第22話 証明書は胸の内

 点きっぱなしだったテレビの音が急に耳障りになり、弥恵の意識が微睡みから無理やり引っ張りあげられた。

 灯りが点いたままのリビングで薄目を開けると、視界いっぱいにピンクの花畑が広がっていた。何かと思えば、ピンクの下着に包まれた花代のふっくらしたヒップである。


(……なんで脱いでるのよ、こいつ)


 見れば花代は上半身裸、下半身もパンツ一丁で、過剰なほど発育したグラマラスボディを無防備にさらしている。反面、だらしなく口を開けて鼾を掻く顔は年齢よりも一層幼い。

 花代の向こう側では歩が風香に抱きつかれてうなされていて、起きてるときはそうそう崩れない表情が苦し気に歪んでいた。

 もう一方の風香は実に幸せそうな、薄ら笑い顔で熟睡している。

 そこからちょっと離れた位置では、ゼノビアが静かな寝息を立てていた。

 爆睡している彼女たちにシーツでも掛けてやろうと立ち上がると、目の前がクラリと揺れた。


(ううっ、頭痛い……マリルさんが変なもの持ってくるから……)


 辺りに転がった酒瓶は半分近くが未開封だが、口の空いたものはどれも中身がほとんど残っておらず、気化して部屋中に散ってしまっていた。リビングに立ち込めた酒気に中てられ、呑んでいないのに二日酔いの症状が出ている。

 時計を確認すると、まだ午前三時過ぎである。明日も平日だが、宴の途中で登校する気力も失せている。


(水……)


 みんなを踏まないよう注意しつつ台所に向かい、蛇口から直接流水をがぶ飲みする。マンションに高性能な浄水器が設置されているため、小川の清流のような水がいつでも飲めるのである。勢い余って腹がたぷたぷしてしまった。

 その足で忍の部屋へ向かい、大きめのシーツをクローゼットから持ってきて、寝ている三人に被せた。


(……忍とマリルさんがいないわね)


 まさか外に出てることはないだろうが、念のために玄関を確認しにいく。

 その道すがら、通りがかった自分の部屋から明かりが漏れていた。覗いてみると、忍とマリルが格闘ゲームに興じている。

 どちらも相当白熱し、アーケードスティックコントローラーをガチャガチャいわせながら本人の体も釣られて動いているのが面白い。集中するあまり、弥恵に気付く様子もなかった。


