第32話 疵痕

 追いかけて行った先で、幼い忍は酒の空き瓶に囲まれて鼾掻いていた女性に跨り、往復ビンタで気付けしていた。


『おい、こら。起きろ母ちゃん』

「あれ、母ちゃんか。あ〜、確かにそっくりだな」

「そっくりって言うか……老けててやつれてるだけで、顔とかスタイルとかそのまんまじゃない!? マジでクローンなんじゃないの……」

『う、ああ……っ、あぁ!?』


 目を覚ました母ちゃんは、何がなんだか分からないといった様子で目を瞬かせていたが、忍の顔に目の焦点が合ってくると悲鳴を上げて忍を突き飛ばした。

 痩せ細った体が、対面の壁に背中から激突する。

 あり得ないものでも見てしまったような、恐怖に引きつった母ちゃんの表情に、傍から観ていたゼノビアも驚かされた。


『な、なんでお前が外に出てる!』

『出てきたんだよ。それより腹減った――』


 母ちゃんは壁にもたれてケロッとしている忍を捨て置いて、千鳥足で倒れ込むように隣室へ走って行った。


『あああああああああぁぁぁぁぁぁーっ!!』


 そしてすぐ、聞いてる方が卒倒しそうな、身の毛もよだつ慟哭が聞こえるのだった。

 おおよそ人間のものとは思えない嗚咽の声が響く中、忍がうんざりした顔で立ち上がり、母ちゃんを追う。ゼノビアたちもそれに続いた。


『あああぁぁっ!! なんで!? なんでこんなぁぁぁっ!!』


 亡骸を抱えて咽び泣く母ちゃんは、やって来た忍に向かってケダモノのように吠えた。


『なんでだ!? いつもいつもいつもお前は私の大事なものを壊すんだ!? お前さえ生まれなければ今でもあの人のそばにいられたのに!! もうこの人だけが、私のすべてだったのに!! どうしてお前はぁぁぁぁっ!!』

『うるせえなぁ……』


 自分をなじり続ける母親に向けた忍の視線は、恐ろしく冷たい。底が見えない深海のクレバスのような、一切の光が差さない瞳に、弥恵も見覚えがあった。

 あれはそう、忍が弥恵の家に引き取られてしばらく経った頃だ。切っ掛けは忘れたが、弥恵の母が忍を激しく罵った。その時の忍も、あんな眼をして――。


「ぜ、ゼノビアちゃん……」

「止めるのは無理だぞ。これはもうだ」

「分かってる……けどっ」


 それきり黙り込んでしまった弥恵だが、視線はしっかりと忍に向け続けていた。


(強がりも大概だな、この人)


 事は簡単に済んだ。

 忍は自分を罵倒し続ける母親の首に両手を添えると、さして力を込めた様子もなく一回転させた。

 罵る言葉がスイッチを切ったように止まり、母ちゃんは女と重なるように倒れ、動かなくなった。


『静かになった、けど……どうすっかなぁ』


 その場で立ち尽くしていた忍の姿は、やがて闇の中に溶けるように、二つの亡骸もろとも消えていった。

 同時に部屋の空気が変わり、ゼノビアは右手に銃、左手に刀を持ち出して精神を研ぎ澄ませる。


『こ、これは彼の中で一等強い罪のき、記憶だよ。もっとも、すっかりお、折り合いつけて普段は思い出しもし、しないみたいだけど』


 部屋中を反響したのは、女神シャンバラのものだった。


『ど、どうだったかな、穂村弥恵さん? き、君にとっては相当ショッキングだったんじゃない? ふ、フヒヒヒッ』

「っ!? 私の名前……!」

「か、彼の記憶を観てればいくらでもで、出てくるよ。愛されてるね……フヒヒ」


 檻の奥――壊れた変電機の影から、猫背で陰気な乱れ髪の女神がぬっと沸いて出てきた。痩せ細った体躯は、先程の幼い忍とどこか重なって見えた。

 暗闇で光る金色の瞳と、釣り上がった三日月のような口許で、シャンバラはケタケタ嗤うのだった。


「気付いているか知らないけど、こ、ここは彼の精神領域だ。ふ、深く眠った心の中に、君たちは入り込んでいる……」

「なら、やっぱり今のは西城さんの記憶……なのか」

「フヒッ……髄分と不幸な境遇だよね、彼も。う、生まれてすぐ母親と一緒に父親に捨てられて、その母親も新しい恋人との生活を優先して彼を見捨てた。い、生き延びるには殺すしかないところまで追い詰められ、なおかつが出来る力まであ、あった」


