閑話休題・二

「よいしょ──っと」


 詰め込みすぎたトランクの上に飛び乗って、弥恵はお尻を使い強引に蓋を閉じた。何とかロックも掛かったが、開けたときを考えると少し怖くなってくる。


「……欲張りすぎた、かしら」


 実家にあった私物のうち、必要なものだけを厳選したつもりだが、それでも50キロのトランクケースが飽和した。明らかに弥恵の体重よりも重い。


「!? しまった、キャスターが回らない!」


 ケース下部の車輪も、重量過多によって機能を損なってしまった。

 素直に二回に分ければ良かったかもしれないが、出来れば実家との関わりは最低限にしておきたかった。

 意を決した弥恵は、トランクケースに両手を伸ばした。


「くっ……な、何とか持てる、けど!」


 過積載されたトランクは、持ち手を持てば間違いなく破損するので、腰で支えながら全身で抱えて持ち上げるしかない。しかし体力に自身のある弥恵であったが、小柄な体には相応のパワーしかないのだ。

 忍を頼れば弥恵ごとトランクを担いでくれそうだが、彼にとって忌まわしい記憶しかないこの家に出向いてもらうのは気が引けた。

 このままでは前も見えないので徒歩で帰るのはキッパリ諦め、玄関まで下りたらタクシーを呼ぼうと決めた、その矢先。トランクの重圧が唐突に和らいだ。


「ぐおっ!? 何が入ってるんだ、これ!!」


 どうやら、反対側から誰かが支えてくれたらしい。その声にも聞き覚えがある……自分の家なのだから当然といえば当然だが。


「あれ、お兄ちゃん?」


 トランク越しで前がよく見えないが、間違いない。忍よりも長身だがもう少し細身な体格で、気品漂う顔立ちなのにどことなく情けない雰囲気の、年の離れた兄──穂村泰輔たいすけだった。

 就職して結構前に家を出たはずだが、かなり頻繁に帰省してくるので、弥恵よりもむしろ家にいる頻度が高い。


「何してんの?」

「いや、お前がこんなもの持ってフラついてるから、手伝おうかと……」

「それは嬉しいけど……仕事は?」

「僕だってたまには早く帰る──いや、それよりこいつを下に降ろそう。もう腰が……」

「そ、そうね!」


 協力しあったお陰で思ったより簡単に(それでも泰輔が階段で足を踏み外しかけたが)玄関まで辿り着け、またタクシーを呼ばずとも泰輔の車で送ってもらえることになった。

 トランクに入りきらないトランクケースを後部座席に放り込み、助手席に座った弥恵は、車が動き出すのを待って口を開いた。


「それで、私に話って何かしら?」

「……まだ何も言ってないんだけど」

「あら? じゃあ本当にたまたま早く帰って来てて、たまたま私の姿を見かねて、親切にも理由を聞かずに車まで出してくれたってこと?」

「……お前には敵わないなぁ」


 力のない笑みを浮かべた泰輔は、口の中でしばらく言葉を転がしてから弥恵に尋ねた。


「忍と一緒に暮らすんだって?」

「お母さんにでも聞いた?」

「うん。この間、電話で。それで、僕に話だけでも聞いてきてほしいって」

「そうなの」


 短く答えた弥恵は、まるで興味が無いかのように窓の外へと顔を背けた。

 ちょうど赤信号で車が止まったので、泰輔はさりげなく、妹の様子を観察する。分かったのは、つまらなそうな仏頂面でどこか遠くを眺めていることだけだ。


「馬鹿な人よね」


 車が動き出すのを見計らったように、弥恵が再び口を開いた。何の事か分からずに泰輔が答えあぐねていると、弥恵の方から話を続ける。


「お母さんよ。言いたいことがあるなら、直接言ってくれればいいのに。親子って、そういうものじゃないの?」

「……どうなんだろうな」


 窓から振り向いた弥恵と、バックミラー越しに泰輔の視線が重なった。

 しばらく静かなドライブが続いたが、やがて泰輔の態度から察して弥恵の方から切り出した。


「それで、話ってまさかこれだけじゃないでしょう?」

「ん、ん~……」

「もう。お兄ちゃんまでそういう態度? しっかりしてよね」


 弥恵はネズミを追い詰める猫のようなニンマリ笑顔を作って泰輔を見上げた。

 泰輔は、昔から弥恵のこの笑い顔が苦手だった。賢くて活発な自慢の妹だが、何を考えてるか分からず、それでいて自分の考えは簡単に見透かされてしまう気がする。

 怖いと思ったことは無いが、しょっちゅうからかわれているので相性の悪い相手には違いない。正直、一緒にいられる忍の気が知れないが、あっちもあっちで訳が分からないのが困りものだ。


