第86話 「料理長の幻術キッチン」

 睡眠薬を盛られても俺が眠らずに済んだのは、解毒人術を発動させたからだ。フォクセルに毒を盛られた時の反省を生かして習得しておいた、体内の毒物を中和する人術。名前はまだ決めてないし、イメージも曖昧だけど、それでも睡眠薬を無効化するくらいの効果はあった。


 あのご馳走に睡眠薬が混ぜられていたなんて、今でも信じられない。ハナミさんは料理に誇りを持っていた人だ。料理を台無しにするような真似はしない人だ。

 そんな彼女が手段を選ばなくなる程に、状況は逼迫していたんだ。


「『サーフェス・キッチン』」

 ハナミさんは両手を合わせた。その途端、周囲の空間が歪んだように見えた。まだ寝ぼけているのかと思って目を擦ったけど、やっぱり視界に映る異様な光景は変わらない。


「……え」

 声を詰まらせる程だった。食堂は色を変え、曲がりくねり、全く別の物へと変貌する。巨大な植物が急に生えてきて壁を覆い、鮮やかな果実を実らせた。床が凹んで、そこに川が流れる。魚が飛び跳ね、それを捕まえる熊が現れる。熊は腹がこんがり焼けていて、香ばしい匂いを発していた。


 端的に言って意味不明だった。様々な動植物が現れては消え、また現れては消える。場違いな大自然がしきりに変化を繰り返す。まるで夢でも見ているみたいだった。


「キッチンはシェフのステージ。ここはあっしのための世界なのな。今の君は、まな板の上の鯉と同じ!」

 ハナミさんの声が響き渡る。おかしい。どこから聞こえているのか分からない。《千里耳せんりじ》で聴覚を強化しても、声の出所を掴めない。

 それどころか、ハナミの居場所も分からない。彼女の姿は見えているけれど、同時に何人ものハナミさんが別の場所に存在している。


 一体これは何だ? 分身? 高速移動? いや、もしかして……。

「幻覚か!」

「当たりなんな。でも分かった所で対処出来なきゃ意味ないのな!」

 その声と共に、俺は背中を蹴られた。慌てて俺は振り向く。そこには誰もいなかった。代わりに、ハナミさんの足だけが宙に浮かんでいた。

 手を伸ばして足の上の空間を触ってみる。俺の手は空気を撫でるだけで、そこにハナミさんはいない。


 どうなってるんだ。視覚だけじゃなく、聴覚や嗅覚、触覚までもがまともに機能しない。単なる幻視の魔術ではないらしい。

 完全にお手上げだった。戦うどころか現状を把握するのすら不可能だった。人術で五感を強化しても、その五感が正しく機能しないんじゃ意味が無い。

 『マジック・ネグレクター』で無効化するのも無理だった。あれは魔術のベクトルを理解してないと使えない。初見の魔術相手には通用しない技だ。


 しかし妙だ。これがハナミさんの魔術だとして、俺はいつそれを食らった? 精神魔術の一種だとしたら、何かを介してでないと対象の精神に干渉出来ないはず。例えばエムネェスの『アルコホリック・パーティー』なら、酒の匂いを介して対象の精神を操る。どんな魔術も、発動させるためには条件が何かしら必要なはずだ。

 俺はハナミさんに何もされていない。もしかして、彼女が手を合わせた時の音が魔術の媒体か? そう仮定して耳を塞いでみたけど、やっぱり周囲の異様な光景は消えない。この幻覚を起こしている原因は『音』ではないらしい。


 考えろ。考えろ。ハナミさんはいつから攻撃を仕掛けていた?

