閑話休題・一
地上十五階、比留芽市総合病院の個室病棟の設備は、一流ホテルと比べても遜色ないほど整っている。
大部屋並みの広さ、大型冷蔵庫にネット設備、テレビも壁掛け式の大画面だ。
窓からは街が一望できる豪華な病室、そこに凛々しい少女の息遣いが響いていた。
「103! 104! 105!」
片手一本による腕立て伏せをかなりのハイペースでこなす、茶色がかった長い髪の少女。腕や額に巻かれた包帯の痛々しさも感じさせない溌剌さだ。
タンクトップとショートパンツというラフな格好が、少年のような体躯とマッチしている。背はやや高め、全体的に女性的な丸みが欠如しているが、汗の滴る血色のいい肌色には独特の色香があった。
「何してるんです、アユ?」
「ん、マリル?」
ノックもなしに入ってきたマリルを咎めるでもなく、立浪歩は腕立て伏せを中断して顔だけ振り向いた。そのまま腕一本で体を支えて逆立ちし、さらに肘の屈伸で跳躍して一回転しながら着地する。
「怪我に障りますよ」
「医者はいつも大袈裟。もう治ってる」
ムスッとしたぶっきらぼうな口振りだが、別に不機嫌なのではない。これが彼女の自然体だ。
歩は顔の汗を前腕で無造作に拭うが、後から後から噴き出してきて一向に収まらない。ぐっしょり濡れた全身を見るに、今までかなりの運動をこなしていたようだ。
見兼ねたマリルが手近なラックにあったタオル布を投げて寄越すが、
「……マリル、これ配膳台拭くやつ」
「あや!? ごめんなさい……」
歩は短く「構わない」と告げ、ベッドの手摺りに引っ掛けていたタオルと、ついでに冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出した。
ボトルの半分ほどを一気に煽り、歩はようやく一息ついてマリルに向き直った。
「何の用?」
「ふっふっふ。実はですね、退屈してるアユのためにゲストを連れて来たのです」
「ゲスト……お母さん?」
「いえ、彼女はカリフォルニアです……というか、あなたが入院してること自体を伏せてあります」
「ん、正解。それでいい」
ボトルをもう一口飲み、歩は視線で続きを促した。
「むっふー! 二人とも、どうぞー♪」
マリルが外に呼び掛けると、控えめな「お邪魔します」の声とは対照的に、勢いよく引き戸を開け放たれた。
「あ」
ほんの僅かに警戒していた歩だったが、相手が見知った顔だと判るやボトルを持ったまま駆け出した。
「やっくん」
「わふっ」
そして仔犬がじゃれつくように、顔を見せた弥恵に抱きついた。
「おお、本物のやっくん……この手触り、間違いない!」
「も、もう! どうしてみんな私に抱きついてくるの?」
苦笑しながらされるがままの弥恵だった。元気な姿が見られて嬉しいのと、歩も弥恵と同じく胸が
大分――いや、かなり汗臭いが、不思議と不快感が沸かない。むしろ甘酸っぱいような香りにされるがままを許してしまう。
「でもドリンクを溢されるのはいただけないわね。アユ、ステイ」
「む、ごめん」
弥恵に制され、歩はとりあえず適当なラックにボトルを置いてから、改めて抱きつこうとした。
ところが、その弥恵の後ろにもう一人、同じような背丈の居心地悪そうな美少女がいることに気付く。
「ど、どうも〜」
「?」
引きつった愛想笑いを浮かべ、小さく手を振るホワイトブロンドの美少女――見覚えがあるようなないような相手としばらく見つめ合うこと数秒。歩は雷にでも打たれたように慄いた。
「ま!? まっ、まさか‼ カルディナーレ・アレキサンドラ・ゼノビアさん!?」
見えない力に圧倒されるかのように仰け反る歩だが、それでも顔筋が1ミリとも動かず能面のような無表情を貫いている。
弥恵とマリルにはいつものことだが、ゼノビアの眼には不気味に映ったらしく、笑い顔が明らかに引きつっていた。
「あ、はは……フルネームだと長いので『ゼノビア』で構いませんよ。……えっと、歩さん?」
「おおっ‼ あのゼノビアさんが私の名前を……っ」
「……有名人なんです、彼女?」
弥恵は、感激と興奮のあまりに頭頂部を床に着けてブリッジしている歩にではなく、彼女を生暖かく見守るマリルに訊いた。
「ローカルアイドルみたいなものですね。一部の地域だけで熱狂的なやつ」
「確かに、すごい綺麗な子ですものね」
「弥恵さんだって負けてませんよ? メイクと衣装の差ぐらいなものじゃないでしょうか?」
マリルはそう言うが、弥恵としてはとてもじゃないがゼノビアの隣には立てそうもない。なので、首を振って否定した。
「とんでもないですよ。ゼノビアさん、小柄ですけど頭が小さくて等身が高いですし。手足も長くてスラっとしてて、腰回りだって……あれ? 意外と太い……」
「駄目です、弥恵さん。ゼノビアに下半身デブは禁句です。あと、今の言葉のだいたいが弥恵さんご自身に当てはまってます」
なお、ゼノビアは歩の相手をしながらも二人の会話がバッチリ聞こえていたらしく、下半身ナンチャラの辺りで凄まじい殺気を放ちながらマリルを睨みつけていた。
「こ、これが本物の殺気……――シビれる!」
そして、
年頃の娘としてあられもない姿だが、自分の想像を遥かに上回って元気そうな歩に、弥恵は肩の重りが外れたような面持ちで胸を撫でおろした。