「あ~っと……その、どうなんだ?」

「どうって?」

「忍と……その、付き合い始めた……と聞いたから」


 弥恵のニマニマ笑いから目を逸らした泰輔は、なるべく運転に集中しながら答えを待つ。事前に聞いていたとはいえ、直接本人の口から聞くとなるとやはり勇気がいる。

 その様に、弥恵はますます上機嫌となって笑みを深め、


「ああ、そのことね。体の関係までいったわ」


 と最大級の爆弾を投げつけた。


「はあぁっ!?」


 お陰でハンドルを盛大に切り損ねた泰輔は危うく対向車線へ飛び出しそうになり、精神が落ち着くまで路肩に緊急停車する破目となった。


「はあ、はあ、はあ、おまっ!! お前っ、えっ!?」


 バクバクと暴れ狂う心臓が落ち着くまでタップリ深呼吸を挟んだが、まだ呂律が回っていない。

 そんな兄の姿に、弥恵は車を降りてちょうど目の前にあった自販機まで一走りし、買ってきたペットボトルのお茶を差し出す。その間、彼女の顔は終始満面のニンマリ笑顔だった。

 もらったお茶を半分近くまで飲み干した泰輔は、何とか平静を取り戻すことが出来た。しかしまだ動悸が治まらず手先にも震えがあるので、運転は控えておく。


「お前……さっきのその、マジなのか?」

「やぁねぇ。こんなときに冗談言わないわ」

「むしろ冗談だった方が大分マシ……ああ、クソッ!!」


 つい力が入ってハンドルを叩きつけ、鳴り響いたクラクションに自分で驚く泰輔。苛ついたような表情に、弥恵も真顔に戻る。


「別に言っても良いのよ? 『そんな関係は認めないぞ』、『兄妹でだなんて気持ち悪い』って」

「……言ったところで聞かないだろうが」

「あら? 聞きはするわよ、一顧だにしないだけで」

「それはお前がか? それとも忍が?」

「どっちもよ」


 ハンドルに額を付けて、泰輔が放心したように息を吐く。

 弥恵はそれを眺めながら、再び楽しそうにニンマリと口許を歪めた。




 泰輔と忍、弥恵ともう一人いる弟では母親が違う。

 忍が生まれてすぐに両親が離婚し、直後に父親と今の妻が再婚したのだ。

 離婚の原因とは他でもない後妻との不倫であったのだが、泰輔と弥恵がそれを知ったのは大分後になってのことだった。

 生後間もない忍だけ母親に引き取られたが、八年後。母親の訃報とともに忍は生家に戻ってきたのだった。

 再会した弟は同年代より頭一つ分は小柄で、痩せ細った枯れ木のような体つき、血色の悪い幽鬼のような顔といい、まともな生活が送れていなかったのは明白だった。

 しかし眼光だけは異様に鋭く、それでいて明るいお喋りで、いつもヘラヘラした態度が却って不気味だった。


『よう! 兄ちゃん、ご無沙汰~♥️ つっても全然覚えてねえんだけどな、おい。ま、よろしく頼むわ~♪』


 八歳児とは思えない口達者で、当時屋敷に何人もいた使用人とも同じようなテンションで話しかけていた。

 特に弥恵とは早々に打ち解け、広い屋敷のあちこちでよく遊び回っていたものだ。

 互いに「しのぶちゃん」「やえちゃん」と呼び合い、兄妹というより友人同士のようだったが、そんな忍を義母はいつも気持ち悪い虫でも見るように見ていた。

 泰輔と義母は表面上こそ親子として接したが、当時は常に値踏みされるような冷たさを感じていたものだ。もちろん信頼などあるはずもなく、泰輔にとってこの女は同じ家に住んでるだけの他人だったと言える。今はかなり打ち解けたが。