「……もしかして、最初から」

 俺に料理を振る舞った時から、既に。

 睡眠薬の他にも何か混ぜられていた? 幻覚を起こす毒とかを。いやでも、そうなると俺の解毒人術が効果を打ち消しているはずだ。矛盾してしまう。

 俺の体内に毒は無い。なのに、俺の食べた物に幻覚を起こす物質が含まれていた? そんな事ありえるのか。そんな食べ物なんて存在するのか。


「毒じゃ、ないのな。だから解毒しても意味無いんな」

 どこからかハナミさんの声が聞こえる。腹を殴られたような痛みを感じて俺はよろけた。「殴られたような」としか言えないのは、ハナミの腕なんてどこにも見えなかったからだ。


「毒じゃない?」

「そう。睡眠薬を克服する術を持っていても無意味なのな。あっしの魔術は『栄養魔術』。食べ物に任意の栄養を付与する魔術なんな。アレイヤ君がさっき食べてくれた食事には、あっしの魔術を込めてある」

 栄養魔術? 聞いた事ない魔術だ。ハナミさんが独自に開発した魔術なんだろうか。

「でも、それなら食べた瞬間に効果が発動するはずじゃ……」

 食べ物が魔術の伝達役だったとして、普通は精神魔術の効果は即発動するだろう。もしや時間差で発動する精神魔術なんだろうか。

「いいや。あっしの『サーフェス・キッチン』は消化中の食べ物に後から付与する精神魔術。使ったのは、さっきなんな」

「さっき? 魔術名を呼んだ時ですか? 食べ物に付与する魔術なのに、俺が食べた後に?」

「そう。あっしの魔力一つで発動し、何の変哲も無い食べ物に栄養が後付けされるのな。どんな料理でも、誰が作った料理でも。栄養の効能は色々あるのな。例えば、五感を狂わせる栄養だって摂取した事に出来たり」

 それは……ちょっと便利すぎないか。食べ物を口にした人なら誰にでも作用する精神魔術って事だろ? 『アルコホリック・パーティー』のように酒の匂いを嗅がせたり飲ませたりする必要も無い。自分が用意した料理でなくとも、『何かしらの料理』であるだけで魔術の媒体になってしまうのだから。都合の良い後出しジャンケンにも程がある。


「毒みたいに『余分なもの』なら、解毒の手段があるかもしれない。アレイヤ君は人術って技を使えるんな? それを駆使しても、きっとあっしの『栄養魔術』は消せないのな。だって栄養は余分じゃないから。毒じゃない物体を解毒するなんて無理なのな!」

 それは正鵠を射ていた。人術は人の解釈によって生まれる。俺が『体内の異物を排除する技』として解釈して人術を生み出したなら、それは異物以外は排除出来ない技として完成する。体にとって必要である栄養は、人術で無効化出来ない。

 いや、理論上は栄養を消滅させる人術も編み出せるはずだ。でも、そんなものを使ったら最後、俺の体内に必要な栄養が消えてしまう。それは死を意味していた。


 都合の良い物質だけ体内に残して都合の悪い物質だけ排除する……なんて器用な真似は難しい。定義の困難な現象は、魔術でも人術でも再現が難しいんだ。


 八方塞がりだった。打開策が思い付かない。五感を狂わされ、抵抗すら許されず。今の俺は、調理されるのを待つばかりの食材のように無力だった。

「ハナミさん……!」

「ごめん……アレイヤ君。今のあっしには、これしか道は無いのな……」

 彼女の声は霞んで、よく聞こえない。どこから彼女が来るのかも分からない。ただ、俺が殺される寸前なのは理解出来た。


 ここまで……なのか?

 いや、一つだけ方法があるかもしれない。栄養が俺に異常を及ぼしているなら、消化中の食べ物を全て吐き出せば良い。

 間に合うかは分からない。でも試さずに諦めるのは嫌だ。

 駄目で元々。俺は口に手を突っ込んで嗚咽感を無理矢理引き出そうとした。


 その時。


「失礼するッ! 実に香ばしい香りが漂っているなッ! 休日にも食堂が開いているとは驚きだッ! 良ければ、オレのために昼食を作って頂きたいッ!」


 耳を壊しそうな大声だった。聴覚が狂っているせいか? いやむしろ……狂った聴覚でもハッキリ聞こえるようなこの声は、あいつしかいない。

「……むぅッ? そこにいるのはアレイヤではないかッ! 何をしているのだッ?」

 声の主の姿は見えない。だけど誰なのかは知っている。二人っきりの食堂に、乱入してきた三人目。

 ワントレインが、来てくれた。

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