 シャンバラは周囲に光のコンソールを出現させ、それを高速で弾いた。

 途端に檻の中に過去を再現した幼い忍と、女の姿が蘇った。

 床に拘束された忍に、女は手足の末端から杭を打ち込んでいく。そのたびに忍の全身が跳ね上がるも、音声を切っているのか悲鳴が聞こえることはない。

 思わず目を背けたくなったゼノビアだが、表面的には平静を装ってシャンバラと対峙し続けた。


「この頃はこ、こんな記憶ばかりだよ。それを思い出させてこ、心を折ってやるつもりだったけど……フヒッ、タフだよねぇ」

「悪趣味だな。何だってこんなことを?」


 背後の沈黙が怖い弥恵に代わって問い質したゼノビアだが、彼女とて内心穏やかではない。凄惨な光景にも、それを見せつける女神にも、腸が煮える思いだ。

 しかし文字通り民間人の命を背負っている今、得たいの知れない相手に弱みを見せるわけにはいかない。年若くともプロとして、ゼノビアは毅然とシャンバラと対峙する。

 もっとも内心の怒りに呼応して、全身を包んでいた光が炎のようなオレンジ色に染まりつつあるのだが。


「フヒッ、い、い、言っただろう? 女神エデン様の素体にするって。それには人間の意識がじ、じ、邪魔なんだ。だから嫌な記憶を引っ張り出してお、追い詰めてるんだ、けど」

「ちょっと待て! じゃあ、西城さんは今!?」

「悪夢を観続けてるだ、だけさ。ちょっと寝起きが悪い、程度だけど……き、君に拒絶されでもしたら、き、きっと穏やかじゃいられないだろうね……穂村弥恵?」


 目を細めたシャンバラが、視線をゼノビアから弥恵へずらした。

 体感温度が急激に下がったような悪寒にゼノビアが全身の光を強めたが、シャンバラのニヤけ面は揺るがない。


「無駄さ。……穂村弥恵、随分強がっているようだけど、き、君の心の乱れは手に取るように分かる……」

「っっっ!!」


 ゼノビアの肩に回された弥恵の腕に力が籠もる。


「彼が人を殺めるのを見たのは……は、初めてだろう? 知識では知っていても、見ると聞くとじゃ大違いのハズ、だ」

「そ、それがどうしたっていうのよ……!!」

「だから強がりはよ、よせよ。君が彼にき、恐怖心を抱いているのは……変えようのない事実、だろう?」


 今度こそ、弥恵は言葉を失った。

 ゼノビアはシャンバラを黙らせようと小刀を投げつけるも刺さらず、畳み掛けるようにシャンバラのせせら笑う声が響いた。


「ぼ、暴力への恐怖は本能的なも、ものだ。理性では自分に向かないと理解出来ても、本当にこの先もか、彼といられるかな?」

「……って」

「ましてやき、君と彼は血の繋がった実の兄妹だろう? 確かに彼は強いね、他者の存在などし、歯牙にもかけない。でも君は身も心もだ、他人から理解を得られない苦しみは――」

