第一章 第1話 入所準備②
彼女達の指示に従い正面に開いた扉の中へと順番に吸い込まれて行く人の群れ。
進むペースはそんなに遅くはないのだが、自分の番はまだまだ先だとスマホを取り出し見てみれば時刻は既に午後9時になろうとしていた。
「院長はああ言いましたけど、実際のところどうなんですか? 実は死ぬほど痛い……とか?」
今度は『圏外』の表示があり、やる事が見つけられずに近くの壁際に蹲み込んだ剛を ジッ と見つめる小さな視線。
その事に気が付くと、隣に置いた鞄を開いて15㎝程の筒を取り出し「食べる?」とジェスチャーしてみせれば、母親の足を離れ軽い足取りで近付いて来る。
「人には注射を打つのに自分がされるのは嫌いとは如何なものでしょうね? でも、院長先生のおっしゃられたように、新米看護師に注射の練習されたと言った程度の痛みしかありませんでしたから、ご安心なさい」
驚く母親の事など気にもせず剛の正面に蹲み込んだ先程の女の子。 キラキラした目で「ありがとう」とキチンとしたお礼を言って受け取った。
「あぁ……何度もすみません、ありがとうございます。 でも、良かったのですか?」
ジャガイモを一度砕いて固めて作る世界的に有名なポテトチップス擬きも年齢問わず好まれるオヤツ、例に漏れずその少女の好みにも合致したようでとても嬉しそうだ。
剛の真似をして隣に座り込み、少し硬い封にもめげずに一生懸命開け終わると、最初の一枚を食べろと言わんばかりに剛の口元に近付けて来る。
「婦長、痛いのは誰でも嫌なものじゃありませんか? そんなの無いに越した事はありませんよ。 でもやらなくちゃいけないんですよね?……ハァ、憂鬱っ」
申し訳なさそうな顔で下の子をあやす母親に頷き返すと、せっかくのご好意を無駄にしてはいけないと思い口を開けて顔を寄せれば、待ってましたとばかりに少女の方からも口に突っ込もうと手を動かすものだから小さな指が剛の口の中に入ってしまう。
だが「しまった!」と思ったのも束の間、そんな事は気にもせず次の一枚を取り出すと今度は自分の口に放り込み、次から次へと食べ始めてしまった。
「美味しそうだね〜、お姉ちゃんにも一枚貰えないかな?」
一瞬だけ向けられた視線に先程の文句でも言われるのかと鼓動が跳ね上がる剛。
「はい、どうぞ〜」
だがそんな気持ちなど知った事かと “You can't stop!” の謳い文句さながらに食べ進める女の子の前にゆっくりと蹲み込んだのは、それと分かるように再現された揺さぶりかも知れない。
「んっ、ありがとう。 美味しいね〜。
お母さんにはあげないの?」
「気付いてるから」そう言われたような気がしてならなかったが、謝罪が出来るようなタイミングではなかったし、そんな勇気はありはしない。
眩しいほどの笑顔に モヤモヤ としたなんとも言えない気持ちで見惚れていれば、精一杯手を伸ばした女の子に応える為彼女の母親までもが剛の目の前に蹲み込んで来るではないか。
女性に免疫が無い剛。 こんなに近距離で異性に囲まれるなど経験は無く、肩までの髪を落ちないように手で押さえてポテトチップスを口にする若い母親に目を奪われていた。
「あれあれ〜? オヤツばっかり持ち歩いているのかと思ったらジュースまであるじゃない。 オヤツのお兄ちゃん、私喉乾いちゃったなぁ」
空いていた鞄の口に指を突っ込んで広げると、あと何個か入っていたオヤツの箱におにぎり、ジュースに雑誌と、学生の鞄にしては異常な中身に恰好の獲物を見つけた目になる咲。
ちっちゃい子のような声色でおねだりをする様子に “盗んできた” と思われていると察したが後ろめたい事は何一つない。
「ちゃんとお金は払いましたよ」
「そう」
素っ気なく答えるだけで、素直に差し出したペットボトルを開けて口を付けた。
「別に盗ってきたなんて言ってないわよ? でも、店員さんの居ないレジでどうやってお金を払うのか興味あるなぁ」
指に付いたオヤツの粉を舐め取ると、その手をスカートで ペペッ 拭き出した姿に自分もよくやるなぁと笑いが溢れる。
オヤツの缶が倒れないようにと股の間に挟むのは、誰かがやっていたからなのだろう。 少女には少し大きい物ではあったが、渡されたペットボトルを傾けると勢いよく中身を飲み込んで行く。
満足して口を離したところで、今度は言われるまでもなく母親にも「飲む?」と差し出す姿に子供の成長の速さを感心させられた。
「適当にお金を置いて来ました」
「いくら?」
「5,000円」
「わ〜お、おっ金持ち〜っ!」
「月城さん、その辺で」
近寄ってきた婦長には見えないように小さく舌を出すと、素直に立ち上がった。
「食べかけのオヤツは蓋をして持って行けばいいわ。 そろそろ順番だから行きましょうね」
促されて見てみれば、いつの間にかかなり少なくなった人の列。
言われた通りに蓋をと、床に転がる半透明なプラスチックを拾えば「私がやる!」と小さな手が伸びてくる。
最後の一押しは力が足らず苦戦していたので手伝ってあげると、立ち上がってオヤツの缶と中身が半分になったペットボトルを大事そうに抱えた。
「手」
すっかり懐かれた……いや、オヤツと言う餌で懐かせたと言った方が正確だ。
繋げと伸ばされた手を取り、すっかりお兄ちゃん気分で彼女と一緒に母親と並び、まだ施術所の順番を待つ人の列の最後尾へと向かったのだった。
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