第31話 深層迷宮
一寸先も見えない真っ赤な光の回廊を、果てもなく落ちていく。
だが例え目が眩んでいようと、重力を感じることが出来るなら空中で体勢を整えるなどゼノビアには造作のない事だった。人一人抱えていようと同様だ。
「う〜ん……」
一方、やけに大人しい弥恵はというと、激しい光で目が眩むどころか気を失っていた。
(……この方が持ち運び楽だし、このままでいいか)
やがて、ゼノビアの両足が硬い床らしき感触を踏みしめる。かなりの勢いがついていたが、慣性制御で弥恵への衝撃は大部分緩和できた。
着地と同時にそれまで周囲を満たしていた光も消失し、視界が一気に暗くなる。
闇に目が慣れるまでの間、ゼノビアは何が来てもいいよう弥恵を背中に負い直し、鎖でしっかり固定しておいた。これで両腕がフリーになった。
身構えること十数秒、徐々に浮き出てきた周囲の景観は意外なものだった。どう見ても日本の賃貸マンションのリビングルームで、最初は忍の部屋に戻ったものだと考えた。しかしよくよく観察すると、忍の部屋よりかなり手狭で、せいぜいが1LDKの一室だ。
服やらゴミの袋やら酒の空き瓶やらが散乱し、悪い意味での生活感が溢れている。閉じたカーテンから僅かに射し込む月明かりが唯一の光源だ。
試しに落ちていた缶ビールの空き缶を踏んでみたが、缶はゼノビアの足をすり抜けて干渉することは出来なかった。
「これも
意外にも壁や窓はする抜けることが出来ず、かといって破壊することも出来なかった。あの透明な壁と同様、空間の隔たりのような物理を超越した硬度を感じる。
『く、ふふ……ふふ、……わ』
その時だ。引きつった女の笑い声が微かに聞こえた。
振り向いた先に半開きの扉があった。そちらへ近付いた途端、ゼノビアの鼻を焦げ付いた刺激臭が突いた。思わず咳き込んでしまったが、それよりも幻なのに異臭を感じたことに苛立つのだった。
「うぉぇ……」
背中では弥恵も同じくむせており、ショックで目を覚ましたようだ。強烈な悪臭に何度も咳き込み、涙と鼻水で顔がグズグズだ。
「げえっ、うぇぇ……だ、誰よ生ゴミ何日も放置してたの……あら?」
「おはよう。使う?」
ゼノビアはガスマスクを二着作って、片方を弥恵に手渡した。通気性は抜群なのに、腐敗臭を完全にシャットアウトする優れものだ。
「ゼノビアちゃん、何でも出せるのね!」
「複雑な機械は無理だがな」
「さっきスマホ出してなかった?」
「あれはただのカメラだよ。それより――」
ゼノビアは、弥恵に部屋の奥に何があっても騒がないよう厳重に言い含めて、改めて扉を押し開けた。
『いいわ、すごくいい! もちょっと表情を見せて。顔を上げて……ああん、もう! そうじゃないわ、もう!』
室内は蝋燭のようなか細い灯りが天井の四隅から照らす寝室だった。
恍惚と笑う女は、部屋の半分を占める鋼鉄製の檻の前で陣取り、ゴツいカメラを片手に黄色い声を上げている。
その時点で大分嫌な予感がしたゼノビアだが、意を決して室内へ踏み入った。
「……!?」
弥恵が息を呑む音を背中に感じる。
ゼノビアも同じく、目の前で起きる出来事に言葉を失っていた。
『反応が鈍いわねぇ。じゃ、電圧アーップ♥』
『ガッ! グァッ!! ガァァッ!!』
ゼノビアたちと触れ合うことのない女は、童女のような声を上げて手元のリモコンを操作する。
そのたびに、檻の中で蹲っていた小さな体がビクンと跳ねる。
それは首輪を嵌められ、服も着せられず鎖で繋がれた子供だった。
焦げ付くような臭いから、ゼノビアがまさかと檻の奥へ目を向けると、鎖と繋がる先に巨大な変電機が接続されていた。
腐敗した排泄物と食べ残しが散乱した床に倒れ伏したまま、高圧電流に晒されて小刻みに身を震わせている。
『ひひひ、しーちゃん起きた? お返事しないと、ビリビリもっと強くしちゃうよ♪』
『……死ねよ、クソババア』
『ほんっとそ〜ゆ〜言葉、どこで覚えて来んのかにゃ? 可愛くない子にはお仕置き〜♪』
女がリモコンを操作し、変電機の音が大きくなった。子供の体から沸き立つ焦げ臭さが強くなり、丘に上げた魚のように痙攣する。
「ぜ、セノビアちゃん……」
「まあ、電撃攻めだろうな。虐待通り越して拷問だな」
努めて軽く言い放つが、内心の苛立ちから声が上擦っていた。弥恵もわなわなと肩が震えていたが、その理由はゼノビアとは異なっていた。
「そうじゃないの! ……この子、忍よ!!」
「え!?」
「だから! この男の子、忍なの!!」
弥恵は血の気の失せた表情で、顔中に脂汗を浮かべて檻の中の子供を見つめていた。
「落ち着け! 確かなのか!?」
「間違いないわ! 昔、私の家に引き取られたぐらいの頃、そのまんまの見た目してるもの!」
「ということは……ここは西城さんの過去?」
幼い忍――ちょうど退行している年齢の頃に住んでいたのがここだというなら、帰りたくないというのも納得だ。
ロクでもない家だったのだろうとは予想していたが、目の当たりにしたこれは想像以上に酷い。
などと考えている間に、弥恵が鎖を外そうと身をよじっている。
