2.絶対的指標は存在しない②
4.能力を測る難しさ
第1回で能力を表す難しさ、能力は状況依存であることを述べました。ここまで言うと、そうした能力を「測る」のも難しいこともわかると思います。
前回の冒頭の面接は、「人間力」や「想像力」を測るといっていましたね。あれは試験官が悪いから測れないのでしょうか?面接という形式が悪いとか、質問がよくないとか、数値化できるような形式や質問ならある程度測れるなど、色々な意見を出せるでしょう。
それらの原因もあるかもしれません。しかし、もっと根本的には「能力を測ること自体が難しい」のです。
例えば、あるキーワードから連想する単語の数を1分間測ったとして、それが想像力と言えるでしょうか?全員に公平に問題を出せますし、数値化できますね。
それは違うんじゃないか、と多くの方が思うのではないでしょうか。
「想像力」が状況で違うという前回の話に繋がります。単語を連想する時の想像力と、家族を喜ばせる時の想像力と、創作の時の想像力は違いますよね。(家族が喜ぶという状況から想像力があったと評価できるし、創作に行き詰まったという状況から「想像力がない」と思うわけです。)
この単語連想ゲームで測れる想像力は、単語連想ゲーム場面での想像力に過ぎません。違う場面(状況)では、違う結果になります。
しかし、想像力のように人によって見方が大きく分かれるものはそうでも、例えば、学力なんかテストすれば分かるのではないか。こうした見方は一般的でしょう。
しかし、「学力」も状況によって変わります。例えば、数学のテストをして、その点数を全ての場面で通じる学力といえるでしょうか?
英語のテストではまた違った結果が出ます。分野が違えばもちろん、同じ分野すら一概に言えません。例えば、ある人が小学6年生の算数テストは5割、大学入試センター試験の数学Ⅰは8割の正答率だったとして、この人の数学的な学力は高いでしょうか?
ある人の年齢や所属によっても、評価は違うでしょう。極端な話、さきほどの状況でも、小学1年生と高校3年生ではずいぶん評価が変わります。
テストが測定するのは、あくまでそのテストの問題を正答できるかどうか、に過ぎません。もちろん、そのことにも意味はあります。しかし、普遍的な「学力」はなく、状況依存のものでしかありえないのです。
ちなみに「学力」という言葉の意味自体見解が分かれるものです。
○大辞泉
学習して得た知識と能力。
○ブリタニカ
学校教育などの学習や訓練によって獲得した知的適応能力。
○ウィキペディア
人間活動における基礎となる学ぶ力
上の方は学習で得た結果としての能力、下の方は学習する上での能力という具合です。真ん中は両方の性質持つ、というところでしょうか。
テストという点数で分かりやすそうな「学力」も、実際は難しいのです。
それでは、体力はどうでしょうか。体力テストをすればわかる、というのは感覚的には正しそうです。しかし、50メートル走でいいタイムだからといって、それだけでその人を「体力あるなー」と思うでしょうか。
1つやと疑問が残っても、握力とか立ち幅跳びとかボール投げとか色々やれば、総合的と言える、と思うかもいれません。
確かに、その体力テストの結果と印象としての体力の差は小さいと思います。でも、体力テストの結果は良いけれど、立ち仕事したらすぐ腰や足が痛くなる人がいて、この人は体力があるといえるでしょうか。
競技における「体力」と、立ち仕事における「体力」は違います。つまり、体力も状況で指し示す意味が変わるのです。
5.総合指標の困難さ
ここまで能力を示す難しさを扱ってきました。個々の分野の能力でも難しいのに、「人間力」「社会人基礎力」などという広い範囲を示す能力は、より難しくなります。
人物を評価する絶対的指標があったら、とても楽ではあります。しかし、現実はそうはいきません。
ここでフィクションにおける総合指標を考えてみます。代表的なものとして、「私の戦闘力は53万です」で有名なドラゴンボールの「戦闘力」という指標があります。
スカウターという機械で測定できるこの指標は、数千で争ってた所に数万の敵、数万の争ってた所に10万越えの敵、その敵を悟空が必殺技で18万を出し倒した所に53万のフリーザ様登場、といった具合に、その都度で周り(そして読者)に登場人物の(時に絶望的な)力関係を見せつける役割を果たしてきました。
バトルマンガにおいてどちらが戦闘で強いかを示す数字ですから、わかりやすいです。作中で戦闘力に反した戦闘結果になったことはなく、ある種絶対的指標として機能していました。(戦闘力が戦闘中に上がることもあるので、最初から結果が決まっているわけではありませんでした。また、スカウターの問題で測れないことはあっても、戦闘力という尺度自体が的外れということはありませんでした。)
総合指標はとてもわかりやすい。ゆえに、欲しくなる。
もちろん、現実にはこんな絶対的総合指標は存在しません。Aさんは社会人基礎力50、Bさんは100、はいBさん採用ってことはないですよね。数値化は極端にしても、「人間力」といった総合的な能力は高い/低いすら測定困難なものです。
気を付けるべきは、絶対的な総合指標がないからこそ、総合指標にみえるもの・それっぽいものを使っていることもある、ということです。
社会人基礎力の指標なんてないから、少なくない企業が、とりあえず妥当だと判断してSPIの点数を入社試験に用いています。それが悪いというわけではありません。ただ、世の中は絶対的な指標で決まっているのではなく、とりあえずの指標を用いている、ということです。
とりあえずの指標を、その性質や弱点を理解して用いているならまだいいのですが、何となく用いていることも多そうです。評価の基準や根拠、その責任すらも丸投げした方が楽ですからね。
このように、総合指標は難しいのです。考えると、現実はおろか、フィクションの世界ですら、強さランキングとかすると議論が紛糾します。その一因は「強さ」も状況で変わることです。「強さ」認識のズレが議論のかみ合わなさにつながります。
6.なぜ、人は能力を知りたがるのか?
