第21話 アクセラレーション
愛南と弥恵から忍の肉体が変質したこと、ちょっとした事故で幼児退行してることを聞かされた泰輔は、
「あ。僕、そういうの専門外なんで」
とだけ言い残し、逃げるように帰っていった。
その前に荷物だけでも運び込もうとしてくれたが、あの重いトランクもゼノビアにとってはものの数ではなく、目の前でひょいと担がれた泰輔は立つ瀬が無くなってしまうのだった。
「おもれー兄ちゃんだな~」
「あなたのお兄さんよ?」
「そっか~。そーいや『たいすけ』ってアニキがいるって母ちゃんも言ってたっけ。まーいーや、あはは~」
忍の笑顔は天真爛漫というより、何も考えていない類いのものだ。大雑把な性格はこの頃から変わっていないらしく、それがおかしくなった弥恵も釣られてニマニマ笑ってしまう。
その一方、全く笑ってられない少女もいた。
「楽しそうっすね~、二人とも」
忍と弥恵を一歩外側から眺めるゼノビアは、表情に暗い影を落とし、サファイアのような蒼い瞳をどんより濁らせていた。
うらぶれた気分を象徴するように目の下には濃いくまが浮かび、普段なら絶対に飲まないブラックコーヒーをがぶ飲みしている。
舌が痺れるほど苦いはずが、異様に甘いと錯覚してしまう。
(西城さん、彼女いたなんてぇ……)
短い恋が儚く散って、ゼノビアの心はすっかり灰色だ。気分転換として泣きながらその辺を走り回りたいぐらいだが、消沈しすぎた心が体を動かすのを拒否している。
あまりの凹みっぷりに、愛南もなんとなく彼女の心情を察せるほどだった。
「えっと……コーヒーおかわりいる?」
「もっと濃いのお願いします……」
「これ以上濃くすると粉ごと飲むことになるけど……」
そうして差し出された、粉の溶けきっていない、ざりざりした食感が味わえるインスタントコーヒーをグイッと飲み干したゼノビアは、カフェインの興奮作用でも効いてきたのか元気よく席を立った。
「よし、帰る!」
快活に宣言したゼノビアに、弥恵も時刻を確認する。すでに七時を回っており、外もどっぷり暗くなっていた。
「本当ね。もうこんな時間」
「僕もラボに戻らないと。解析作業、抜け出してきたままだったよ」
朝の廃工場から続く、密度の濃い一日がようやく終わる。
弥恵が冷蔵庫の中身を思いだし、夕飯の献立を思案していると、ちょいちょいと袖を引っ張られた。
「姉ちゃん、姉ちゃん」
忍が親指と人差し指で小さく布地を摘まんでおり、どこか不安そうに弥恵を見下ろしていた。いちいち仕草が可愛らしい。
「おれも姉ちゃんと一緒に行っていい?」
「もちろんよ。忘れてるみたいだけど、あなたは私と住んでるの。だから帰る先も私と一緒よ?」
「じゃあ、もう
心の底から嬉しそうに飛び跳ねた忍の一言に、その場の空気が一瞬にして凍りついた。
「……おうち帰りたく、ないの?」
「うん」
聞き返した弥恵に、忍はまたも元気よく頷く。
「帰ってもりっちゃんにイタズラされるだけだし」
「りっちゃん?」
「母ちゃんの……恋人? なんかよく分かんねーけど、一緒に住んでてさ。おれが怪我とかすぐ治るのがおもしれーって、針とか刃物で刺すんだぜ? この前は指落とされた。ちゃんとくっついたから良かったけど」
そう言いながら、左手を電灯に翳した忍は、成長している自分の手の形に違和感があるのか、不思議そうに首を傾げていた。
「……お母さんは心配しない?」
「ん~、しないんじゃね? あいつっておれに興味ないみたい……やっぱ指長いな」
自分の手を見つめたままで答える忍の、母親に心底興味の無さそうな口振りが却って不気味だった。
「弥恵ちゃん、ゼノビアさん、ちょい集合」
