夜のロッチェは腹の虫(前)
ロッチェ先生はすこぶるご機嫌だった。
だいたい、先生はいつもご機嫌である。なにしろ羨ましいものだ。自由気ままにあちこちを旅して、気の向いたものを食べて、時々文章なり絵なりを書いて、まったく好きに生きているのだから。
その日、ロッチェ先生はさる町の繁華街を歩いていた。
ロッチェはお腹が空いていた。ロッチェは空腹が好きだ。お腹が空いていればいるほど、食べることが幸せにからだ。
「ああ、茶碗蒸し!」
心の中でつぶやいて、ぺろりと舌を出した。
先生はその町へタクシーでやって来た。先生にはちょっと珍しい贅沢だ。けれど、ちゃんと成果はあった。タクシーの運ちゃんというのは、時に、観光ガイドよりも優れた情報網になるものだ。特に、食べ物に関しては抜群である。
「ははあ、あのあたりで美味しい店ですか。へえ、出来れば全国に展開している大きな店じゃなくて、個人がやってる小さな店がいい? ええ、ええ、わかりますよ。それも旅の醍醐味ですからねえ。それだったらお客さん、大通りからちょいと曲がったところの山吹通りってところに、そんな店がたくさんありますよ。普通の居酒屋、というより飲み屋と言った方がよさそうなおでん屋、ラーメン屋、ホルモン焼き……。そうですねえ、私が行くのはスナックですね。いいお店があるんですよ。酒や客あしらいが良いのは当然ですが、なんといっても料理がいい。あれ、あれ、お客さん。急に眼の色変えてがっついてきましたね、あっはっは。赤信号、停止します。……で、そこの女将はもと料亭勤めだとかで、ちょっとした料理にもなかなか凝っているらしいんですよ。え? いやあ、私はあんまり舌が肥えてませんから、具体的に何がどう凝っているんだか、はっきりとは説明しかねるんですが……。え、それでいいとおっしゃる。あんまり詳しく説明されるとつまらないですって? へへえ今どき珍しいですねえ。今日びはなんでもかんでも事前に調べて効率良くって人が多いのに。青信号、発車しまーす。えーっと、それでですね、私が特におすすめしたいのは、そこの茶碗蒸しですかねえ」
おしゃべり運ちゃん、そこでストップをかけられた。先生にはもう十分だった。少しばかり涼し気な風の吹く夜に、あったかい茶碗蒸し。そのイメージだけで、先生の期待はぬくぬくに温められた。大まかな場所だけ聞いて、市街地についたら、もうそこでタクシーとはおさらばだった。
歩いて、お腹を空かせて、茶碗蒸し。沁みる。きっと沁みるだろう。沁みてほしいから、ロッチェ先生は歩くのだ。
けれど先生、ちょっと困ったのは、まだ時間が早かったこと。まだ夕方の五時にもなっていない。目的の店が何時に開店するのか聞いていなかったが、まさか学生が自転車押して帰っている時間には開きやしないだろう。もっと日が暮れて、いかにもスナックらしい時間帯になるまで、先生は何の予定もなく暇なのだ。
先生は教えられた通りをわざと避けて、別の狭い路地に入った。先生は暇つぶしに冒険をすることにした。知らない町の知らない路地に、どんな素敵なものが転がっているか、迷い込んでみるのも悪くない。こういうところが、先生の芸術家たるところである。
それにしても、路地というのは不思議なものだ。たった一本、建物一つの裏側に回っただけで、雰囲気ががらりと変わる。表通りは学生や勤め人が歩道にひしめき、タクシーやバスが引っ切り無しに人間を運んでいく。時々、妙なところに自家用車が停車していたりして、後ろの車がブーブークラクションを鳴らしたりする。店からは音楽が流れ、ショーウィンドーは眩しいぐらい輝いている。
そこから一本奥へ進むと、準備中の看板を出した飲食店がぽつぽつ、運搬トラックから段ボールが運び出されている。ここはまだ暗く、静かだ。もうちょっとしたら、この通りにも火が灯る。それまで御馳走はおあずけだ。
