第78話 「無名の天才魔術師」
海に潜り、目を開く。暗い水中でも、俺なら敵の姿をハッキリ見えた。
「愚かな。陸に生きる人間が、海で人魚に勝てる訳無かろう!」
シアンリの声は鮮明に聞こえる。俺の耳が良いからという理由だけじゃない。彼女はきっと、水中でも何不自由無いような体になっている。
シアンリの人魚化に心当たりはあった。役割追従魔術『アイ・ワナ・ビー』だ。獣のような力を得たキョウカと同じく、シアンリは今『人魚』の役割を演じて魚類と同等の遊泳能力を得ている。
しかし、体が実際に変形する程の役割追従は通常なら起こり得ないはずだ。シアンリの魔術は常識を超えている。
『アイ・ワナ・ビー』だけでなく、シアンリの水魔術もだ。町を海に変える程の大量の水を生み出すなんて、あり得ない。無数の水滴にそれぞれ別の動きをさせるなんてあり得ない。通常の魔術の限界を、シアンリは易々と超えていた。
シアンリの魔術は強すぎる。だけれど、このレベルの実力者なら名が知れてもおかしくないはずだ。なのに、俺はシアンリを知らなかった。
エムネェスの態度を見る限り、彼女もシアンリを知らなかったのだろう。これはとういう事だ。五つ星レベルの魔術師が、無名だなんて。
「溺れるがいい!」
シアンリは迅速にまっすぐ俺の元へ泳ぐ。人魚の尾を持たない俺は水中でまともに動けず、シアンリに弄ばれるがまま。
……なのだと、彼女は思ったかもしれない。
俺は水を蹴り、シアンリの突進を避けた。彼女は誰もいない水中を掴む。
「……!?」
避けられるとは想定してなかったのだろう。シアンリは明らかに狼狽えていた。
俺はその隙に水中を素早く進み、シアンリの背後に回る。
「何故だ! 人間がそんな速く海を泳げるはずがない!」
シアンリは振り向き、俺をじっと睨む。
「そう思うか?」
俺は再び水を蹴った。シアンリより速く前へ進み、彼女の腹を殴る。シアンリは海に血を吐き、思いっきり後ろへ仰反る。
水中でこんな強力な一撃を放つのも、走るように前へ進むのも、あり得ない事だ。何故なら水中で動けば水の抵抗を受ける。動きは遅くなり、攻撃もスピードを殺され弱くなるはずだ。
魚が素早く動けるのは、泳ぎやすい体型と進みやすい泳ぎ方を有しているからであって、それを持たない人間が海を歩けば、同じように速くは進めない。
だけど人術は不可能を可能にする。
これが《
《
人の泳ぐ能力を過大解釈した《
それまでに決着を付ける。
「おのれぇ! グリミラズ様の寵愛を受けぬ餌ごときが!」
シアンリは口元の血を押さえつつ、俺から逃げた。形勢を立て直そうとしたのか、高く浮上して水面から顔を出した。
「今だ! エムネェス!」
敵が撤退に集中している今が逆にチャンスだ。俺は水中から地上に叫んだ。
俺の声はシアンリのように鮮明に響かない。だからエムネェスには聴こえていないだろう。でも、以心伝心だったようだ。
「オッケー! 任せなさい!」
エムネェスは屋根の上で酒瓶を開けた。彼女の精神魔術『アルコホリック・パーティー』が付与された酒。飲めば当然ながら、嗅ぐだけでもエムネェスの虜となる。
エムネェスは酒をシアンリに向けて撒いた。水面から顔を出していたシアンリは、酒を目一杯浴びてしまう。
「何だこれは。臭っ……酒か?」
シアンリは顔をしかめて激しく左右に振った。
「臭いなんて失礼ねぇ。お子様には分からない香りかしら?」
エムネェスは酒瓶の蓋を閉めた。何をされたのか分かってなさそうなシアンリはすぐに苦虫を噛み潰したような表情をする。
「くっ……何をした! 目眩が……眠気も……」
シアンリのふらついた立ち泳ぎを見れば分かる。彼女は既にエムネェスの酒に酔った。作戦成功だ。
「んー効いた? でも、もう一押しみたいね」
