第2話 帰ってきた酔っ払い(素面)

 凄まじい熱気と息苦しさにうなされながら、忍は目を覚ました。

 全身に掛かる圧迫感、そして皮膚を針で刺されるような熱さが呆けた意識に襲い来る。

 逃れようと寝返りを打ったが、その途端にのしかかっていた大量の瓦礫が崩れ、けたたましい騒音が辺りに轟いた。

 自分で起こした音に驚き、忍は文字通りに飛び起きた。


「うおおおっ……え、何これ?」


 寝ぼけ眼で辺りを見回した忍は、炎と瓦礫だらけの地獄絵図に戦慄する。そこに見馴れたショッピングモールの面影はなく、呼吸するだけで喉が焼けるようだった。


「マジで爆発してんじゃねえか。……あれ、あの女ぁどこ行った?」


 忍の記憶は、夜空を落下していく途中から途切れている。少なくともその瞬間まで潰したエデンの頭を掴んでいたのは確かだ。

 しかし足元にそれらしき死体など転がっておらず、それどころか掌には返り血すら付着していない。


「ま、どうでもいいか」


 だがそんなことより、こんな場所でいつまでも留まっている方が問題だ。そう判断した忍は頭を切り替え、平和だった頃のモールの記憶を頼りに出口を探して歩きだした。


「う、うう……っ」


 その時だ。忍の耳に、足元からの呻き声が届いた。

 すぐさま屈んで意識を集中すると、瓦礫の下から弱々しいが人の息遣いが確かに聞こえてくる。熱を持った瓦礫を掴むと掌が焼けついたが、そこは気合いで耐えて持ち上げた。

 退かした瓦礫の下には、四十ぐらいの男がうずくまっていた。全身が煤にまみれ、衣服の所々に血が滲んでいる。


「おい、おっさん! 大丈夫か、おい!!」


 体を揺すっても返事はないが、まだ息がある。だが、それもこの場所では長く持たないだろう。

 忍はすぐに男を抱え上げようとしたが、周囲をよくよく見渡せば、ざっと目についただけでも十数人もの負傷者が伏している。


「……はっ。ヘビーだなァ、おい!」


 忍は表情を引き締めた。



 紅葉が丘ショッピングモールを襲った突然の火災は、消防隊による懸命な消火活動にも関わらず、発生から一時間が経っても収まる気配がない。

 集まった近隣住民が固唾を飲んで見守る中、異変が起きたのは駐車場のある裏手の壁だった。


「ちぇいさーーーーっ!!」


 雄叫びと共に壁を突き破り、両腕いっぱいに負傷者を抱えた忍が飛びだしたのだ。

 着地すると同時に、忍は抱えた負傷者を痛めつけない程度の大雑把さで地面に放り出した。


「おい! そこのあんた!」


 近くで面喰らっている野次馬の一人を指名し、救急車を呼ぶよう有無を言わさぬ迫力で指示をする。相手が頷くのを確認してから、忍は自分で開けた穴を通ってモールの中へ戻っていった。

 かと思えば、すぐにまた怪我人を抱えて飛び出し、適当に放り出すとモールに戻り、またまた怪我人を連れて飛び出してくる。

 あれよあれよと駐車場は怪我人で埋め尽くされ、聞き付けた救急隊員や野次馬まで巻き込んでの救護活動が始まった。

 その間にも出たり入ったりを繰り返していた忍だったが、それ以上の救出が見込めなくなると呼び止める救急隊員を振り切ってに悠々と歩き去っていった。

 その姿は多くのスマホによって撮影され、その日のうちにネット上に動画が投稿された。

 曰く、はゴリラよりも力強く、チーターよりも俊敏な──。




「あぁぁ~、つっかれた……」


 張り詰めた肩をグルグル回しながら、忍は人目も憚らずに大欠伸をする。もっともモールの騒ぎのせいか周囲に人通りはほとんどないし、そもそも人目を気にする性格でもないのだが。