先生はもう一本、奥の路地へ行ってみた。そこはまた空気が違っていた。うら寂れているのはさっきの通りと同じだが、どことなくピンクの熱が籠っているところだった。早い話、そこは色街というものだ。
「学生の通る表からほんの五分も行かぬ所に、こんな大人の享楽地のあるというのが、路地の面白いところだね」
先生はまた一段とご機嫌になった。先生はこんな町が大好きだ。なに、色街が好きってわけではない。先生は食い気こそ人並み以上にあるけれども、色気の方はさっぱりだ。町のそこかしこに輝いている、いやに開けっぴろげなピンクの看板にはとんと興味がない。先生が好きなのは、こんな景色が、表通りからほんの五分と歩かぬ所にある事なのだ。
――あの大通りを自転車で駆け抜けていく学生や、その保護者達だって、ちょいと路地を抜けた場所に大人の町が広がっていることぐらい、知っているだろう。親の中には、実際にこの辺をウロチョロしている人だっているかもしれない。でも、その事にゴチャゴチャとしかつめらしい文句を並べ立てたり、壁を築いてこっちとあっちとを分断するような、詰まらない事をしていないのが実に良い。違う者同士、釣り合わない者同士が、隣り合わせの程よい距離に併存している。
それは、この町がちゃんと生きている証拠なのだ。
ロッチェ先生は鼻歌でも歌いたいような気分で、野良猫よろしく次の細道へ踏み込んだのが、その先が、まあ、凄かったの。
先生、思わず立ち止まって、息を呑んだ。
そこはいよいよ裏の裏。表に流れる時間から、ぽっつり取り残された空間だった。そこには女性が乳房を露わにしたポルノ映画の看板が、堂々とビル壁に掲げられていた。薄い竹垣に隔てられた民家風の建物の窓には、白粉塗った女たちの写真が無造作に並べられていた。煌々と照らす窓の灯りを受けて、女たちの唇は不自然なほど色濃く微笑んでいた。そこはさっきの通りと比べてまた一段と暗く、そして音はいっさい聞こえなかった。寒風吹く黄昏の裏町に、女の看板と写真だけが無言の主張を投げかけていた。道の先では頭の禿げあがった老人が、得体のしれない露店を開いていた。
「こんなところが、残っているのか」
さしも呑気な先生も、すっかり困惑したようだ。急に腹の底がぞくぞくしてきた。さっきの色街通りにはまだ表の軽快な音楽が流れ聞こえていたし、ラーメン屋や焼き鳥屋から支度の気配が漂ってきて、道には少ないながらも人がいた。もう少し時間が経てば仕事帰りの人々がどっと押し寄せて来て、夜の店たちが一斉に活気づくだろうという生きた予感があった。
ところが今いる通りにはそれが感じられない。きっと、夜のどんな時間になっても、この道に漂う古い闇の匂いは、表の賑わいなどまったくお構いなしに、少しも変わらなくあり続けるだろうと思われた。
と、戸惑っている先生の背中に、ふいに焼けつくような視線を感じた。振り向いてみると、映画館の壁にもたれて、一人の女が先生を見ていた。
それがまたよりによって、モンローにそっくりな女だった。女はこの寒空だというのに薄いガウンを羽織り、短いタイトスカートに、長い脚をしていた。映画館の壁にハイヒールの踵をくっつけて、先生の方をじぃっと見つめながら、血を吸ったように赤い唇でにっこり笑った。先生の背筋はビリビリ痺れた。蜘蛛の巣に引っかかった蝶みたいに。その態度に脈ありと感じたのか、女はなおも先生に向けて味な目をくれながら、あまり細くない指先で、スカートの裾をほんの少しまくりあげた。そして、もう一方の手を己の口元に持って来ると、指で数字を作ってみせた。
四――。
それが『行為』と『値段』を示しているってことぐらい、ロッチェ先生もすぐにわかった。
「あ、いや、あ、む、む」
口の中でむにゃむにゃ呟きながら、先生は女がいるのとは逆の方へ歩き出した。両足が棒のように緊張して、いとも無様な格好だった。