愛南に手招きされた弥恵は、忍に外へ出ないよう言い聞かせつつゼノビアとフリースペースの奥へと集まる。
「弥恵ちゃん、ごめん。人の過去をあれこれ探るのは行儀悪いんだけど、しのぶくんってご家族と、その……」
「ごめんなさい。今の忍ってうちの屋敷に来る前の頃だから、私もよく知らないの。あの人、昔のことって話したがらないから……お母さんのこと、嫌ってたのは知ってたけど」
目を伏せながら、弥恵は無意識に自分の肘へ爪を立てていた。忍にあった自分の知らない過去を垣間見て、彼女の心が不穏に波立っている。
それが何も知らない自分への苛立ちか、過去に忍が受けていた仕打ちを想像しての怒りなのかは自分でも分からない。ただ、今の忍を独りにしてはいけないという強い想いが沸き上がってくる。
「すみません、私は聞かない方がいいですよね。部外者ですし……」
忍がああなっている自責の念からか、いそいそと退場しようとするゼノビアの手を、弥恵は咄嗟の勢いで掴んでいた。
「ゼノビアさん、良ければ今日は泊まっていってください!」
「へっ!?」
まさかの提案に驚いたのは、ゼノビアだけでなかった。愛南と、鏡の前でペタペタ自分の顔を触っていた忍も、何事かと弥恵へと視線を向けていた。
「あの……急にどうして?」
訳も分からず目を白黒させるゼノビアだったが、弥恵も弥恵でどうしてそんな言葉が口を突いたか分からない。
「す、すみません。でも今のあの人、何だかふらっといなくなっちゃいそうで……悔しいですけど、もし夜中に出ていっちゃったりしたら、私じゃ彼を探せませんし……」
言い繕った半分は建前だが、もう半分は現実的にありえる危険でもある。普段から自制心が薄くて好奇心が強い忍だ。まして子供同然の現状、目を離した隙に姿を消しても不思議はない。実際さっきそうなったわけだし。
そういった不安から誰かに頼りたくなったのかも知れない。その相手が年下の、可憐で見た目だけは儚げなゼノビアなのには自嘲するが。
「白い姉ちゃんも一緒? やったー!」
「えっ!?」
そこへ忍が横から勢いよく割り込み、ゼノビアを歓迎して思い切り飛び付いた。
体格差的に押し潰されても不思議はないが、そこは狛犬戦闘員。ゼノビアは後ろ足でしっかり踏ん張っていた。鼻から上が特大バストに埋まって圧迫されているものの、どうにか持ちこたえている。
「さ、西城さんっ、近いです! 近い──っ!!」
「ん~、でも白い姉ちゃん、
「はわわわわわっ!!」
ついには脇の下から持ち上げられ、ホワイトブロンドに頬擦りされた。抜けるような美白肌は耳まで真っ赤に染まり、パニックを起こした視線が宙を舞う。グルグル渦を巻いたような瞳には、もう何も映っていないだろう。
「はぁぁ~ん、いいわねぇ♥️」
そして弥恵は、じゃれ合う二人を尊いものを崇めるような恍惚とした表情で眺めていた。微かに頬を上気させ、口の端をだらしなく歪めた表情からは、爛れた欲望が際限なく溢れだしているようだ。
「ゼノビアちゃんは当然として、今の忍もとっっっっっっても可愛いわ……♪ 世話は大変そうだけど、ずっとこのままなのも悪くないかしら……きゃは♥️」
「余裕っすね~。彼氏さん、おもっくそ浮気してるけど」
愛南からのツッコミにも慌てた様子もなく、ノンノンと指を振って余裕をみせる。
「幼児のすることだし、同性ならノーカンよ」
「いや、ゼノビアさんしっかり異性として認識してっからね、しのぶくんのこと」
「それは好都合だわ。両手に華って素敵よねぇ♥️」
「……それ、華持ってるの弥恵ちゃん自身てこと?」
もはや二の句が継げない愛南であった。
その間に頭がすっかり茹で上がったゼノビアは、忍に請われるまま宿泊を受諾してしまうのであった。