「よっしゃ」


 小さく呟いた忍が、勢いよくガッツポーズした。厚手のシャツ一枚でのみ包まれた胸が盛大に弾む。

 一方、タンクトップ姿で凹凸の極めて少ないマリルの方は、苦い虫でも噛み潰したような顔で平伏して悔しがるものの、揺れる要素がどこにもないのだった。


「残念だったな、硬い姉ちゃん。十連勝目も頂きだぜ」

「な、なんの! さっきは私が十連勝してますし、戦績も互角イーブンになっただけです!」

「んじゃあ、こっからおれがもう十連勝したら文句ねえよな、おい」

「さ、させませんよ! させませんとも!」


 次の対戦が始まり、マリルは使用キャラを換えた。

 一方の忍はキャラをそのままに色だけ変更する。それは普段の忍の持ちキャラで、カラーバリエーションもこだわりの5Pカラーだった。

 一瞬、記憶が戻ったのかと期待するが、盗み見た横顔からそうではないことを悟る。しかし、根本のセンスや好みというのは変わらないらしい。


「はい、おれの勝ち」

「嘘でしょう!? 何ですか今のは! ハメは無しです、無し!」

「うるせぇ! 勝ったヤツが正しいんだよ!」

「リベンジなら違うゲームにした方がいいですよ。忍はそのゲーム、オンラインでも上位に食い込んでますから」


 二人の間に割り込むように忠告すると、忍もマリルもぎょっと眼を剥いた。


「弥恵さん!? 起こしてしまいました?」

「ごめんね、うるさかった?」


 二人が同時に謝ったのがどこか愉快で、弥恵は噴き出しながら「いいのよ」と返した。


「二人で遊んでたんですね」

「すみません、お借りしてます」

「ごめん、姉ちゃん。見てたら面白そうで」


 勝手に部屋に入ったことも含め、重ねて謝る二人だが、ゲーム機一式に関しては忍の持ち物だ。それを伝えると、忍は意外そうに声を上げる。


「おれ、こういうの触ったことないぞ?」

「今のあなたはそうかもしれなかったけど、本当のあなたはたま~にこういうの買ってくるのよ? すぐ飽きちゃうけど、そのゲームは珍しくハマってるわね」

「本当のおれ……」


 忍の表情から不意に色が抜け、弥恵の言葉を反芻する。


「おれじゃない、おれ……」

「忍?」

「今のおれは本当じゃ、ない……おれは、おれ……?」


 ブツブツと繰り返す忍に、マリルも眉を潜める。

 忍は顔色を紙のように白くし、苦痛に歪んだ顔から脂汗を滲ませる。震える手ですでに塞がっている額の傷を押さえた。


「ううっ、ぐあ!」

「忍!?」

「いけない、弥恵さん! 下がって!!」


 忍を支えようとした弥恵を遮って、マリルが忍の肩を抱き寄せた。


「落ち着いてください、西城くん! ゆっくりと、自分の名前を思い出して!」

「う、ああっ……おれ、が……あ、あの……、ま……っ」

「西城くん!?」


 ブツブツと口の中で繰り返した忍は、やがて力尽きるようにマリルの腕に倒れ込み、小さな寝息を立て始めたのだった。



 深く寝入った忍は起きる気配がなく、マリルによって彼の寝室まで運ばれた。その頃には呼吸も落ち着き、顔色も元通りだった。

 それを見て一安心した弥恵に、マリルが「少しお話し、よろしいですか?」と切り出してきた。

 それからトイレで用を足してから部屋に戻ると、マリルが一人プレイでゲームを再開していた。


「やっぱりCOM戦は味気ないですね。どうしたってパターンがあるせいで、攻略法も決まってしまいます」


 部屋に入った弥恵に振り向いたマリルは、画面を観ずに対戦相手のパターンを見極め、完封する。ガラス玉のようなグレイの瞳で弥恵を見上げたその顔は、普段の彼女とどこか違う、冷たい視線だった。

 深い海の底を映すような瞳に、弥恵の背中をゾクリと寒気を這い上がる。


「弥恵さんには、私が狛犬だとは話していましたっけ?」

「直接『そうだ』と聞いたことは……。けどマリルさん、普段から隠す気なかったでしょう? だからなんとなく、そうなんだろうな……とは」

「そりゃ隠すようなことではありませんからね。大っぴらに言うことでもないですが。ところで、一戦どうです?」


 マリルは画面を観ないまま、ノーダメージで次のステージへ進む。

 弥恵はマリルの隣──さっきは忍がいた場所に座り、アーケードコントローラーに手を伸ばす。それを了承の意思と受け取ったマリルが、柔らかく微笑んだ。


「対戦しながら色々と話してくれましたよ、彼。当時は母親の恋人と住んでいたそうですが、良くない環境だったようですね」

「そうらしい、ですね……私もチラッと聞いただけですけど」

「ほう。弥恵さんにも知らないことがあるのです──あや、すみません……」


 さっきの凄味もどこへやら、冷たく鋭い眼で睨まれたマリルは画面へ向き直り、決まりが悪そうに口ごもった。

 しばらく無言のまま対戦していた二人だが、二戦連続で秒殺されたところでマリルが再び口を開いた。


「以前に二度ほど彼と会っているのですが、今の彼とではかなり印象が変わりますね。体に違和感はあるようですが、飽くまで自分を『七歳の少年』だと思っています」

「変なところが頑固なもので……。一応、今の自分がどういう状況なのか伝えてるハズですけど、理解が追い付かないのか。まったく、混乱してるのはこっちだっての」

「考えるのが苦手な性質ですか、彼?」

「狛犬ではよくいるタイプらしいですけど。マリルさんも実は?」

「ふふっ、否定できませんね」


 弥恵からの返答に、マリルは今度こそ苦笑する。

 一方画面上では、マリルのキャラが手も足も出ずKOされていた。


「一日か二日もすれば元に戻るらしいので、そこまで深刻には考えていなかったんですけど……。さっきのは、さすがに驚きました。あんな風に取り乱すの、見たことなかったから」

「心因性のショック症状ですね、おそらく。朝になっても目を冷まさないようなら八雲医師に往診してもらいましょう」

「そう、ですね……」


 弥恵は沈んだ声で答えながら、画面ではマリルからの攻撃を的確にJGジャストガードしていく。溜まったゲージを解放し、カウンターからの逆襲を開始。みるみるマリルの体力が削れていく。


