コロッチェは豚カツを食い、食われる(中編)
コロッチェはその女と出会った。
狭い寿司屋には初老の店主と客一人。その客が女だった。
初心なコロッチェ君はそこに女性がいると認識しただけで、それ以上ジロジロ見るのも失礼だろうと決めつけ、半ばそっぽを向くようにカウンター席についた。
四人掛けカウンターの端と端。それが女とコロッチェの最初の距離だった。
「カツ丼一つ」
「へい」
店主の態度はそっけなく、心地よかった。厨房の奥にキープボトルのラベルだの、芸能人のサインなど仰々しく掲げていないのも好感が持てた。
こういう店なら美味いものが食える。と、教えてくれたのは父のロッチェ先生だった。父の教えは正しいかどうか、腹をすかしたコロッチェ君が考えるのはそればかりだった。
「はい、カツ丼お待ち」
えらく早いな、と顔を上げたが、店主が丼を置いたのはコロッチェの前ではなかった。女の方だった。
つい視線が引きずられて女の方を見ると、女もコロッチェを見た。
ごめんなさいね。と言っているみたいだった。
――綺麗な人だった。
コロッチェはドキリとした。初めての感覚だった。なんだろう。自分よりずっと年上の人には違いない。昼休み中のOLにも見えない。きっと、いいところの妙齢の女性。そんな気がした。
「いただきます」
女は箸を割り、カツ丼を食い始めた。
ガツ、カツ、カツ、ガツ。
それはまた、見事な食いっぷりだった。指先は機械のように正確なリズムで箸を運び、艶やかな唇は次から次へと肉を呑んでいく。それはずっと見ていられる活劇だった。
実際、コロッチェはすっかり見惚れていた。
「へい、カツ丼お待ち」
心持ち強めな店主の声に揺り戻され、コロッチェは自分の前のカツ丼に目をやった。美味そうだ。今の食いっぷりを目の当りにしたら、余計に。
「いただきます!」
夢中でかっ込んだ。たまらなく美味かった。思えば、カツ丼を食うことはあまりなかった。どちらかといえば、多少財布に無理をさせてでもカツ定食を食いたい主義だった。その方がよりカツのサクサク感を楽しめるからだ。しかし、すきっ腹に掻き込む丼飯は極上と言う他ない。
多少お行儀は良くなかったが、瞬く間に平らげた。若い食い意地の面目躍如といったところだ。
大きく息をついて、ふと隣を見ると、女がコロッチェを見ていた。
にこり。
女は少し前に食べ終えていたようで、優雅に湯呑を握っていた。その湯気越しに、コロッチェの方へ味な目をくれていた。
「若いのね」
そう言っているみたいだった。
コロッチェは顔を赤らめて、慌てて立ち上がった。
「ご馳走様でした。ええと、お代は……」
「はい、850円になります」
「……なんですって?」
赤い顔が青ざめた。思っていたよりも高い。そういえば値段もロクに見ていなかった。ズボンのポケットから財布を出して開いた。
780円しか入っていなかった。
「電車代……!」
悔やんだが遅い。他に決済手段もない。まさか、たかがこれっぽっちの金額で窮々させられるとは。
「足りないの?」
女の声。女だ。立ち上がっていて、コロッチェのすぐ横に来ている。
いい匂いがする。――カツ丼を食ったばかりなのに。
「え、ああ、はい」
気取る余裕もない。コロッチェ君は犬のように体を縮めた。女はそれを尻目に、店主へ紙幣を二枚差し出していた。
「ご馳走様。これで二人分ね」
「はい、毎度ありがとうございます」
するすると支払いが済んで、女は颯爽と店を出て行った。
「待って、待ってください。あの、ええと……ああ、ありがとうございます!」
コロッチェ犬は主人の後を追っかけるように店を出た。女は待っていてくれた。
「お礼なんていいのよ」
「いえ、その、そんな、悪いです。見ず知らずの人に奢ってもらうなんて、あの、少しだけなら払えますから」
「その財布を引っ込めて。いいんだから、これぐらいのお金。奢られたお金をお金で返そうなんて考えないで」
「ハイ。申し訳ありませんでした」
女の口調は落ち着いていて、コロッチェ君は恐縮するばかりだった。
「ですけど、でも、このままじゃ」
「義理を欠くって? いい子ねぇ」
「いい子だなんて、あう……」
「それじゃ、違う形でお礼してくれる?」
「はいっ!」
「それじゃあ……」
尻尾振る子にご褒美が来た。女がずいと顔を近づけてきた。
「一週間後、またここで会いましょう」
「はい」
「お願いしたこと、何でも出来る?」
「ハイ」
「じゃあ、誰でもいいから……」
人を殺してくれる? 女は笑った。
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