第88話 「人術のリスク」

 ハナミさんがナイフを振る。すると、食堂の床に傷が付いた。ナイフの刃が触れていないにも拘らず、綺麗な切れ目が出来上がる。

 これがハナミさんの人術? 切ってない場所を切る技なんて何とも奇妙だ。正体不明だからこそ油断出来ない。あのナイフは見た目以上のリーチがあると思っていいだろう。

 斬撃を飛ばす人術か? 物を切る機能を過大解釈して編み出したのかもしれない。人術は普通、人間の肉体や精神を強化するものだ。でも物体や魔術にも効果を及ぼせるのは、四色ししょくとの戦いで学んだ。


「あ、あれ? こうなるんな? そんなの……聞いてない」

 ハナミさんはナイフに視線を落として目を泳がせていた。彼女は震える手でナイフを傾ける。すると、食堂の机がぱっくりと二つに割れた。

「ひ、ひぃっ!?」

 ハナミさんは怯えた声を漏らしてナイフを落とした。ナイフはカランカランと音を立て、揺れる。その刃の向く先は、恐ろしい程に簡単に両断されていた。床や壁や机が切られ、危うくハナミさん自身を切断しそうな勢いだった。


 様子がおかしい。ハナミさんの技の効果に、ハナミさん自身が怯えている。強すぎる切れ味で、自分を切ってしまいそうにすらなっていた。

 人術を制御出来ていない? やっぱり、慣れていない力を土壇場で使っても上手くいかないはずだ。


「あうわわ……こんな危ない力だったなんて……。だ、駄目なのな! 解除……えっと、解除ってどうするんだったのな?」

 落ちたナイフに、ハナミさんは恐る恐る触る。肥大化したナイフは大きさが変わっていない。人術は解けていないようだ。

「ハナミさん、もしかして人術に慣れていないんじゃないですか? だったらやめた方がいい。その力は……」

「ま、まだ! あっしには奥の手がある!」

 ハナミさんは目を閉じ、深呼吸を始めた。言葉は自信に満ちているのに、語気は弱々しい。


「奥の手、だとッ!? しかしハナミ料理長の人術は失敗した様子ッ! 魔術も使えない今、まだ抵抗出来るとでも言うのかッ!」

「グリミラズさんは言ってたのな。御伽話の『魔人』は、魔封布で縛られても魔術を使えたって。今のあっしなら、もしかして……」

 ハナミさんは床に手を触れる。床はぐにゃりと曲がり、水のように揺れ動く。

 また幻術か? いや、それにしては変化が乏しすぎる。それに、聴覚や嗅覚が狂ったような感覚は無い。


「馬鹿なッ!」

 ワントレインは目を見開いた。

「魔術が発動している……ッ!? まだ魔封じは解除されていないというのにッ!」

 何だって? ハナミさんが魔術を使えた? 封じられても意に介さず魔術を使う……まさか、本当に『魔人』になったのか!?

「これがあっしの『調理魔術』。物の性質を変化させる魔術。今なら、完成させられるのな!」

「調理魔術ッ!? いやしかし、不可能だッ! 物を生み出すのは魔術の得意分野だが、『性質を書き換える』となると途端に難しいッ! 魔術理論の基本だッ!」

「うん、その通りなんな。あっしの考えた『調理魔術』は、所詮机上の空論だった。才能の無いあっしには無理な話だったのな。でも今なら……今のあっしには、力がある!」

 ハナミさんの迫力は本物だった。机上の空論、実現不可能なはずの『調理魔術』とやらも、現実にしてしまえそうな雰囲気があった。

 でも何故だろう。ハナミさんは迷っている。彼女の心は揺らいでいる。魔流眼を持たない俺にも、それは分かった。


「……駄目だ! そんな心で人術を使うな! ハナミさん、今からでも遅くない。落ち着いて、イメージを取り払うんだ! 本来あるべき姿を想像して下さい!」

 俺は本心から警告した。このままだと取り返しのつかない事になると気付いたからだ。

「何を言ってるのな。あっしはもう逡巡しない。戦わないと、アズキの命は……」

 そう言うハナミさんの表情は言葉と裏腹だった。彼女は俺達と戦うのを後悔している。

 でなければ、ハナミさんが自分の口から状況を説明したり技を説明したりはしない。あれは罪悪感の表れだ。『サーフェス・キッチン』で俺を無力化した時も、いつでも殺せるはずなのに殴る蹴るをしただけだった。あれも、俺の命を奪う事に躊躇しているから。そうなんだろ?


