いっぱいに響き渡るぐらいに。

 おそるおそる、先生は壁から顔を離して、横の方を見てみた。見なくたって、予想はついたけれど。お腹の音が鳴った途端、二人の言い合う声がぴたりと止んだのだから。

「おい」

 怒ったゴリラの顔が、そこにあった。ぷんと酒の匂いがした。この男は自分の女へ文句を言うのに、酒を飲んでからでないと勇気が出ないのだろうか。

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