念には念をと、エムネェスは再び酒を開栓した。トドメとばかりに魔術酒をシアンリにぶちまける。
「戯けが!」
だが、二度も食らうかとばかりにシアンリは抵抗した。彼女の生成した水が渦となってシアンリを囲み、水の鎧を作る。エムネェスの酒は全て水に溶け、シアンリに届かなかった。
「あらやだ。水割りにされちゃったら酔えないわよね。美味しくないのよねぇ、水割り」
冗談交じりにエムネェスは言った。これ以上は無理だと悟って、エムネェスは下がる。
ありがとう、エムネェス。後は俺の出番だ。
シアンリは十分精神魔術の干渉を受けている。酩酊してまともに戦える状態じゃない。いくら優れた魔術師でも、調子が狂えば隙だらけとなる。
シアンリは少しでも酔いを覚まそうとしたのか、海を飲み始めた。普通の海なら飲んだら死にかねないが、ここはシアンリが作った純度の高い水の空間。塩分は少ない。
だが《
俺は一旦潜って『助走』の準備をする。深い位置から水面に向けて、思いっきり水を蹴る。
《
「!?」
シアンリは俺の突進に気付き、慌てて反撃しようとする。だが遅い。
俺の体はシアンリを吹っ飛ばし、『海』の遥か上へと跳ね上げた。さながら芸をするイルカのように飛ぶシアンリ。人間の声とは思えないような悲鳴を上げていた。
殴りもしない。蹴りもしない。水中から引き剥がし、空へ向けて吹っ飛ばしただけだ。それが狙いだ。
町を水に沈めたシアンリの具現化魔術は、いくら天才的な技量を持っていたとしても具現化魔術である事には変わらない。ならば、この法則にも従わなければならない。
『具現化したものは使い手から離れる程小さくなり、やがて消滅する』という法則に。
そもそもおかしいと思ったんだ。この町は盆地ではない。むしろ周囲より海抜高度は高い。大量の水を作り出したとしても、それらは遠くまで流れ、四方八方に広がり、水深は低くなるはずだ。ずっと辺りが水に沈み続けているなんて起こりえない。でも現に町は数分間も一定の水深で沈み続けているのだから、この町より低い陸地全てが一瞬で水に沈んだ事になる。そんな馬鹿な。
だが、これが具現化魔術である事を鑑みれば矛盾は解消される。シアンリを中心として生み出された『海』は、一定以上離れた箇所で消滅しているんだ。つまり遠くからこの町を見れば、巨大な巨大な水の塊が重力を無視して地面に立っている光景が映るだろう。それはそれで不自然な光景だが、シアンリの水魔術が重力に抗う圧力を発生させているのは最初に確認した通りだ。
消滅した分だけの水を、シアンリが常に再生成するとしたら。実に効率的で強力な災害の魔術だ。もっとも、それが可能なのはシアンリの常識外れな才能故だけど。
さて、前後左右に離れた『海』が消えるのなら、当然上下に離れても消えるはず。『海』の外に弾き出されたシアンリは、もう海の支配者たる力を失っていた。
「見て! アレイヤ」
屋根の上のエムネェスがゆっくりと降りていく。思った通り、シアンリが空に飛ばされた途端に水深はどんどん低くなった。
やがてシアンリは喚きながら落下する。魔術の使用者が戻ってきても、一度消えた水がすぐに復活する事はなかった。
浅い川程度まで縮小した、シアンリの『海』。溺れた人々は解放され、皆一目散に逃げて行った。
「わ、我の海が! こんなにも浅く!」
ようやく事態を理解したらしいシアンリは、高い呻き声を鳴らして水面を掻いた。もう、同じ規模の水の再生成する力は残っていないらしい。
「終わりだな」
勝負は決まった。泣きそうな声で浅い水に縋るシアンリは、浜辺に打ち上げられた魚のようだった。
俺はシアンリへと一歩踏み出す。その時。
俺の腿を弾丸が貫いた。
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