第35話 別勢力
「いねえんすか、あいつ!?」
警察署の地下ラボラトリー……狛犬用の研究施設を訪れた忍は、顔見知りの研究員から愛南が昨日の夜から戻っていない事を聞かされ、思わず詰め寄ってしまった。
「う、うん。昨夜は徹夜で色々やってたみたいでね、朝勤の人が来たタイミングでフラッとどっかに……」
「そうっすか……」
「もしかすると仮眠室で爆睡してっかもね。行ってみたら? 一階の奥の方――」
「場所は知ってるんでへーきっすよ。んじゃ、失礼しやーっす」
忍は研究員に軽薄な敬礼でお礼を述べ、ラボを後にした。
(徹夜で、ねえ。らしくねえな、眠くなったら鉄火場でも寝る女なのに)
とはいえ忍からも結構せっついたので、やる気を出して頑張ってくれたのかもしれない。
忍と愛南との付き合いは、意外なことに弥恵より長い。忍が母親とその同棲相手を殺害した頃のことだ。
指名手配中だった同棲相手を確保しようとした狛犬隊員の中に、新人調査員として愛南が同行していた。
折しも衝動的に二人を殺害してしまい、今後の生活をどうすればいいか分からず途方に暮れていた忍は彼女たちに確保され、状況捜査の間だけ愛南と栄一の元に預けられていたのだ。
その後、父親の穂村家に送られた忍だったが、中学一年生の時に起こした事件で再び狛犬に確保され、二人は再会したのだった。
以来、荒んでいた忍も愛南の言うことは素直に聞き、愛南も忍を狛犬として任務遂行できるまでに育て上げるなど、お互いに信頼も築いてこれた。おそらく忍と弥恵よりも真っ当な姉弟をしているだろう。
(何だかんだといつも頼りにしちまってるよな。けどやっぱ、医学とかの話じゃ専門家にゃ口出しも出来ねえし)
マリルとゼノビアが得た情報(ご丁寧にゼノビアは写真と音声データ付き)で、忍の変調は体に混じった女神エデンという異物が原因と判明した。それを取り除けば、元通りになるはずなのだ。
問題はその方法である。カフェオレをコーヒーとミルクに分離するだけでも相当な手間が掛かる。ましてや人間の体だ。
(外科手術で取り除けるもんなのか? つーかクラゲじゃあるめえし、別個の生き物が合体してるなんて状態って……)
あれこれと考えながら階段を上っていた忍は、踊り場に座っていた小さな人影の気にも留めずスルーしようとして、ドレスのスカートをちょこんと摘まれて呼び止められた。
「む、無視することな、ないだろ?」
「ああ、すんませ――ん?」
それは警察署、それも関係者しか訪れない地下階段に不釣り合いな、肌着のシャツ一枚にデニムの短パンだけ着ている明らかに痩せ過ぎな少女だった。露頭に迷っていたのを保護されたのだろうか。
「どうしたよ、迷子か?」
「ち、ち、違うよ。君に用事さ、西城忍……くん?」
少女は隈が濃い、血色の悪い顔に粘着いた笑顔を貼り付けて忍を見上げた。顔の造形そのものは整っているのに、ゾンビのような肌色とやつれた頬で色々と台無しな子だ。
「し、シャンバラってんだ、ボク。楽園のめ、女神やってる……や、弥恵ちゃんから聞いてない?」
「……お前が?」
聞いていた特徴とは一致するものの、忍が奇妙だと感じたのは、こうして隙を晒しているのに全く脅威を感じられないことだった。
敵意や殺気を隠している風でもなく、外見相応の存在感でしかない。気配も匂いも人間のものだ。
とはいえ『楽園の女神』という単語を知っている以上、無関係な一般人でもないのだろう。
「まあいいや。で? 俺を元に戻す方法でも持って来た?」
「それが分かればこ、こっちも苦労しない……ちょっ!? どうしてゲンコ作ってんの!?」
「それなら俺に殺されに来たのかなって。ぜのびーから聞いたぞお前、弥恵のこと結構詰めてくれたらしいな。今朝は珍しく調子悪そうだったぞ、おい」
「フヒヒ……ッ、目が本気だよ、この人!?」
本気で怯え竦んだシャンバラだが、逃げたり抵抗する素振りはない。本人が言うように、本当に忍に用があるようだ。
シャンバラは引きつり笑顔で忍を宥めようと試みたが逆効果で、小さな頭を鷲掴みにされた。
「す、少なくとも弥恵ちゃんに害意はな、ないよ? 少なくともボクとしては、え、え、エデン様さえ戻ってくれればいいんだし?」
「……ボクとしては?」
「ら、『楽園の女神』も一枚岩じゃない……ていうか、メインシステムのエデン様がロストしてるせいで、みんなだ、大なり小なりのバグが生じてる……」
