3.都合のいい言葉「コミュニケーション能力」

1.「コミュニケーション能力」


 就活生に企業が求める「能力」は何でしょう(下に一覧あります)。経団連が調査した新卒採用における「選考にあたって特に重視した点(5つ選択)」の回答です。

 仕事における「専門性」、あるいは「一般常識」や「語学力」といった汎用性の高いもの…どちらも、求めるのは稀有な企業です。

 コンプライアンスは重要ですし「倫理観」とか。「リーダーシップ」とか「責任感」とか、採用担当はそういう積極的なのが好き…とも限りません。


 まあ表題の通り、1位は「コミュニケーション能力」です。

 2位以下の「主体性」や「チャレンジ精神」、「ストレス耐性」も気になる所ではありますが、今回は「コミュニケーション能力」に注目します。

 企業が選考時に重視する要素、堂々の16年連続1位です。実質的にはともかくとしても、経団連が毎年こうした調査結果を出しているということだけで意味を持ちます。


資料)選考にあたって特に重視した点(5つ選択)

コミュニケーション能力 83.0%

主体性 60.7%

チャレンジ精神 51.7%

協調性 47.0%

誠実性 44.2%

ストレス耐性 34.5%

責任感 23.3%

倫理性 22.4%

課題解決能力 20.6%

リーダーシップ 15.4%

専門性 13.6%

信頼性 12.8%

柔軟性 12.7%

潜在的可能性 11.6%

一般常識 6.6%

語学力 6.6%

履修成績・学業成績 4.2%

留学経験 1.1%

その他 4.0%


 しかし「コミュニケーション能力」は選考の基準になりえるのか。これが大変怪しいのです。今回は、「コミュニケーション能力」という言葉を考えていきます。



2.コミュニケーションは関係性


 コミュニケーション能力を測る難しさとして、前回は能力が状況依存である点から説明しました。「コミュニケーション」と一口に言っても、人事部の人間と面接場面で接することと、営業での接し方や福祉での接し方は全然違う、という話でしたね。

 今回は、コミュニケーションを能力として「個人に帰結させることに無理がある」という話です。


 コミュニケーションは、相手がいますよね。Aさんとは話が合うが、Bさんとは話が合わない、というのはよくあることです。

 外から見れば、Aさんと話している時はコミュ力高いと評価でき、Bさんと話している時はコミュ力低いと評価できます。同じ個人ですが、能力の評価が分かれてしまいました。

 コミュニケーションの失敗を1個人の「責任」にするのは、無理があるということです。面接官も自分のせいでコミュニケーションがうまくいかなかったとは考えもしない、したくありません。ですから、相手の能力が低いことを原因にします。


 これは誰にに責任があるか「分からない」という話では済まない問題です。どちらも悪い時も、悪くない時もあるでしょうし、責任がどちらとか決めても関係性の問題は解決しません。

 例えば、事前に周りから強烈に煽られた上で2人が話せば、まあうまくいきません。その時、失敗の大きな要因は、コミュニケーションに至るまでの過程や用意された状況にあります。コミュニケーションの成立は、個人のせい/おかげにできるほど簡単ではない、ということです。

 コミュニケーションを個人に内在する能力として位置づけることに無理がある、ということは様々に指摘されています(貴戸2011など)。コミュニケーションの失敗を誰かのせいで説明できれば楽、ゆえに個人の「コミュニケーション能力」のせいにする考え方は受け入れられやすいのです。



3.コミュ力と「コミュ障」


 現実として「コミュニケーション能力があるかどうかくらい、みれば何となくわかるんじゃないか」という感覚は、社会に浸透していると思われます。それが端的に表れているのが「コミュ障」という言葉です。

 医学的な「コミュニケーション障害」を大きく逸脱しているため、混同を避けて「コミュ症」という表記もありますが、おそらく後付けです。

 「あいつはコミュ障だから」「自分はコミュ障なので」とよく使われます。おおむね、「コミュ障」=コミュニケーション能力が低いこと、という緩やかな共通認識はありますが(※)、「コミュ障」の基準は千差万別です。人に話すのが苦手、話がまとまらない、周りのノリについていけない、人が多いとあがる、実に様々です。言語、思考、生き方などごちゃ混ぜです。 

 これほど曖昧な言葉にもかかわらず、「コミュ障」を「なおすべき」ものとみなす考えは流布しています。「個人の中に治療すべき問題がある」とコミュニケーションの阻害要因を個人に求め、個人に改善要求をする(亀井2017)、コミュニケーションが困難である原因を、個人の性質に押し付けてしまうのです。

 一部の理想的な人間像を「正常」、それ以外を「異常」と見なし、その問題を個人の身体の中に見出そうとする言説は、優生思想など歴史上何度もあらわれてきました。(亀井2017)。こうした考え方は「私たちは正常であなたが異常だ」とすることで「自分は否定される存在ではない」と立場を守れるため、人々に受け入れられやすいです。


 コミュ力という能力は、一応後天的で鍛えられるものとみなされますが、先天的で変わらないもので差別するよりマシとは決して言えない、別の問題があります。

 「能力だから上げられる」とみなすからこそ、鍛えろと他者に要求し、自分も鍛えないとと焦る、「コミュ力鍛えましょう、さもないとコミュ障ですよ」という意識が浸透し、人を煽るようになります。

