第36話 ポンコツ
狛犬とも密接な協力関係である警察署には、一般職員にも異界遭遇時の緊急事態マニュアルが配布されている。防災訓練も定期的に行われてきたが、それを実際に活かす現場に遭遇する事例は皆無だった。
それでも、唐突に発生した警察署の敷地を丸ごと沈めた大規模な異界化現象にも多少の混乱を起こしつつ、東比留芽署員は冷静に事態に対処していた。
具体的には
幸い、所轄の警察官や五級の狛犬が数人いたお陰で作業は迅速に進んだ。一般人も多数いた一階ロビーの出入り口を封鎖し、その上からマリルが結界術を施して、一先ず天使の発生と侵入を防ぐ処置が完成した。
「ふう! これでこのフロアの安全は……まあ、半日は保てるでしょう。一日デモ出たら命の保障はしませんが!」
冷酷に言い切ったマリルの背後、駐車場に面したガラス張りのすぐ外には、手に手に武器を携えた銀髪、青髪、緑髪、ピンク髪の大群だった。顔のパターンが四つしかないのが数十人大挙して押し寄せる光景はかなり不気味だった。
精神年齢が一番幼いらしいピンク髪が、ガラス戸表面の結界を蹴りながら全員同時に恫喝する。
『おらーっ、人間ども! 大人しくエデン様の神罰を受け入れろーっ!! わざわざ天使様が迷える魂を救いに来てやったんだぞーっ!!』
「ひぃっ!?」
あまりのガラの悪さに、祖母と一緒に遺失物を取りに来ていた幼女が、頭を抱えるように蹲った。
祖母が必死に勇気付けようとする姿に、マリルは若干据わった目付きとなり、ガラス張りの壁に近づいていく。そして念を込めた右手を思い切り振りかざした。
その瞬間、結界の外側で激しい放電現象が発生した。詰め寄っていた多数の天使を呑み込み、一瞬にして炭化させてしまう。
その光景に、子供どころか大人――一緒にバリケードを作った警察官や狛犬まで絶句させてしまうが、マリルは硬直した空気を柏手一つ打って強引に引き戻した。
「さあ! ボサッとしている場合ではありませんよ! 今、署内には二級の戦闘員が一人いますので、事態の解決は彼に任せれば十分でしょう! 私は結界の維持でこの場を動けませんので、狛犬と刑事さん方、協力して署内の生き残りをここに集めてください! 時間との勝負です!! さあ、ハリー、ハリー!」
溌剌としたマリルの声に押し出されるように、狛犬と警察官でいくつかのチームが作られ、バリケードの一部が解放されて署内へ繰り出していった。
見送ったマリルは、表面上は堂々とした態度を保ちつつ、次の手を考えて頭を捻る。
(むう。ゼノビアが居てくれれば、結界を遠隔で維持したままに出来たんですが……彼女が異常に気付いても、弥恵さんから離れるわけにはいかない以上は助けに来ません。……やはり、西城くんに丸投げするしかありませんか……)
マリルは再度、結界の構造を確認しながら市民を励まして回り、その場を動けない歯がゆい気持ちを押し込むのだった。
そんな彼女の背中を見つめて、祖母の腕の中で少女が小さく、本当に小さく呟いた。
「……フヒヒ、誰かをま、守らないといけない立場ってのはつ、辛いね……フヒヒヒヒヒッ」
地下二階の廊下にひしめく同じ顔した天使の群れを、忍は片っ端から大雑把に殴り倒していく。
「ああ、クソッタレ!! 魔晶を拾ってる余裕がねえ!! どぅわーおっ!!」
敵を殴るついでに空間の矯正も同時に行い、浄化しながら進んでいく。だが異界の規模が大き過ぎるせいで、直したそばから侵食される。数分もすれば、倒した天使より多い数の敵が湧いて出てくるだろう。
しかし浄化領域が増えれば増えただけ再侵食のペースが落ちていくのでやらないわけにもいかないのだった。
「チィ! おい、あんたら!!」
忍は、道中で助け出した隠れ潜んでいた職員に、再び通路が異界化する前に上階へ逃げるよう指示を飛ばす。
こういった異界化した建物で取り残された人が多い場合、入り口付近に
(山吹さんなら結界術も使えるし、手際もいいから今頃もう準備万端で籠城してるだろうさ!)
