序章 第3話 滅亡の回避②

「お母さん、ねぇ、お母さんってばっ」

「静かに、もう少しだけ我慢して頂戴。 お姉ちゃんだから出来るよね?」


 僅かな灯りしかない暗闇のトンネル、歩くよりは楽なのだろうが、何もする事なくただ立っているというのも気が滅入ってくる。


 10分程経った頃だろう、まだ歩く事もままならぬ子供を抱いた女性が足にしがみ付く3、4才の女の子の頭を撫でていた。


 先行きの不安を煽る暗いトンネル、更にする事が無くただ待つだけと言うのはなかなかに酷な時間で、結局連絡の取れなかった家族を思い起こさせ良くない想像が次々と湧き出てくる。


「お腹すいた、お腹空いたよ。ねぇ、お腹空いた〜」

「分かったからもう少しだけ待って、ね?」


 誰も喋らない静かな場所には子供の高い声はよく響き、周囲の視線を集めるには強力過ぎた。


「っせーなぁ……」


 小さく呟く愚痴も例外では無く聞こえてしまい、発した本人も意図としなかっただろうが周りにいた他の人にも苛々をぶつける事となった。


 気不味くなった母親は男に向かい誤りつつ女の子の頭を撫でて気を紛らわそうとするものの、まだ我慢をすることが得意ではない子供は、それでも気を遣ってか小さな声で「お腹空いた」と漏らしている。


「くれるの?」


 剛には今年から働き始めたばかりの五つ上の姉と、まだ小学六年生の妹がいる。


 その所為もあってか、はたまた小さな子供が不憫に思えたのかは定かではないが、鞄の中に潜ませていた箱を開けてお菓子の詰まった袋を取り出すと、内包された一本を摘み女の子の前に差し出した。


「ありがとっ!」


 日本人なら誰でも知っている細い棒状の焼き菓子にチョコのコーティングが施された老若男女に好まれる手軽な食べ物の事はその女の子も当然のように知っていたようで、一瞬の戸惑いを見せたものの剛の頷きに目を輝かせて ポリポリ と小気味いい音を立てて食べ始めた。


「美味い?」

「にがいっ!」


 文句を言いつつもあっと言う間に食べ終わり「まだあるよね?」と言いたげに剛の手の中の袋に釘付けになっている。


 元々彼女にあげるつもりで出した物、今度は袋ごと手渡すと余程嬉しかったのか、元気よく「ありがとう!」と言われたので「良くできました」とは口に出さない代わりに笑顔を浮かべて頭を撫でると立ち上がった。


 何度も「すみません、ありがとうございます」と告げる母親に照れ臭くなり、「いえ……」と短く返すとそそくさと離れて再び元いた最後尾に戻る。


「かぁ〜こいい〜っ! こういう人が彼氏だったら良いですね、そう思いません?婦長」


「人は皆優しいものですよ。 ただ、その優しさを捧げる相手が多いか少ないか、それだけの違いです。 しかし、小さな子供にとは言え見知らぬ相手に気遣いが出来るのは素晴らしいことですね、勇気ある行動に感謝します」


 黒髪が多いこの病院の看護師の中で、控えめとはいえ金色に染まった髪をショートボブに整えた若い看護師。


 シャープな輪郭の小顔に明るい茶色が大部分を占めるパッチリとした大きな目が印象的で、そこに添えられる細長い眉と少しだけ高い小鼻が全体を整え、極めつけに桃色の口紅の引かれた魅惑の唇が視線を釘付けにした。


 細身でスタイルも良く、どこかの雑誌のモデルでもしてそうなお世辞抜きで美人からの一言は、“彼女と付き合ったなら……” とお年頃の剛の脳内で良からぬ妄想へと発展し、ネットで見た18才未満閲覧禁止の映像に出て来た全裸の女性の姿に悩ましく歪んだ彼女の顔が合成された。



 はたと我に返れば、本人を前にして何を想像しているのだと恥ずかしさが込み上げ顔に熱を帯びる。


「やっだ〜、照れてるぅ、か〜わ〜い〜ぃ〜。 そんな姿見たら本気になっちゃうぞぉ?」


「ちょっと咲さんっ、こんな時に不謹慎ですよ!」


 咲と呼ばれた美人看護師の背後から声をかけてきた看護師を見た瞬間、心臓が飛び出すかと思えるほどに驚いた剛。 向こうは気が付いていないようだが、彼女は剛の姉の友達で何度か家に遊びに来ていて知っている女性だったのだ。


 近過ぎなのは嫌がる人もいるだろうが、職場が近い方が通勤時間が短くて済むから良いと言うのは多数派の意見。 姉の友達西脇 玲奈もその一人で、今年の春に看護学校を卒業した後、一番近くの病院へと就職して今に至るという訳だ。


「それは私に取られるのは嫌だって事なのぉ? なになにっ!? 玲奈もああいうのが好みなわけ?」



「ぜんっぜん、好みじゃありませんっ!」



 人の好みはそれぞれだろうが、仲が良いわけでは無くとも偶然合えた知り合いに面と向かって「興味がない」と言われるのは、人との関わりを持つ事を避けてきた剛とて多少なりとも傷付く事。 しかし冷やかしを受ける玲奈はそんな事に気付く余裕がなかった。


「彼が困ってますからその辺になさい。

 月城さん、暗い空気を変えようと明るく振る舞うのは見習わなくてはと思いはしますが、人を出汁にするのはどうかと思いますよ。

 西脇さんは自分の発言にもう少し気をつけた方が良いのではないですか?」


 言われて ハッ とした玲奈はバツの悪そうな顔で剛へ軽く頭を下げて謝罪をするものの、結局友達の弟だと気付くことはなかった。


「玲奈の所為で怒られちゃった〜」


 まだ続けるかと目を丸くする玲奈だったが、言い返しても遊ばれるだけだと悟りそれ以降返事をしなくなれば咲も言葉を失い黙ってしまう。





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