「付き合いは長いんですよね?」

「はい。もう丸九年でしょうか。出会った頃の私なんて、まだ物心ついたばかりでしたよ」

「異母兄妹、とも伺いましたが」

「アユからですか?」


 弥恵の語気が急速に冷え込み、空気にヒビが入ったような衝撃が走る。

 マリルは空中コンボから抜け出そうとレバーをガチャガチャさせて暴れるも、奮闘むなしく四連敗となった。

 しかし次の対戦は始まらず、マリルは自分を見上げた弥恵からの冷たい視線を、真顔で受け止めていた。


「その話、知ってる人はそんなにいません。アユから聞いたんですか?」

「……ええ。他にも、西城くんについては色々と捜査しています」

「忍を?」

「はい。正直に言ってしまいますと、私は彼が本当に『西城忍』本人なのか疑っています」

「っ!? それ、は……っ」


 いつの間にか、キャラもステージも変えずに次の対戦が始まっていた。互いに初期配置のまま、時間だけが経過していく。


「それはどういう……ことですか?」

「そのままの意味です。彼は『西城忍』に限りなくよく似た別物なのではないか。外見だけ真似た偽物ではないか。そういった疑いを否定する、客観的な証拠がどこにもないんです。あるのは、あなたのような身近な人物の主観だけですから」


 マリルは敢えて、愛南から提供されたDNA鑑定の結果については伏せることにした。今確かめたいのは、忍の最も身近な存在である弥恵からの、忌憚のない意見だ。


「すみません、本当はもう少し上手い聞き出し方がしたかった。けど、個人的にはあなたや、西城くんを信用したい。特にあなたはアユの友人ですし、知らない仲でもありませんから」


 コントローラーから離れ、マリルは神妙な顔つきで弥恵に向き直る。

 弥恵は画面に向き直り、瞼を閉じた。今の忍と、これまでの忍を思い返す。

 やがて目を開いた弥恵の表情からは、迷いも疑念も消えていた。


「……ええ。間違いなくあの人です」


 そう答えた弥恵は、得意のニンマリ顔に確固たる自信を浮かべ、力強く頷いた。

 あの夜……変わり果てた姿で帰宅し、混乱して自分を殴って気絶した忍は、顔はそっくりでも別人──むしろ別の生き物にさえ思えた。主に胸とか。


「でも寝顔とか、しばらく見てたら『あ、これうちの人だ』って。ちなみに愛南ちゃ──さんも、ちょっと話してすぐに『しのぶくんじゃん、これ』って真顔になってました」

「確かに彼のキャラは独特ですが、それは……」

「もちろん根拠なんてありませんよ?」


 弥恵は笑顔も見せず、真顔のままマリルを見返し、手先では弱パンチ連打で動かない対戦相手をペチペチ削り殺した。


「根拠はないけど、こういうのって理屈じゃないと思いません?」

「そりゃまあ、そうでしょうけど……ふむ」


 再びコントローラーを手にしたマリルは、性懲りもなく次の対戦を始めた。さっきよりは少しだけ持たしたものの、あっさり三連敗を喫するのだった。

 キャラを変えようとカーソルをうろうろさせるマリルへ、弥恵は言葉を続ける。


「不満もないわけじゃないんです。だけど、やっぱりあの人といるのが私にとって一番大事で、そう思えるから一緒にいようって決めて。そういう相手のこと、間違えるわけないじゃないですか」

「言いたいことは分かりますが……うぅ~ん?」


 とうとうマリルはゲームを投げ出し、腕を組んで考え始める。

 なまじっか共感できてしまうせいで、弥恵の『根拠のない根拠』を納得してしまいそうだ。むしろ、否定する材料を見つけようと頭を捻るマリルだったが──、


「む!!」


 突然、その表情が鋭く引き締まり、素早く立ち上がって部屋を出ていこうとする。


「ま、マリルさん?」

「どうやら敵もボンクラではなかったようです。ふふっ、口実とはいえアユたちを連れてきたのは失敗でしたね」

「まさかっ!」


 マリルの言う『敵』という言葉に心当たりはあった。カソック姿の男や、話に聞いたカラフルな髪色の鎧の天使達──。

 弥恵が緊張から喉を鳴らすも、マリルは至って余裕に満ちた、ギリシャ彫刻を思わせる不敵な微笑みアルカイックスマイルを見せた。


「じゃ、ちょっと見てきますので。弥恵さんは先に寝ちゃっててください。でも、くれぐれも外に出ないように。いいですね?」


 人差し指を立てつつウインクを投げたマリルは、まるでちょっとコンビニにでも出るような気安さでドアの向こうへ消えていった。

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