「それじゃ、私は帰りますね」
「あや? ゆっくりしていかないのですか?」
「もう心配いらないようですので。また来ます」
弥恵が柔らかく微笑むと、マリルも明るく元気に「そうですね!」と返すのだった。
弥恵は相変わらずゼノビアに夢中な歩の邪魔をしないよう、静かに病室を抜け出そうとしたが、
「
結局気付かれてしまった。振り返ると、右手を立てて敬礼のような仕草の歩と、小さく手を振るゼノビアに見送られていた。
早足で病院を後にした弥恵は、入り口の脇で立ち止まるとスマホを取り出した。二台あるうちの片方、忍の番号だけが登録されたものだ。
届いていたメールを開くと、忍らしい簡潔な一文が。
(『遅くなるから帰ってろ』か。わざわざ連絡を寄越すってことは……)
おそらく忍が帰るのは日付が変わってから、下手すれば明後日以降かもしれない。たまに予定がズレて早目に帰ってくることもあるが。
(……そうね。一昨日も昨日も泊まったし、今日は帰るとしますか)
若い娘が何日も彼氏の家に泊まりっぱなしというのも如何なものか。弥恵は小さな微笑を浮かべ、駅へ向かって歩きだした。
学校の最寄り駅から自宅の最寄り駅までは、乗り換えなしだが急行でも片道五十分以上掛かる。忍の家に近い方で乗るとさらに一駅掛かるが、ハッキリ言って誤差の範囲だ。
駅から弥恵の自宅までは、さらに十五分ほど歩くことになる。駅前の繁華街から山の手の住宅地を奥へ奥へと進むと、やがて無駄に広くて大きい屋敷が並んだ地域にたどり着く。
その中でも一際大きな、優に街の一区画を占める西洋風の大邸宅が、弥恵の実家だ。ただし広いといっても、手入れがされていない庭は密林のごとく荒れ果て、屋敷の壁にまで蔦が侵食している。
さすがに内部は普通に生活できる環境だが、それも家人が日常的に使う区画だけで、半分以上が放置された半ば幽霊屋敷と化していた。
(たしか、そういう環境の建物って雑多な
などと思い出しながら玄関ドアを開ける。吹き抜けになったロビーに二階まで続く左右対称の大階段、天井にある豪華なシャンデリアは、迎賓館をイメージして創られたらしい。
建てたのは弥恵の父で、その頃はそこそこ有名な大企業の社長としてブイブイ言わせていたらしい。今やすっかり消沈し、隠居して大人しくなってしまったが。
「あっ……」
二階の自室へ向かう途中、息が詰まったような声がして、階段の途中から下を見た。
左足を引きずり、壁に寄りかかりながら弥恵を見上げるのは、左眼に眼帯を巻いた中年女性だ。
まるで叱られる子供のような表情に生気は薄く、顔色も良くない。美人と呼べる部類だが、暗闇で出会せば大半の人が幽霊と間違えるだろう。
「ただいま」
「…………」
「返事ぐらいしてよ。た・だ・い・ま」
冷めた視線の弥恵から念押しされ、女性は掠れた声で「おかえり」と口にした。
弥恵は階段の中腹で立ち止まったまま、ほんの僅かに眉を吊り上げた。
「その声……また呑んだくれてるの? 程々にしないと、死ぬわよ?」
「えっ!? えっと、あ……ありがと」
「何よ、その顔。私がお母さんの心配するの、そんなに変?」
その言葉に、弥恵の母はビクンと肩を震わせ、崩れるように膝をついた。痛々しくて情けない姿に、弥恵もついつい溜め息が出てしまう。
この母親はいつもこうだ。昔は違った気がするが、気づいたときには小動物のようにおどおどしたか弱いおばさんになっていた。
左眼と左足が不自由で、あまり外にも出ずに一日中引きこもっていることが多い。実年齢よりかなり老け込んでしまい、髪には白髪も目立つようになっていた。
「もう。二日も家を空けてた娘が帰ったら、世の母親なら叱りつけるものでしょう」
「……別に、いいわ。好きにして……」
「ならいいわ」
弥恵の母はもう、目を伏せて娘を見ようともしない。
もう話を切り上げてもいいのだが、弱った相手に意地悪したくなるのが弥恵のサガだ。それに、一言ぐらい言い返してもらわないと張り合いがない。
「私、忍と付き合うことにしたから」
そう告げたところで母は黙ったままだったが、肩が微かに震えたことを弥恵は見逃さない。
「あと、春からあっちに住むわ。学校にも近いし」
「…………」
「それから、あの人ってば何か今女の子になっちゃって。亡くなったお母さんソックリらしいわよ?」
母がようやく顔を上げた。困惑してるのか怯えているのか判別しにくいが、まだ物足りないのでもうひと押ししてみる。
「今度連れて来るわね。お父さんがどんな顔するか見たいし」
「ッ‼ そ、それは……っ」
「冗談よ。あの人が嫌がるわ」
険しくなった母の顔が露骨に安堵するのを見て、弥恵はようやく満足感を覚え、自分の部屋へ戻っていった。
ベッドと机とクローゼットだけの、趣向品一つない殺風景な弥恵の部屋。大事なものは全て忍の部屋へ運び込んでいる。
制服のままベッドにダイブすると、微妙に埃臭い。最後にベッドメイクしたのはいつだったか思い出せない。
「着替えるの、めんどう……ふあっ」
思い返せば、今日一日の間に色々あり過ぎた。疲労感がどっと押し寄せた弥恵は、すぐに規則的な寝息を立て始めるのだった。
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