ここまで「能力」の難しさを話してきましたが、そもそも、なぜ人は自分や他人の能力を知りたがるのでしょうか。主なものとして3つ考えてみます。
①人を割り当てる
まず、社会的な意味として、人の能力を知ることでそれぞれの仕事によりふさわしい人を割り当てる、という社会のシステムがあります。適材適所と言うやつです。
ある仕事をみんなにさせてみてできるか確かめるのでは効率が悪い。だから、その仕事ができる人、あるいは「できる見込みがある人」を選びたい。能力はその選抜の基準として、合理的と言えます。
ただ、その「能力」が本当に妥当かというのは、怪しいところがあります。本当は仕事一つ一つの能力を測りたいけど、いちいち全員に全職業の試験はできない。だから、多くの職業に必要な幅広い能力があれば便利やから、「学力」とかをとりあえず使わざるを得ないということです。
それに、その職業に必要な能力とは何か?というのもはっきりということは難しいです。人と人が接するから何となく「コミュニケーション能力」を測ればいいかと面接をしても、例えば、人事部の人間と面接場面で接することと、営業での接し方や福祉での接し方は全然違います。
それでも、何も測らないよりは選抜できる、ということも言えますし、必要な能力を十分測れていると「思い込んでいる」ことも多いかもしれません。先ほどの例なら同じ「コミュニケーション能力」で括れると思い込んでいる。(もちろん、そんなことわかった上で妥協しているところもあるでしょう。)
今は就職の場面を取り上げたましたが、自治会の仕事だったり祭りの運営だったり、人が役割分担する様々な場面で判断材料として「能力」は使われます。
②能力が価値である
第2に、能力が選抜に使われる社会では、能力が「価値」となります。そして、社会全体や学校教育から能力が価値あるものという「価値観」を与えられ育ちます。能力で人を判断する価値観が私たちに浸透しているのですね。
能力で人を判断すること自体は悪いとは言い切れません。例えば、自分や他人の能力を考慮して、能力を大きく超える無茶な仕事はしない/与えない、といった判断ができるわけです。
しかし、能力が価値として人々に重くのしかかり、能力の優劣で人を見下したり、煽ったり…。社会からも内面からも能力に振り回される、そんな現状も生んでしまいました。人を測る「物差し」、人が作った道具に人が振り回されている。
人間は必要のない時も自己や他者の能力を評価しがちです。そのせいで自分を傷つけることも、他人を傷つけることを多々あるにも関わらず。
人を見る際に能力で判断する、能力で人を理解することが癖となっているのかもしれません。
③シンプルな自己・他者理解
また、能力という価値観が人々に受け入れられたのは、自己も他者も何者か分からないことの不安が根本にあるのではないかと思います。分かろうとする時、自分にはこんな能力がある、相手の能力はこうだと、能力で捉えるととても分かりやすくなります。
フィクションにおける技能の固有名は、キャラクターを大きく特徴づけます。ワンピースにおけるゴムゴムの実の能力、鬼滅の刃における水の呼吸など、各作品に特徴ある能力名があり、物語を面白くします。
でも、現実のほとんどの人は「私固有の能力はこれです!」とはいえません。ゲームやマンガみたいにステータスが見えるわけでもなく、能力に固有名詞がついているわけでもありません。現実の人間の能力は不確かなものばかりと。
その不確かなものを、なんとか形にしたり、数値にしたりするわけです。それは資格であったり学歴であったりします。
さらに、能力をシンプルに自己や他者を理解するための道具とすれば、その「能力」の基準や根拠といった複雑な情報、背景にある状況は省かれがちです。さっきの例では、「コミュニケーション能力」と一くくりにして、場面(面接・福祉・営業など)や相手といった状況を除外しているのです。わかりやすいけど、見落としや誤解も大いにあります。
7.おわりに
ここまでをまとめると、人は「能力」で自己や他者の能力を判断して、適切な行動を取ったり役割分担をします。しかし、「能力」には限界があり、過信や誤解により問題も生じます。能力は状況依存に過ぎない、絶対的指標ではないとを理解することが大切です。
しかし、現代社会では能力の影響は避けられません。自分は能力を過信しないとしても、社会では現実として能力が評価され、求められ、仕事や信用に関わってくるのですから。
今でも疑問を持つ人は少なくないと思いますが、一方で「能力」が世の中にはびこっている現実があるわけですから、それに合わせざるを得ない場面は多いです。
次回から、1冊の本をベースに、社会における「能力」について紐解いていこうと思います。(中村高康『暴走する能力主義 ――教育と現代社会の病理』2018年、ちくま新書)
良書ではあるのですが、社会学や教育学といった分野になじみのない人にはとっつきにくい内容もあるため、丁寧さ残しつつわかりやすく解説できればと思っています
今までもテストや試験の例を挙げたように、能力の評価や能力による選抜は、教育というシステムと密接に関係しています。「身につけるべき能力」によって教育の内容や評価が変わり、そういった能力が必要だという価値観も与えられることになります。
また、能力で人を判断する考え方は、血縁で人を判断した時代には主流ではありませんでした。近代になって、能力で判断する社会システムが成立したのです。そういった社会の歴史も見ていきます。
(3.都合のいい言葉「コミュニケーション能力」に続く)
※本文は、2019年3月に公開した自作動画「ゆかりアカデミー 能力とは何か①②」の内容を加筆修正し、2020年3月に投稿したものです。
2020年3月 がくまるい
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