 「もっと明るさを、もっと社交性を」という風潮が焦りを生み、自己にも他者にも過剰に要求してしまうのです。


 「コミュ力を高めよう」の圧力によって、人々のコミュニケーションにおける困難が無くなっていくならまだいいんですが、そうはなりません…。

 個人の能力に帰すことに無理があるんですから、うまくはいきません。むしろ、煽る風潮がコミュニケーションに悪影響を与えているでしょう。


 コミュニケーションの要求水準を下げること、失敗やぎごちなさを認めていくことの方が、大切だと思います。

 「コミュニケーションの要求水準を下げること」は、個人の負担を減らすこと、異文化間のコミュニケーションなどにつながります(亀井2017)。


※脇(2017)は「コミュ障」という語の言説分析から「コミュ障」=「コミュ力がない」という図式が成立しない多様な使われ方がなされていることを指摘しています。



4.コミュニケーション能力の判断?


 しかし、多くの企業がコミュニケーション能力を選抜の基準にしています。曖昧なものをどう判断しているのでしょうか。

 例えば、「若い社員はコミュニケーション能力なくて使えない」という時、念頭に「社内でトラブルメーカーとして話題沸騰中の新入社員Aさん」といった極端な事例をおいて議論されることがあります。

 しかし、実際の選抜場面では、Aさんのような分かりやすい事例は少なく、たいていは多くの応募者がまあまあ、「どんぐりの背比べ」です。ただ、採用予定数などの縛りから、バッサリ分ける必要がある。だからこそ、企業は「人物本位」「実力本位」と言いつつも、学歴・年齢などの要素を大きな判断材料として利用するのです。


 一方で、そうはいっても事実面接などを行っていますし、それが完全に形式だけのものということはありません。コミュニケーション能力について何らかの判断は行われています。

 問題は、その基準がはっきりしないこと、どうにでも言えてしまうことです。コミュニケーション能力を選抜基準とすることは、選抜が自分の好みであったとしても、その結果を正当化するために非常に都合がいいのです。(第1回の面接も「人物本位」という名目で、明確な判断基準はなく、面接官の裁量となっていましたね。)

コミュニケーション能力には客観的基準がなく、選抜結果を批判する側にもその論拠が与えられていません。正しさも説明しきれないけれども、選抜基準が間違っていることを証明するのも難しいのです。


 さらに、コミュニケーション(能力の見え方)は場面によって大きく変わります。ですから、例えば、入社後トラブルばかり起こすAさんの採用を担当した人が批判されても、「面接のときはうまく喋っていたけどなあ。あれは誰も見抜けないよ」と言えてしまう。普遍的なコミュニケーション能力など測れないことを、都合のいい時だけ利用するのです。

 逆はもっと酷く、自分好みでない人にはわざと挑発的な質問を浴びせることで「あの程度で腹を立てるようでは組織人としてのコミュニケーション能力に欠けている」としてしまえます。コミュニケーションが失敗するよう自分で仕掛けておいて、原因を相手の能力に押しつけるということです。



5.おわりに 


 「コミュ障」という言葉は浸透していますが、俗語ではあります。しかし、「コミュニケーション能力を高めよう」ということは社会全体のお墨付きを与えられています。公私の両面から、コミュニケーションを「コミュニケーション能力」で捉える価値観が与えられていると言えるでしょう。「能力」という概念だからこそ、私的領域にとどまらず公的な力も得られたと考えられます。

 しかし、時に「あれは見抜けないよ」と弁解するように、普遍的な「コミュ力」など測れやしないということは、程度の差あれど多くの人が感じていることでしょう。。

 コミュニケーションは個人の能力で説明しきれるほど単純なものじゃない、という認識が広まってほしいです。


 「コミュニケーション能力を高める」「測る」ことは、私的な価値観として受け入れられやすい上に、企業あるいは教育でもその方向は推奨されているわけですから、脱却することは容易ではありません。逆に言うと、企業や教育の方向性次第で、価値観も変わっていく可能性があるとも言えます。

 個人レベルでも、「コミュ障」という言葉の安易な使用は、他人だけでなく自分に対しても避けたいですね。


 コミュニケーション能力は、内実ないまま多大な影響力を持つ「能力」の最たるものですが、他にも大変怪しい「普遍的な能力」がはびこっています。次回はそれらを扱っていきます。


(4.繰り返される「新しい時代に必要な能力」論 につづく)


【3章の参考文献】

◆貴戸理恵『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに 生きづらさを考える』岩波ブックレット、2011年。

◆亀井伸孝「新しい優生思想としての"コミュ障" ―異文化間の快適な対話を目指して」『こころの科学』191、pp.57-63、日本評論社、2017年

◆中村高康『暴走する能力主義 ――教育と現代社会の病理』ちくま新書、2018年

◆脇忠幸「コミュニケーション能力」言説の内実とその背景―新聞読者投稿欄をデータとして―」『福山大学人間文化学部紀要』18、pp.1-17、2018年

◆日本経済団体連合会「2018年度 新卒採用に関するアンケート調査結果」2018年(https://www.keidanren.or.jp/policy/2018/110.pdf、2020年3月14日現在)


※本文は、2019年4月に公開した自作動画「ゆかりアカデミー 能力とは何か③」の内容を加筆修正し、2020年3月に投稿したものです。

2020年3月 がくまるい

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