「聞けば聞くほど妖物よりもロボットだな」
「き、機械って点ならその通り、さ。今はずっとずっと未来のぎ、技術で造られてるか、からね。フヒヒッ」
頭部を掴まれたままだが、忍に会話の余地があると判断したシャンバラはつっかえつっかえ話を進めた。
「君からエデン様を引き剥がすほ、方法はあるんだ。あの方を取り戻したいボクらとは、離れたい君となら協調できるとお、思うんだけど?」
「生憎と俺は女神サマなんざどーでもいいんだよ。元の体――つーか男に戻れるかが第一なの」
「え? 無理だよ、そんなの」
シャンバラが当然のように言ってのけた。その視線、忍はよく知っている。常識を疑う時や、当たり前の通用しない存在に向ける――と言うと大袈裟だが、ようするに一般人が全裸で街中を徘徊する奇人を見る時のアレだ。
「……あ〜、な、なるほど。そんなところにず、ズレがあったのか……」
忍も忍で茫然自失となっており、間の抜けた表情を観ながら何かが腑に落ちたように頷いた。
「おいこら……なぁに一人だけ納得してんだよ」
「フヒヒヒッ、アルカディアがぜ、ゼノビアちゃんに色々と言って聞かせてたのに、肝心のとこつ、伝わってないね。これだから旧式のポンコツは……」
「そんなに独り言が好きなら首から上だけ保存してやるけど」
「
忍の握力で頭蓋骨の軋む音に、シャンバラが慌てて話を切り出した。
「君はエデン様のう、生まれ変わりなんだ。より正確に言うと人間の西城忍と女神エデンの
「てんせい?」
「人間のり、輪廻転生に干渉してて皮肉なも、もんだけどね。少なくとも忍くんは死んでないし。と、ともかく両者の融合で新たに発生した生命体が今のき、君さ。素体は消滅したも同然だし、君だってもう人間じゃない。き、君自身の自己認識葉ど、どうあれね」
「……遺言はそれで全部か?」
恫喝する忍の声に、普段のような凄味がない。シャンバラの言葉には、認めたくないが筋が通っている。
「し、信じられないなら医者にでもみ、診てもらえば? きっと人間とは違う遺伝子情報なんかがで、出てくるはずさ」
「……医者は『異状なし』だとよ」
「おや、そ、そうかい? だけど……弱ったね。君の目的がそれなら、今後は何を言っても没交渉になりそうだ。フヒ、フヒヒッ」
何が楽しいのは、不気味な笑いのシャンバラに苛立ち、忍は八つ当たり気味にその頭を握り潰した。熟れ過ぎたトマトのように抵抗なく爆ぜたが、残った鼻から下が変わらず笑い声が漏れている。
「ひ、酷いことするね? 気に入らないとすぐぼ、暴力だ。弥恵ちゃんとかは大丈夫なのかな?」
「身内に手ぇ上げた事ぁねえよ」
「フヒヒ、じゃあご両親は身内じゃなかったんだ。そりゃそーか、フヒヒヒヒヒッ」
シャンバラの体が、空気が抜けるように萎み始める。みるみるうちにペラペラになっていった。
「じゃ、今日はもう帰るけどね。もう一つお、教えておくよ」
「あんだよ?」
「君や、君の同輩が集めてるて、天使の中枢核だけどさ? この建物に保管し、してるだろ?」
「そうなの?」
「そうなの。……今ね、ボクの仲間がそれに接触した」
その時だった。
さっきのラボよりもさらに階下、訓練場と同じ地下六階の辺りから、おぞましい気配が爆発的に拡がった。
忍の足元から頭頂部までをおぞましい寒気を覚えるほどの何かが通り過ぎ、警察署の敷地全体を呑み込んだ。
「っ!? 何だ、今の!! つうか、これ!!」
「君らの言葉で言えばし、署内余すところなく異界に堕ちたってと、ところかな。仲間の名前はティルナノーグとエリュシオンに……カダスだよ」
「てめえら……何するつもりだ!!」
「さぁてね。彼女達はボクとは、派閥が違うから。失った
その言葉を最後に、シャンバラの体が厚みを完全に失って消失した。
と同時に、踊り場の床や天井から黒いタール状の物体が染み出し、急速に人の形へ変わっていく。
ちょっと前から街中で出現していた、ピンク髪の天使だ。
「……うらーっ! みっけたぞ、デカ乳――」
「おらァ!!」
ピンク髪の脳天から股下までを垂直チョップで一刀両断に伏した忍は、異界化の中心らしき地下へ向かって階段を飛び降りて行った。
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