 成績優秀で極めて『良い子』だった泰輔は義母にとって優秀なアクセサリであったが、忍に対しては気に掛けるだけの価値を見出だせなかったのだろう。

 一応、転入させられた私立小学校で忍の成績はいつも学年一位だったのだが、周囲から「止めろ」と言われたことを積極的にやる素行の悪さで帳消しされていたのかもしれない。

 これも後で知った話だが、義母は忍を引き取ることに強く反対していたらしい。だが珍しいことに父親が頑として意見を曲げず、渋々義母が折れたそうだった。


『弥恵、と関わるのも程々にしておきなさい。もうすぐ塾の時間でしょう?』

『そう固いことを言うなよ、おばちゃん。お前、やえちゃんに構い過ぎだぞ。もうちょっとそっとしといてやんな』

『……「お母様」、でしょう。「お前」でも「おばちゃん」でもなく』

『お前が? 母ちゃん? ナメたこと抜かすな。蹴り殺すぞ』

『うっ……』


 おおよそ子供らしくない、ドスの効いた声の忍に気圧された義母がたじろぐ。

 すると決まって弥恵が、


『お母さんを怖がらせちゃいけません』


 と忍を叱りつける。

 忍が引き取られてからしばらくの間は、そんな光景がよく見られたのだった。




「忍は、お前の言うことなら一応は聞いていたな」


 ようやく平静を取り戻した泰輔は、忍のマンションへのドライブを再開していた。

 開けた国道は交通量も少なく、面白味のない閑散とした景色が続いている。

 泰輔の心境を映したような、雲で蓋をされた空模様の下、二人の乗ったSUVがのんびり走る。


「だからな、実のところホッとしてもいる。周りの大人が誰も忍を止めなくなっても、お前だけがあいつを見放さなかった。お前がそばにいるなら、あいつだって無茶はしないだろうしな」

「無茶しないも何も、あの人狛犬よ? 知ってるでしょ、狛犬」

「……まあ、世間で言われてるぐらいのことは」


 またも泰輔が渋い顔になった。

 弥恵はシートを思い切り倒し、うんと伸びをする。


「狛犬になるような人ってね、大なり小なり人とズレてるんだって。力が強いとか、超能力とかじゃなくて、精神的な部分が」

「『超人』ってヤツだろ? ……忍もそうなのか」

「あの人は『パワータイプ』って聞いたわ。身体能力が凄いんだけど情緒不安定で、犯罪に走りやすい」

「まあ、一度捕まってるからな、あいつ。その縁でスカウトされた訳だが」


 忍が中等部に上がってすぐのことだ。同級生と起こしたイザコザが、相手の親や学校の経営陣まで巻き込んだ大事件に発展し、ついには機動隊が出動するにまで至った。

 それでも鎮圧されず、最後は二名の狛犬戦闘員に取り押さえられた。

 しかし、その見事な暴れっぷりが八雲栄一の目に留まり、狛犬の養成所へ放り込まれたのだった。


「今じゃすっかり落ち着いちゃったわよ。前みたいにプッツンすることもないし。適度に魔物おばけとか犯罪超人と殺し合ってるお陰で発散できてるみたい」

「……お前に危険はないのか?」

「ないわ。忍が私に何かすると思う?」

「手を出されてるじゃないか……」

「人聞きの悪い。双方合意の上よ」


 忍のマンションが見えてきた。途中停車したが道が空いていたお陰で、思っていたより早く着いたようだ。


「なんにしても、心配してくれてありがとね、お兄ちゃん。これからは二人で楽しくやるわ」

「む、うん……そうか……」

「なあに? まだ何かあるの?」


 泰輔がまだモゴモゴしているが、結局マンションの前に停車するまで彼が話し出すことはなかった。

 座席を直し、後部座席からまた二人掛かりで荷物を下ろす。そこでようやく、泰輔が口を開いた。


「あーーーーーーーーーーっ!!」


 しかし、何かしら言うよりも先に横合いからすっとんきょうな声に妨害され、弥恵もその声の方へ完全に意識を持っていかれてしまった。

 見れば、ジャージの上からダボついた白衣を羽織った、赤いセルフレーム眼鏡の女が、一階の診療所から飛び出して一直線に駈けてくる。


「弥恵ちゃーーーーーん! ぐったいみーんぐ!!」

「愛南ちゃん?」


 両手を力いっぱいに振り、存在をアピールしていた愛南は、弥恵の元にたどり着く頃には少ない体力を使い果たしていた。


「や、弥恵ぢゃ──ぜひっ、はひっ──」

「もう、なにやってるのよ。ほら、これ飲んで」


 さっき買った飲みかけのお茶を手渡すと、愛南は半分近くあったのを一息に飲み干してしまった。それでようやく落ち着きを取り戻す。


「それで、何がどうしたの?」

「そ、それがね! しのぶくんが──」


 愛南から聞かされた忍の現況に、弥恵と泰輔は互いに顔を見合せ、


『はいぃぃぃぃぃっ!?』


 二人同時に、さっきの愛南と同じぐらいすっとんきょうな声を上げた。

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