「で、どうしてアユとマリルさんまでウチに来てるのよ?」
「水くさいぞ、弥恵。女子会ならまず友人に声を掛けるべきだ」
「私は女子ではありませんが、西城くんと一度膝を交えて話し合いたくてですね。幼児退行中なのは予想外でしたが」
ゼノビアが今晩は忍と弥恵の部屋に泊まる旨をマリル達に連絡をしたところ、三十分もしないうちに二人が大荷物を抱えて押し掛けてきた。
なお、さすがに愛南は職務を優先して警察署にある狛犬ラボへ戻っている。
「ちなみに
「いつの間に!?」
歩が親指で差した先には本当に花代の姿があった。リビングのソファーに忍を押し倒すようにのし掛かり、巨大な胸を両手で思い切り鷲掴みにして唇を噛んでいた。
「まさか! まさかここまでのものが存在したなんて……っ!! 信じられない、完全に負けた!」
「ふ、ふわふわの姉ちゃん……目が怖ぇよ~……」
「ふわふわ? ふわふわって髪のこと? むふふ、実はこれも自慢なんだよね~。あ、良かったらお手入れ教えようか? 君ってすごいハネッ毛だけど、ちょっといじれば……くふふふっ」
「ひぃっ!?」
退行しているとはいえ、本気で怯える忍の姿は弥恵にとっても初めてのものだ。
花代は元の忍と面識があるハズだが、全く気付いていない様子だ。性別も、今は精神年齢も違っているのでは無理もないのだが。
……もし、あのモール爆発の日──帰宅した忍の中身が今のように変わっていたとしたら、自分は忍と気付けたのだろうか。
(ふう、あほらし)
不意に沸いた想像を振り払うべく、弥恵は小さく溜め息を吐いた。
「ところで弥恵? あの
「え、ええ。そうなんだけど……」
「ふーむ……雰囲気違うな」
忍を見つめた歩は、相変わらずの無表情で腕組みして首を傾げる。彼女の顔色を読むのは弥恵でさえ難しい。
「その、色々あってね」
「色々?」
「うん。色々」
その色々を説明しようとしたが、その矢先に今度は台所からポテトやフライドチキンなどを満載した大盤のプレートを持った風香まで現れる。
「適当だけど盛り付けたわよ」
「いや、いつからいたのよ、あなた!?」
「さっき花代と一緒にね。マリさんが鍵開けてくれたわ」
「そ、そう……ふう。急に賑やかになったわね」
再びリビングに目をやると、忍と花代がゼノビアをサンドイッチして愛玩し、マリルが持ち込んだブランデーの瓶を片手にテレビの前を占拠していた。
「だから口呑みするなと言ってるだろう」
「いいじゃないですか、どうせ一回で呑みきるのですし! グラスに注ぐだけ手間です!」
以前に立浪家へ遊びにいった時に見たのと同じやり取りを、歩とマリルで繰り広げている。そんなマリルの傍らを見てみれば、本当にいつの間に持ち込んだのか、高そうな洋酒の瓶がいくつも並んでいた。
プレートを配膳した風香が、そのうちの一本をもののついでに手に取り、躊躇なく口を捻った。そこへ歩が待ったを掛ける。
「ストップ、
「えっ!? いや、あの、お料理に使おうかなって……」
「度数40度のカルヴァドスで? フランベでもするのか?」
「何ですって、それはいけません! それは年間でも120本しか販売されない高級品なのです! もったいないからみんなで呑みましょう!」
「おい警察関係者、未成年に飲酒を勧めるな」
「ま~り~る~さぁん、このジュースおいひ~れすねぇ~♥️」
「
初っ端からこのペースで始まった女子会という名の馬鹿騒ぎは、弥恵の私物である
そして日付が変わる頃には全員揃ってダウンし、リビングに雑魚寝状態と相成ったのだった。
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