「お、落ち着け、弥恵さん! これ記録映像! 記録映像だから!!」
「分かってる! でも――!!」
近付いたところで、女にも檻にも子供の忍にも触れることが出来ない。しかも、一見すると平凡なマンションでも紛れもなくここは異界なのだ。女神に限らず、いつ怪物が沸いて出るか分からないのだ。
「だから、弥恵さんは私の背中にいてくれ。代わりに、私が弥恵さんの言う通りに動こう」
「え、ええ。それじゃあ、忍の顔がもっと良く見たい」
ゼノビアは「分かった」と頷き、相互不干渉なのを良いことにズケズケと檻をすり抜けて中へと押し入った。電流でビクンビクンしている子供の顔が見えるよう姿勢を低くする。
正直、悪臭を放つ床に屈むのにはかなりの勇気が必要だったが、幻だからと自分に言い聞かせ、さりげなくマスクの効果を強化して耐える。
「……ゼノビアちゃん」
「やっぱり西城さんなのか?」
「床が臭くて吐きそう……」
「おい」
「あと火葬場みたいな臭いがする……ごめん、もう限界……」
「まあ、人の焼ける臭いってキツいからな……」
生理的嫌悪感というのは、時に極限状態での判断力にも勝る。戦場で敵軍に汚物をブチ撒ける作戦が意外と効果覿面なように、人間どんなときでも嫌なものは嫌なのだ。
檻から一旦離れ、弥恵にポリ袋を作って渡し、背中でえずく声を聞きながらゲンナリしていると、
『あ、あれ?』
女が不穏に呟き、リモコンのスイッチをカチカチ連打し始めた。
『あれ、電圧下がらない? あれ? リモコン壊れた!?』
『グッ、アァァァァァァッ!!』
「オロロロロ……あ〜、スッキリした。……ん?」
胃液でいっぱいになったポリ袋をその辺に放り捨てた弥恵も異変に気付く。
変電機と子供、双方が激しくスパークし、薄暗かった部屋がにわかに明るくなっている。
『こ、これヤバいやつじゃん! しーちゃん、死んじゃダメーッ!!』
女はポケットから鍵を取り出し、檻を開けて中へ飛び込んだ。スパークしている変電機のスイッチを、素手で緊急停止させた。
『アチッ!』
ちょっぴり感電したらしい女が小さく悲鳴を上げるが、これといったダメージもなく子供を抱き起こした。
『し、しーちゃんしっかり! まだ壊れちゃダメだよ!! ボクはもっと君で遊びたいんだ!』
「おい、滅茶苦茶言ってるぞ、あの女」
「ゼノビアちゃん、タイムマシンとか出せない? 過去行ってこの女斬り殺して来てよ」
「出せるか、そんなも――」
『ひぐっ』
その時だ。女から息が詰ったような声が上がり、ゼノビアたちもぎょっとして檻へ振り返った。
『……よぉやっと近付いたな、おい』
子供とは思えない、地鳴りのようなドスの効いた声は、かなり若いが間違いなく忍のものだった。
『い、ぎ……し、しーちゃ――』
女の首には、忍の首輪と繋がった鎖が一巻きされていた。真っ白になった顔が青から赤に変わり、口の端から泡を吐きながら血走った眼球が飛び出しそうなほど見開かれる。
首に食い込んだ鎖は容赦なく女の気道を絞めるが、忍の狙いは窒息などという生易しいものではない。
『クソババアが』
短く吐き捨てた忍は、鎖に最後の力を加えた。
――ゴキリ
「ひっ……」
さすがの弥恵も、言葉が出なかった。
首の骨をへし折られた女は、頚椎を90度以上傾いた状態で床に沈んだ。それでも少しの間手足を痙攣させていたが、やがて完全に動かなくなった。
『……手間取らせやがって』
忍は殺した女の服を弄り、持っていた大量の鍵の一本一本を首輪の鍵穴に突っ込んでいった。
「し、忍……」
「弥恵さん……」
口許を抑え、色を失った弥恵に、ゼノビアも声を掛けあぐねていた。
(それはそうだろうな。子供のときとはいえ……いや、子供のときにはもう、恋人が人を殺めていたんだ。ショックだろうな……)
聞けば弥恵は、狛犬関係の裏社会事情には関わっていないらしい。暴力沙汰が日常茶飯事なゼノビアと違い、おそらく人が死ぬのを初めてなのだろう。
「弥恵さん、今のは……」
「戦場以外では人殺してないっていうのは嘘だったのね……」
「え?」
が、弥恵はやっぱり常人とは一線を画してタフらしい。
「あの人、根本的に暴力を振るうのが好きなタチなんだけどね。それでも『仕事や戦地以外じゃ殺しはしねえよ』って言うから信じてたのに。まあ、どう見ても狛犬になる前だし、ノーカンにしておきますか」
「……そんなんとよく一緒にいられるな」
「だって、私には暴力振るわないし。それに結構可愛いところもあるのよ?」
「器でかいなー」
戦闘能力が無いだけで、弥恵の精神面は完全にこちら側らしい。ゼノビアとも妙に気が合うだけあった。
「なんてやってたら忍がいないわ!」
「いつの間に!! どっちだ!?」
「えっと……隣の部屋よ! さっきのリビングじゃなくて、逆の方行ったわ!」
「よく分かるな」
「ドブみたいな臭いしてるでしょ、今のあの人」
納得の事情であった。
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