「いかに町の裏とはいえ、このご時世に、あんなにもあからさまに、あんな商売が残っていて、しかもまァ、モンローとはね!」
可笑しいやら、呆れるやら、先生、自分でも何故だか知らないが、泣きそうな顔をしていた。
ふと見ると、道のちょっと先にも、別の女が立っていた。そいつは茶髪のふわふわした女の子だったが、先生は直感的に、その女からさっきのモンローと同じ匂いを感じていた。この分では道路そこらじゅう、似たような女ったいが待ち構えているのではないか。
ロッチェ先生も流石にげんなりした。先生は芸術家を気取ってはいるが、根は善人に過ぎると言うか、小心者で、このような味の濃い景色には胸やけがしそうになるものだった。
「こりゃたまらん」
と、とうとう気まぐれの散歩を切り上げて、表の方へ戻る決心をしたものだ。
ところが、先生が本当に怖い思いをしたのは、それからだった。
表の方へ戻ると決めた先生だが、歩いてきた道を逆に戻ると、またさっきのモンローに見つかってしまう。見つかったからってどうでもないように思えるが、先生は何となく嫌だった。それで、とりあえず近場のビルとビルの間の、ごく狭い路地に潜り込んでみた。いよいよ野良猫のように。そこは街灯もなく真っ暗で、壁際には段ボール箱やコンテナが無造作に積み置かれていた。
先生は体を横にして、荷物の間をすり抜けて行こうとした。すると段ボールの陰に、また一人の女が腰かけていた。
どうしたわけかその場所だけ、ぼんやりと白い明かりがあって、横を向いていた先生は、真正面からその女の姿を見ることになった。人形のように前髪を短く切りそろえ、卵型の顔立ちは、まだ小娘のようだった。先生は女の服装などよくわからないが、大陸風のイブニングドレスみたいな衣装を身に纏い、片膝を顎の高さまで突っ立てて、コンテナの上に座っていた。
猫のような目が、突如現れた先生の顔を、じっと見ていたのは言うまでもない。薄い唇が、何か言いたげに、ひっそり開いている――。
そんなところまで見てしまって、先生はまた脇の下に冷や汗かく思いをしながら、横向きのカニ歩きを早めて通り過ぎようとした。まったく、本当に、さっさと通り過ぎてしまえばよかったのだ。でもロッチェ先生は、慌てるとかえって身動きがギコちなくなるタイプだった。
先生より先に女が動いた。女は両の目をかっと開いたまま、無言で先生の前に右の掌を突き出した。手の指は五本とも開いていた。そして、女はさらに左手の指を二本伸ばして、右の手のひらに重ねた。
七――。
「はて」
先生、そこで立ち止まるからいけない。
「さっきの肉感的なモンローが『四』で、こっちの女が『七』だなんて、いったいどこにそんな差があるのだろう?」
女は無言で立ち上がった。後ろ手にビルの壁に触れたかと思うと、そこには扉があって、薄く開いた隙間から白い光が漏れていた。女は片手で扉を開けながら、もう一方の腕を、ロッチェ先生の腕にぬらりと絡みつかせてきた。
「いや! いや!」
先生は金魚みたいに口をパクパクさせて、必死に抗議の色を示したが、女は、
「大丈夫よ。すぐに終わらせてあげるから」
と子どもに聞かせるように言い放つと、がっちり絡んだ腕を引いて扉の奥へと入りかけていた。
「そりゃ、君は商売が早く済んで良いだろうがね」
先生はちっとも大丈夫じゃない。だいいち、先生の嚢中には七万円なんて大金など入っているわけがないのだ。
先生は女から逃れようと懸命にもがいた。けれど、元よりあまり動作の俊敏な方ではないし、おまけに狼狽するとますます体が硬くなる性質なものだから、あれよあれよという間に、まんまと扉の中へ引きずり込まれてしまったのだ。
もっとも、仮に先生が落ち着いていたとしても、女を突き飛ばして逃れられたかははなはだ疑問である。なにせ先生は紳士だから。
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