本当は自分も上階へ行こうか迷ったのだが、地下にも逃げ遅れた一般署員がいるかも知れず、元を絶たない限りいずれはジリ貧となってしまう。
ならば、と忍の腹は決まった。とにかく急いで元凶を討つ、それが自分の役割だ。
「どっせーい!」
大きく振りかぶり、倒れ込むような勢いで床をぶん殴る。タイルをちょっぴり割りはしたが、衝撃力の大半が空間中に伝播する。ガラスが割れるような甲高い音が響き渡った。
「これでこのフロアはもう大丈夫……とは思いたいがな」
敵の気配も、生存者の気配も無くなった地下二階から、地下三階へと下る。
途端に空気が粘ついまとわりつく不快感に襲われた。
壁や天井に血管のような筋が無数に浮かび、ドアが床に設置されたり窓枠ごと空中に浮かんでいたり、挙げ句の果てに謎の肉塊が建材と融合していたりと、理解し難い情景が広がっている。
そして、常人なら正気を失くしかねない狂気の世界の只中で、彼女は忍を待ち構えていた。
膝上でカットされたノースリーブのエプロンドレスに、白いレースのヘッドドレス姿は、俗にメイド服と称される類の
衣装を着た本人は、線が細く陰影の薄い顔立ちながら背が高い、日本刀を彷彿とさせる物騒な魅力を醸した日系人だ。涼やかな美貌の持ち主だが、顔面の左上側四分の一が丸ごとくり抜かれ、複雑に絡んだ機械部品が剥き出しとなっていた。
機械部分の中心には、眼球にも見える赤い結晶体が不気味に脈動していた。
「おおお待ちしておりました、女神エデン様まま」
恭しくスカートの裾を持ち上げてお辞儀をする女だが、喋っていても表情は微塵も動いていない。歩だって喋れば口が動くというのに、この女にはそれすらない。ノイズの混じった機械的な声が、左上部分から発せられているのだ。
「『楽園の女神』、エリュシオンと申します。以後ごごごごお見知り置きヲ」
「お、おう……」
「おやや? ザナドゥによればばば、貴方様は接敵したら交渉の余地なく殴ってくるとととのことでしたガ」
「いや……なんだ。あんた、大丈夫なのか?」
思わず、そう聞き返さずにはいられない忍だった。
シャンバラも流暢とは呼べない話し方をしていたが、目の前の女はそういう次元ではない。音声データが上手く読み込めていないようだ。おまけに、喋るたびに金属金具が擦れる雑音まで発せられている。
エリュシオンは忍に向けて小さく小首を傾げるが、可愛らしい仕草故に一層不気味だ。
「ごごご心配なく、エデン様。戦闘行動についてはははは何も問題ありませンンンン」
「そ、そうか……ん? 戦闘!?」
「はい。当方は、貴方様方が呼ぶところの『異界化現象』の発生及びびびび、維持を目的としております同士ティルナノーグより、この場所の防衛を任されておりままままス」
「防衛」
「当方が健在なななな限り、これより下のフロアにはななな何人たりとも降りられません。そして」
体を開いて自然体となったエリュシオンが、両手の五指を開いて力を込める。戸惑い気味だった忍も、それを受けて臨戦態勢に入った。
「エデン様とににに人間との融合体、検体として採取しままままス」
「検体っておま――」
「
エリュシオンが床を蹴り、忍目掛けて飛び掛かってきた。
「んなろ!」
忍は突っこんで来る相手に自分からインサイドへ踏み込み、顔面への頭突きを狙う。
だが、激突寸前でエリュシオンは体を大きくのけ反らせる。頭突きを回避したばかりか、エリュシオンはさらに忍の大き過ぎる胸を掌底で押し出すようにして後方へ投げ飛ばしてみせた。
「なっ!?」
空中で身を翻し、天井に足をついて踏ん張った忍の顔に、エリュシオンが追撃の右ストレートを繰り出してきた。
ギリギリ右腕を盾にした忍だったが、受け止めきれずに天井を破り、上階まで突き飛ばされてしまった。
「うおおっ!?」
エリュシオンも天井を破壊し、さらなる追撃を仕掛けてきた。
「だぁーっ!!」
背中をこちらに見せるほど体を捻り、エリュシオンが空中から拳を振り下ろした。
風圧だけで周囲の壁に亀裂を起こし、受け止めた忍の足元が大きく陥没する。その鉄球でも落ちたような衝撃力に、忍も顔をしかめた。
エリュシオンは忍に反撃を許さず、幼子が父親の胸をポカポカ叩くようにして、何度も何度も拳を振り下ろした。
廊下全体が――否、建物そのものが大きく震え、耐えきれなくなった床が崩落して再び忍は地下三階へ叩き落された。
下階に落ちた忍へ、エリュシオンが大きく口を開け放つ。
「フォトンブラスター!」
「うおっ!?」
エリュシオンの口から放たれた熱線が、忍の足元を穿つ。
忍は発射寸前でギリギリ飛び退き、危ういタイミングでカイヒニ成功したが……鉄筋コンクリートを主体とした建材を瞬時に蒸発させた威力を見るに、直撃を受ければ命が無かっただろう。
エリュシオンも壊した穴から階下へ降り立つと、またも優雅にお辞儀をした。
「人間の身体スペックをおおおお大きく逸脱した頑強さと反射神経でございままます。それが『人を超えた人』、即ち『超人』と呼ばれる者の
「はっ! 超人だぁ? んなもん、他が勝手に言ってるだけだぜ。俺らはちょっと普通じゃねーだけのに・ん・げ・ん。おっけーかな、紛いモンのカミサマ?」
「そそそのちょっとした差異が大きな隔たりとなっている、とお伺がががいしましたが」
「……どこ情報だよ、それ?」
聞き返した忍に、エリュシオンが小さく首を傾げる。固定された表情が、微かに嗤ったように思えた。
その仕草が異様に癇に触った忍は、会話を切り上げて拳を握るやエリュシオンに飛び掛かる――フリをして、床を踏み砕いてそのまま下の階へ落ちていった。
「おやや?」
取り残されたエリュシオンがトコトコと忍が降りた穴へ近づく。だが忍はすでに階下の床も破壊しており、地下五階まで降り立っていた。
「うむむ、フォトンブラスター!」
そこに向けてエリュシオンが口からの熱線を連射。その威力はやはり凄まじく、忍が怖そうとしていた地下五階まで易々と貫通してみせた。
お陰で、忍は最下層である地下六階まで労せず辿り着いたのだった。
「さーんきゅーっ!」
届いてきた、忍からの皮肉たっぷりなお礼の言葉に、エリュシオンはまたもや小首を傾げると、
「ふぁっく」
そう吐き捨てて、スカートの裾を押えながら自分も穴に飛び込んだ。
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