「黙ってっ!!」


 悲鳴に近い弥恵の絶叫が木霊する。

 体の震えと冷や汗が、ゼノビアの背中にもじっとりと伝わってくる。

 酸欠に喘ぎながら深い呼吸を繰り返し、目尻を濡らしながらも、弥恵は歯を食いしばってシャンバラへ睨み返した。


「何があっても私は――私だけはあの人を見捨てないって決めたのよ!! それが強がりだって言うなら言えばいいわ!! 私は……私はあの人を――」

『もう止めてよぉぉーっ!!』


 絞り出すような弥恵の言葉を遮ったのは、他でもない、弥恵自身の声だった。

 今よりもずっと幼いものだが、背後から聞こえた悲鳴に近い叫び声は、皮肉にもたった今彼女が発したものと綺麗に重なった。


『止めて! もう止めてよ!! お母さんが死んじゃうよぉーっ!!』


 止められない涙で顔中が汚れた弥恵が振り返った先には、彼女の心に今も残った疵痕トラウマがあった。


 忍が弥恵の家に引き取られて、しばらく経った頃だ。

 何が原因だったのかは知らないが、弥恵の母親が忍を激しく罵り、逆上した忍に襲われた。

 母の悲鳴に驚き、弥恵や使用人たちが駆け付けた時には、母は顔の半分を血で染めて、必死で逃げようとするのを忍に髪を掴まれ引き止められていた。

 体の大きな使用人の男たちが忍を取り抑えようと群がるが、腕の一振り、蹴りの一発で大の男が宙を舞う。

 倒れて重なった男たちは、苦しげに呻くだけで立ち上がることも出来ないようだ。

 それを無表情に見下ろしていた忍は、やがて顔に亀裂が走ったような凄烈な笑みを満面に浮かべた。


『何だよ。簡単じゃねえか、おい! 気に入らねえならよぉ、ぶっ潰しゃよかったのかよ!! あは、ハハハハハハッ!!』


 喉を潰しそうなほどに高笑いし、まるで自分で自分を痛めつけるように壁や床に当たり散らす忍を、もう誰も止めようとはしない。爆心地から離れようと散り散りに逃げていくだけだった。

 恐怖のあまり腰が抜け、立つこともままならない弥恵を残して。


『あっ、か……っ!?』


 後退りしようにも手も足も言うことを聞かない。舌がひりつき、息の吸い方が分からなくなる。

 目の前の忍には人間らしい知性が望めず、壁を殴り壊した反動で自らの手を血に染めていた。歩くたびに床を軋ませる暴力の権化はもう、手を伸ばせば届く距離に迫っている。


『ん?』


 忍がふと視線を足元に落とす。彼を見上げていた弥恵は、その虚ろな眼と視線を合わせてしまった。

 大きくて丸い瞳はそのまま底の見えない穴のようで、自ら負った傷で血化粧を纏った姿は、地獄の鬼か悪魔そのものだ。

 圧倒的な恐怖と生命の危機、そしてそれから逃げ切れないことを悟った幼い弥恵の精神は、容易く限界を突破した。


『うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!』


 堰を切った滂沱の涙と腹の底からの大絶叫は、処理しきれなくなった感情の爆発だ。逃げるでもすがるでもなく、弥恵はただただ大声で泣き喚いた。

 忍は冷たい無表情のまま弥恵を見下ろし、やがて――、



「うわあああああああああああああッッッ!!」


 その幻を打ち破ったのもまた、現実の弥恵の絶叫だった。


「違う違う違う!! これはもう、終わったの!! 私はもう……違うっ!!」

「や、弥恵さん……!?」


 頭を掻きむしる弥恵、耳元で喚き散らされて面食らうゼノビアを嘲笑うように、シャンバラの声が再び二人に囁いてくる。


『お、終わった? 本当に? フヒヒヒ、嘘はいけないよ。君の心には彼への恐怖がいつだって燻ってい、いるだろ?』

「勝手なこと言わないで!!」

『嘘か真か、一番分かってるのは君自身じゃな、ないかな?』

「チィッ!!」


 舌打ちしたゼノビアが、刀を逆手に持って地面に突き立てた。その瞬間、ゼノビアを中心に空気が連続して爆発を起こす。

 爆風は二人を避けながら周囲一帯を埋め尽くす。だが、シャンバラの声はなおも弥恵たちの頭に直接届く。


『試してあ、あげるよ、穂村弥恵……君の強がりを、さ』


 爆発に紛れ、コンソールを叩く音が微かに聞こえた。


「っ!!」


 刹那、ゼノビアの足先から脳天までを氷柱でぶっ刺されたような悪寒が疾走した。

 無我夢中で両手の武器を一番得意とする日本刀へ切り替え、一直線に突っ込んでくる凄まじい殺気へ向かって振り下ろした。

 その刃を両掌で挟み受け止めたのは、全身がコールタール状の粘つく物体で構成された人型の怪物だ。

 黒一色の体だが、輪郭や目鼻立ちはハッキリしている。見覚えのあるその顔に、ゼノビアと弥恵が揃って声を上げた。


「忍!?」

「西城さん!?」


 紛れもなく、それは本来の――男性の姿の忍である。

 忍の形をした闇色の物体は、赤黒く光る両眼をカッと見開くと、口許を歪めた。

 その表情はまさに、たった今見せられた少年時代の狂気と全く同じものだった。

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