 灼熱のモールで大勢の怪我人を抱えて何往復もしたのだ。体力には人並外れた自信があった忍も、さすがに疲労の色が濃い。

 熱にてられた頭がクラクラし、煙のせいか喉の調子もおかしい。気を抜いたら歩きながらでも寝てしまいそうだった。

 何だったらその辺の地面でいいからすぐにでも寝転がりたいぐらいだが、野宿と拾い食いはしないよう、可愛い彼女からキツく言い聞かされている。


「そーいや、晩飯どうすっかな~」


 そもそもモールに立ち寄ったのは夕食を買うためだった。だが気付けばもうマンションの入り口まで着いてしまっている。

 冷蔵庫に多少の食材が入っていた気もするが、残念ながらすぐに食べられる物は無い。少し歩けばコンビニがあるが……。


「……ま、いっか」


 自分の腹具合と相談した結果、根本的に食欲が無いから無理に食べる必要もないと結論付け、このまま帰ることにした。今は食い気より眠気だ。

 そんな気分でボケボケ歩いていた忍だったので、独り暮らしの部屋に灯りが点いていたことにまるで気付かないまま、玄関の鍵を開けた。


「ただいま〜……ぁれ?」


 独り暮らしには広すぎる2LDKに習慣付いた挨拶を投げ入れた忍は、部屋の空気が暖かいことに首を傾げた。

 廊下とその先のリビングダイニングの電灯が付いており、テレビからバラエティ番組らしき笑い声まで聞こえてくる。

 その原因がすぐに思い当たった忍の元へ、部屋の奥から弾むような足取りでサイドアップテールの小柄な少女が出迎えに来た。

 背丈は小さな子供のようでいて、頭が小さく等身が高い。大人びた妙にませた表情にニマニマした笑みを浮かべ、獲物を狙う女豹を彷彿させる瞳で忍をねっとりと見上げてくる。

 彼女は穂村ほむら弥恵《やえ》。ちょうど昨日から付き合い始めたばかりの、忍の恋人だった。


「おかえりなさ〜い、あ・な・た♥ ご飯にする? お風呂にする? それともわ・た・し? キャハッ♪」

「全部」


 即答する忍に、おたま片手にエプロン姿の弥恵は満足そうにニンマリ笑った。気分は新婚さんのつもりらしい。


「うふふ、思ったよりも早いわね。待っていた甲斐があった、わ……、え?」

「思いの外さっさと片付いたからな。つーか来るなら先に……どうした?」

「……えっと?」


 ところが、ニマニマ笑顔だった弥恵の表情が急速に強張り、まるで度数の合ってない眼鏡で物を見るように忍を窺ってくる。


「何、その頭?」

「頭ぁ?」


 指摘された忍が後頭部に手を回すと、不思議なことにクセの強いゴワゴワした黒髪が腰辺りまで伸びていた。引っ張ると頭皮に根強くガッシリした手応えもあり、カツラか何かが被さってる訳ではないようだ。


「格好も酷いし」

「カッコぉ?」


 灰だらけの煤まみれなのでその事かと思ったが、違うらしい。何かと思って視線を下げると、視界が遮られて足元が見えない。

 どうやら素肌に直接羽織ったジャケットの胸元が凄まじく膨らんでいるようで、ファスナーも壊れるぐらいに張り出しているのだった。


「……え、何これ?」


 膨らみを持ち上げると、指先が上質のスポンジに食い込むような感触と、胸の皮膚に指が触れる感触を同時に覚える。

 しばらく膨らみをふにふに弄んだ忍は、唐突に壊れたファスナーを引き千切ってジャケットの前を全開にした


「まあ!」


 感嘆の声を上げた弥恵の視線が、押し込められていた反動で飛び出してきた巨大な双丘に釘付けとなった。

 素肌を晒した忍の胸元には分厚い大胸筋ではなく、が悩ましげに揺れていたのだった。


「お、あ、ぇあ?」


 言葉にならない忍の声が、勝手に口から溢れ落ちる。その声も、心なしか高いように感じられる。

 恐る恐る横を向き、靴箱の扉に嵌った姿見を見つめる。そこに映った忍は、元の自分の面影を残しながらもすっかり変わり果てていた。

 野性的で目付きが鋭く、凄味のある美人である。

 身長や肩幅はそのままのため、手足が長くてガッシリした体格を保持している。だが心なしか腰が細く、代わりに胸や腰周りがとんでもなくせり出していた。

 改めて、剥き出しになった自分の胸を両手ですくい上げた。形を保っているのが不思議なぐらいの柔らかさ。ハリがあって瑞々しい弾力。吸い付くような肌の質感。それらを兼ね備えた、完全無欠のだ。


「や、弥恵……」


 再び正面に向き直った忍は、自分の真っ平らな胸に手を当ててどんより沈んだ表情の弥恵を呼ぶ。


「はっ!? な、何かしら?」


 我に返った弥恵が顔を上げる。が、瞳は相変わらず忍のたわわに揺れる胸元を向いているた。


「ちょっと一発ぶん殴ってくんね?」

「忍を? 嫌よ、あなた硬いんだから! 自分でやってよ」

「自分で!? あ、ああ、分かった! ……おし!」


 拳を握った忍は、弥恵に止める間も与えず、本当に自分の額を力いっぱいぶん殴った。

 グォぉぉぉん、という、何故か寺の鐘でも突いたような音が室内に響く。


「おふっ!?」


 気付けの一撃のつもりが、疲労と精神的動揺も合わさって思いの外強烈に脳髄に響いた。結果、忍は自分の額を殴った衝撃で膝から崩れ落ち、玄関で目を回してしまった。


「何してるの、あなた!? こんなとこで寝ないでよ! 忍!? 起きなさい、しーのーぶーっ!!」


 ぶっ倒れた忍に弥恵が慌てて駆け寄ったが、完全に気を失ってしまって反応がないのだった。

 その後、弥恵は起きる気配がない忍の足を引きずって寝室まで運ぼうとしたが、途中で面倒になったのでリビングに客用の布団を敷いて転がしたのだった。

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