能楽物語 その壱【井筒】

浮世坊主

第1話

 奈良の七大寺を巡り終えたのは、ちょうど村を離れてから二十日あまり経ってのことであった。

 法隆寺の住職と四方山話よもやまばなしに花を咲かせていると、いつしか日もとっぷりと暮れてしまった。

 「今宵こよいはどうぞ我が寺にて」

 住職の勧めに、慈雲はかたじけなくも宿を借りることにした。


 「これはこれは。早やおでか」

 翌朝、まだ朝日が東の空に昇りきっていない時刻。慈雲は既に旅の支度したくを終えていた。

 驚く住職に向かい、慈雲は丁寧に合掌がっしょうをした。

 「数々のおもてなしに感謝いたします」

 「これからは何処いずこへ」

 住職の問いに、慈雲は手にした笠を目深まぶかかぶりながら静かに答えた。

 「さて・・・・・・長谷寺はせでらにでも向かおうかと」

 言い終えた慈雲は、しばし名残惜しそうに自身を見つめる住職に対し、もう一度、深々と合掌をした。

 「道中、くれぐれもお気をつけて」

 「御坊ごぼうも、お達者で」

 やがて法隆寺を後にする慈雲。杖の先に付けられた鈴の音が、早暁の参道に響き渡っていた。






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