 だったら、自分の気持ちに嘘を吐かないでくれ。迷った心では、人術は使えない。人術とは、そういう技なんだ。

 人術は想像を現実に変える力。人間の過大解釈の行く末。それ故に、イメージに大きく左右されてしまうリスクがある。イメージが確固たるものなら人術も強力になり、逆に曖昧なイメージなら失敗する。それどころか、過大解釈にブレーキをかけられなくなって危険な結果を招きかねない。

 ハナミさんは人術に失敗し、自分を傷付けそうになっていた。あれは、彼女に迷いがあって想像が揺らいでいる証拠だ。

 方向性の定まらない感情を振りかざしているのなら、人術を使っちゃいけない。そんなの人術使いにとって常識だ。でも、つい最近人術を使えるようになったハナミさんは、それを知らないはず。グリミラズはきっと……基礎的な事を何もハナミさんに教えていない。


 人術を解除する方法が分からない、とハナミさんは言っていた。簡単な話だ。想像で人術を生み出すのだから、頭を空っぽにすれば人術の発動は止まる。落ち着いて、ボーッとして、集中を解く。それだけでいい。過大解釈をやめて、普通に物事を見れるようになればいいんだ。

 それすら知らないのだから、やっぱりハナミさんはグリミラズから重要な事を聞いてない。ただ力を与えられ、使い捨ての駒として派遣されただけだ。俺を強くするため……俺に殺させるために、奴はハナミさんを利用した。


 許せない。それ以上に、ハナミさんが迷いながら戦う姿は見たくない。

「お願いです……ハナミさん。本当に取り返しの付かない事になってしまう」

「説得しようったって無駄なのな。誰も犠牲にならない道なんて無いのな。だったらあっしは命を天秤にかける」

 俺が懇願しても、ハナミさんは聞く耳を持たない。まるで自分に言い聞かせているようだった。「戦わなきゃ駄目だ」と。

「だからお願い! 今度こそ! 調理魔術、『ハース・ウィンズィカル』……」

 ハナミさんが魔術名を叫ぶ。その直後、彼女の体から炎が湧き上がった。


「っ!?」

 ハナミさんは右肩の炎に視線を向けて、苦悶の表情を浮かべた。

「あっ、あああああああああ!! 熱い! 熱いいいいいいいいい!」

 彼女は青い炎に身を焼かれ、床に倒れた。転がり回って火を消そうとするが、炎は勢いを増すばかりだった。

「ハナミさん!」

 俺は咄嗟に水魔術を使ってハナミさんに浴びせた。俺の出せる水は少ないけれど、ずっとかけ続けていたらやがて火は消えた。シューシューと音を立てて、ハナミさんの体から水蒸気が溢れる。


「あ……あうっ……」

 ハナミさんは四つん這いになっていた。火傷が酷くて立ち上がれそうにはない。痛々しい彼女の声は聞くに耐えなかった。

「任せろッ!」

 ワントレインはハナミさんの肌の焼けていない部分に触れた。『マジックフロウ・インヴェイダー』でハナミさんの治療を始める。徐々に徐々に、火傷は癒えていった。


「大丈夫ですか、ハナミさん」

 俺はハナミさんに手を差し伸べた。ハナミさんは俺を一瞥した後、さっと目を逸らす。

「ごめん……ごめんね二人とも。あっしは君達を殺そうとしたのに……」

「助けるのは当たり前じゃないですか。俺もワントレインも、ハナミさんに死んで欲しくなんかありませんよ」

 そうだ。こんな戦いがそもそも間違っている。殺し合いなんて誰も望んでいないんだ。

「あっしは……何も為せなかった。せっかく力を貰ったのに……」

 俯くハナミさんに、俺がかけられる言葉は無かった。奥の手の魔術も失敗し、ハナミさんの勝ち目は消えた。その敗北感と無力感は想像に難くない。だからと言って俺は……負けてやる訳にはいかないんだ。

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